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カナ表記について
こんにちわ☆ わたしはこちらのQ&Aに投稿するときに、たまに「意識的」に漢字、あるいはひらがなで表記するべきところをカタカナ表記することがあります。 自分としては軽い強調であったり、軽いユーモア表現のつもりだったりします。使うようになったきっかけは、おそらく椎名誠さんの初期の軽妙なエッセイあたりにあるように思います。なのであながちわたし個人の感覚だけではないようにも感じます。 ただ、カタカナ表記に変えることで、ナゼこのような心の働きが起こるのか、というのが疑問です。同じような感覚をお持ちの方、おられましたらご教示お願いいたします。
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質問者さんは椎名誠の影響ですか。 私は坂口安吾かな。 あなた、「椎名誠さん」と「さんづけ」で呼びましたね。 お知り合いでしたら「さんづけ」はうなづけるところです。 しかし、単なるファンだったとしたら、このさん付けは「女房言葉のようなもの」じゃないかな。 チョッと上品に聞こえます(^_^)。 男なら間違いなく呼び捨てでしょう。 さて、カタカナは、なぜ砕けた軽妙な語り口に似合うのか? 日本語では、擬声語擬態語がカタカナで表記される慣行があります。 オノマトペというものは、一つの砕けた表現の仕方ですから、普通の言葉もカタカナで書けば【チョッと】そんな感じになるんじゃないでしょうか。 坂口安吾「 無毛談 ――横山泰三にさゝぐ――」青空文庫ヨリ =============================== 百人の知人があれば、百ぺん言われるもので、もう、バカ云え、とは言うわけに行かない。非常に卑屈になるもので、ニヤニヤ ... ウム、ハゲちゃった、アハハハハ、などゝバカみたい。これを逆に女の方からやられると、ベソをかきそうな顔になる始末である ... ===============================
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昔は、漢字とカタカナの文は堅苦しくて、読みたくない文と決まっていました。 数学の問題文や漢文読み下し調のやつなんかそうです。 しかも正式な文章には、句読点、濁点がないから声を出して読むのも大変で、意味を理解するまでにはなかなか至りませんでした。 教育勅語 http://kan-chan.stbbs.net/docs/chokugo.html 戦後は平仮名全盛となり、下のようなくだけた文でも、カタカナばっかりの文は読みにくくなってしまいましたね。 「カタカナについて」 伊丹万作 http://novel.atpedia.jp/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%8B%E3%83%84%E3%82%A4%E3%83%86-%E4%BC%8A%E4%B8%B9%20%E4%B8%87%E4%BD%9C/page/587.html 今が平仮名全盛の世の中ですから、文の一部にワザとカタカナを入れることがアクセントになったりするんでしょうね。 >なんとなく直線的でトンガっていて視覚的なシゲキのようなものを感じます。 う~ん、あるかも知れないねえ。ただ自分ではそのような使い方をしたことはありません。 今の日本で、「ボカシ」「マイルド化」「はぐらかし」のためのカタカナ表現が増えてきたのは問題だと思っています。 カタカナ語という奴ですがね。 ホームレス、ハローワーク・・・など。こんなのは浮浪者、乞食、職安とハッキリ書いた方が、問題の解決のためになると思うんですがね。 またまた脱線してきました。退散します
お礼
「教育勅語」、読まないまでも、見た段階でメマイがしてきます。そう言えばだいぶ前にだれかのエッセイを読んでいたら教育勅語のパロディ?が載っていました。多分戦時中とかに子どもたちがこっそり口にしていたんでしょうね。「朕惟フニ屁ヲタレテ汝臣民臭カラウ御国ノ為ダ我慢セヨ」みたいな内容でした^^。 伊丹万作(ここでは「さん」をつけません)の文章もそれ自体としてとても面白かったです。視覚的なイメージとしてはわたしに似たものをお持ちのようでしたね。特に楷書とひらがなの不似合いという点は面白い発想だな、と感じました。 >今の日本で、「ボカシ」「マイルド化」「はぐらかし」のためのカタカナ表現が・・・ この点についてはわたしの世代(所謂、「アラサー」とかいうヤツ)としても大いに納得できます。こういう言葉に対しては、じぶんの頭のなかの「自動翻訳機能」がちゃんと働くようになっています。 P.S. 削除されない程度の脱線は大歓迎です♪また機会がありましたらヨロシクお願いします(^-^*)
お礼
ご回答ありがとうございます。 buncha3さん、こんにちわ☆ ワタシ女です、ハイ。特に椎名誠さんのファンという訳でもないんですけどね、アウトドアつながりというか、そういった方面の興味で読むことはあります。初期の「昭和軽薄体」もいま読むとさすがにちょっとなぁって感じです。 でも指摘されてフト思いましたが、わたしが作家などを呼ぶときに、呼び捨てにする場合と、さん付けで呼ぶ場合があるのですが、その線引きの境界がどのへんにあるのか、ちょっと気になりました。(たしかに坂口安吾「さん」とは呼びませんものね。) オノマトペ説はなるほどな、という感じがします。引用いただいた文章を読むと「ニヤニヤ」と「バカ」「ベソ」など、境界線があいまいな印象がありますね。 一方で、これまたフト思いましたが、カタカナというのは通常の漢字かな混じり文の中に突然現われると、意表をつかれる、という感じもします。「軽い強調」ということで考えると、それもアリのような気がしませんか?なんとなく直線的でトンガっていて視覚的なシゲキのようなものを感じます。