こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
>>御台様御膳所組頭相勤申候
(1)御台様・・・将軍の正室を言います。
安政3年(1856)ですと、13代将軍徳川家定の時代。
そして、御台様(正室)は、継々室(3番目の正室)の天璋院篤姫ですね。
(2)御膳所組頭・・・御台様の食事を作る御膳所・・・つまり、台所の組頭。
(3)相勤申候・・・その役職を勤めました。
(4)御台様御膳所組頭相勤申候・・・公方様の正室の御膳所の組頭を勤めています。(または、勤めていました)。
(5)ちなみに、将軍様の御膳所掛りは、公方様御膳所掛り、また、組頭であれば、公方様御膳所組頭と呼ばれました。
江戸時代、将軍のことは「将軍様」とは絶対に呼ばず「公方(くぼう)様」または「大樹(たいじゅ)様」「御公儀(ごこうぎ様」と呼んでいました。
(よもやま話)
(1)将軍と御台様や側室の食事は、毎回10人前作られ、その内2人前を御膳所組頭の配下の「(御)毒見役」が盛り付けられた品々を少量ずつ食べて毒が入っていないか、あるいは、腐ってはいないかを確かめます。
(2)毒見役のOKがでると、御台様(公方様も同じ)の前に2人前が運ばれます。
(3)御台様(公方様も同じ)は、一つの膳に盛り付けられた品々は、二箸しか口にせず、「お代わり」と称して、傍にはべる者が、もう一つの膳の品と取り替えて出されました。
(4)10人前作って、2人前は毒見役、2人前が御台様(公方さま)の前に、1人前は組頭、残りの5人前は、御膳所(台所)の者が(ありがたく?)いただきました。
(5)公方さまの朝食には、味噌汁に落とし卵が定番でした。また、必ず、魚の「鱚(きす)」が出されました。これは、「喜」という字があったため、喜ばしい魚と縁起かつぎをしました。
(6)天璋院篤姫は、夫である家定が死亡してから、14代家茂の代になり、和宮が正室となるが、しばらくは嫁と姑の間柄がうまくいかず、心労の日々が続きました。そして、篤姫は実家である薩摩藩邸へ、
「故郷の赤味噌を送ってもらってください。赤味噌でないと、食事が進みません」
と、書き送っています。
お礼
早速の、詳しいご回答ありがとうございます。 歴史にお詳しいだけあって、私の求めていた以上の、 内容でした。本当にありがとうございました。 これからも、何かのご縁があるかもしれません。 その節はどうかよろしくお願いいたします。