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仏の対応
仏のように高み(敢えて「高み」という表現を使っていますが大意はありません)にいる人に対して どうにかしてボロを出させようとする人にはどのように対応するのですか? 怒らない人をどうにかして怒らせようとか 泣かない人をどうにかして泣かせてやろうとか する人っていますよね。
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- 来生 自然(@k_jinen)
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どうもかみ合わないようなので「補足要求」としておりましたが、誠実にはご返答いただけないようですので、ある程度、推察を含んでの記述とさせていただきます。 >>> 人が殺されることがダメなことも分からない人 <<< ダメなことが判っているからこそ、そうしてその人が仏陀のごとく誠実なひとであるからこそ成り立つ「死を賭しての対決」をも辞さないのが「仏」だと説明したつもりです。 たとえばガンジーが「人が殺される」ことをダメだと知っているからこそ、そういった事態を極力避けようとして極限の状態にても「自らの死をかけて」(他者を死から守ろうとして)いることは、先に引用させていただいた 「聖者」ガーンディーと真実(宮元啓一)http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/gandhi.html の、 >>> 「サッティヤーグラハは、根本的には誠実な人の武器である。サッティヤーグラハ運動者は非暴力を誓っている。そして人々が思想と言葉と行為とでそれを守らないかぎり、わたしは大衆的サッティヤーグラハを提唱するわけにはいかない。」(『自叙伝』三四四ページ) <<< に、強く現れています。 >>>お礼欄より 多分、なめられたと思って殴りかかってくるでしょうね。 でも仏はケンカも強いみたいなので返り討ちでしょうけど・・・。 僕はケンカは弱いので、参考になりませんね。 <<< 仏や聖者と呼ばれるような人は、喧嘩はしないでしょう。むしろ弱いのではないかと思われます。(キリストにしても捕まって十字架を背負わされています) でもどうしてferpeausさんは、「仏はケンカも強いみたいで返り討ちでしょうけど」と、さも知っているかのように仰るのでしょうか? それは、ferpeausさんの「仏」という概念に対する思い入れが映し出されているのでは無いでしょうか? >>> おちょくる人はそれなりの反応がないとエスカレートすると思います。 <<< これはどうでしょう。 「反応する」とおもうからこそ、エスカレートするのではないでしょうか? 逆に言えば、ferpeausさんが「仏」という概念を通した向こう側に、「やったらやり返してくる」、「目には目を・歯には歯を」と唱えている「モノ」を見ておられるのでしょうか? もし、そうだとすると、それは「仏」という概念からはほど遠いと思われます。
- hakobulu
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#10です。 >おちょくる人はそれなりの反応がないとエスカレートすると思います。 :たしかにありますね。 黙っていればつけあがる、ということは。 ですから 『仏ともなれば、おちょくられた【程度で】痛くもかゆくも感じないはずですしね。』 と申し上げました。 仏の対処ではなく、人間の対処であればまた違ってきますよ。 相手の程度に合わせて受け止め、対処するのが有意義でしょう。
お礼
ご回答、ありがとうございました。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
おちょくった者の心情を推し量り、静かに見守りつつ、その矮小さを共に悲しむ。 といったところでしょう。 仏ともなれば、おちょくられた程度で痛くもかゆくも感じないはずですしね。 そのぐらいで腹を立てるようであれば、似非仏でしょう。
お礼
おちょくる人はそれなりの反応がないとエスカレートすると思います。 ありがとうございました。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
>>> No4のお礼欄 無抵抗のまま殺されてしまった人も多くいますよね。 <<< そのとおりです。 ガンディー自身も「暗殺」されています。 >>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC ガンディーはヒンドゥー教徒だけでなくイスラム教徒にも影響を与えている。(中略)1948年1月30日、ガンディーはニューデリーのビルラー邸で狂信的なヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の一人ナートゥーラーム・ゴードセー(नाथूराम गोडसे)らによって暗殺された。78歳であった。 3発のピストルの弾丸を撃ち込まれたとき、ガンディーは自らの額に手を当てた。これはイスラム教で「あなたを許す」という意味の動作である。そして、ガンディーは「おお、神よ」(「ヘー ラーム हे राम」)とつぶやいて事切れたという。国葬が行われ、遺灰は、ヤムナー川とガンジス川に撒かれた。 <<< 「ガンディー主義は成り立つか」 >>>http://homepage3.nifty.com/bunmao/0236.htm ガンディーの言う非暴力無抵抗とは、そういう事態になっても、それでもはっきり自分の反戦平和主義を主張し、もし死刑にされるのならば、されてもよい、という覚悟を持つことが第一の前提となる。 第三者的な立場で、ぬくぬくと何もせずに、言葉の上だけでガンディーの精神なんて言っている宗教者は、一体どれだけの覚悟でそう言っているのだろうか。もし日本が一億総動員の翼賛体制になったら、そういうときでもあなたは非暴力で戦争反対を貫けるのですか。特高に付け狙われ、「アカ」「非国民」と世間から指弾され、逮捕拷問され――それでも、自分個人だけならばまだ耐えられるかもしれない。でも、家族までもが「非国民の母」「アカの子」として爪はじきされ、泣き暮らさなければならなくなっても、それでもあなたは非暴力、戦争反対を貫けますか。 ガンディーが要求しているのはそのようなことだ。決して自分はぬくぬくと安全なところにいて、他人を批判することではない。それは命がけの戦いだ。非暴力無抵抗ほど強力な抵抗はない。 <<< 「聖者」ガーンディーと真実(宮元啓一)から引用 >>>http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/gandhi.html 非暴力・不服従をその手段とするサッティヤーグラハ運動は、世界中に影響を及ぼした。とくに、一九六〇年代、アメリカ合衆国で、アフリカ系アメリカ人の地位向上を目指す公民権運動を指導したキング牧師が、非暴力を闘争手段として高く掲げたことはよく知られているところである。 (中略) 真実、魂の力、これらのものへのガーンディーの思い入れはなみたいていのものではない。そしてそれらを貫き通すことは、ガーンディー自身にとっても容易なことではなかった。したがって、ふつうの人間の集まりである大衆にとっては、なかなか守りきれるものではなかった。しかしそれでもなお、ガーンディーは、大衆にも、かなり厳格なサッティヤーグラハを要求した。そのため、インド独立運動のさなか、サッティヤーグラハ運動は、提唱者ガーンディーその人によって何回も突然に中止を宣言された。かれはいう。 「サッティヤーグラハは、根本的には誠実な人の武器である。サッティヤーグラハ運動者は非暴力を誓っている。そして人々が思想と言葉と行為とでそれを守らないかぎり、わたしは大衆的サッティヤーグラハを提唱するわけにはいかない。」(『自叙伝』三四四ページ) <<< >>> No4のお礼欄 それじゃぁダメじゃん。 <<< 何が「ダメ」なのかが、良く分かりませんので、ご教示願います。
お礼
誠実な対応をするのに嫌気が差し、疲れました。 人が殺されることがダメなことも分からない人に回答して頂かなくて結構です。 ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.6&7です。 ★ どっちにしても、質問にあるような人に対して仏は感情を逆撫でしエスカレートするようなことを言うのですね。 ☆ 失礼しました。到りませんでした。 ★ 仏は・・・ ☆ 《仏》ではありませんで――それ以上に偉いと看板を掲げましたが―― こういう仕儀にあい成ったと存じます。 まづは 言い訳までです。
お礼
wanekozさんの見解 「相当ひどい内容の言い回しを出しても構わないと」 どんな条件と併せても「ひどくても構わない」とはなりません。 悪くても良いという意味であり爬虫類の猫と同様です。 「ひどい内容の言い回し」は成り立ちません。 内容と言い回しは別々に同時に存在するからです。 つまりひどいのは内容か言い回しか両方か判別できません。 また、「言い回しを出す」という日本語はありません。 「互いの反応をすぐに見て取るわけには行きません。」 は現実と逆なので間違いです。 これだけでじゅうぶんでしょう。 そのいわゆる解答は意味を伝えるための作文ではなく わざとむちゃくちゃを書いたものです。 amazo007さんの見解 何かの宗教の教団に属して修行中のひとが他宗や無宗教のならずものにからかわれた時にどんな対応をするべきかということのようです。 このひとにはひとつのモットーがあるようですが、そういった状況で直接相手と応答している時は相手の反応を探ってすぐ即応できるので、 売り言葉に買い言葉というような相手を打ち負かすような強い言葉も言える(3段階の酷さを例示する)、 つまり相手を人間扱いしないようなこともある。 >ですが このような質疑応答の空間においては ここがこの文章だけでは良くわからないのですが、実体験ではなく、教団内での試験のような状況が今始まっているようともとれます。 そういった場合は状況によりそれぞれの対応をするべきで、マニュアル的なゴールドパターンといったものはない、といっているのでしょうか。 しかし、いずれにせよ上述の直説法(じかせっぽう?このひとの自己流のやりかたでしょうか)は彼の属しているグループの内規に反しているので出来ない。 結論として、やはりまともなやりかたで、そのひとが自分から悪かったと悟らせるように説得するしかないのだろう。 こんな意味でしょうか。 >このような仮想現実の場でも 上記の”このような質疑応答の空間”の言いかえだと思います。双方に現れる”このような”が解けない限り謎としかいえないですね。 ともかくそのブラックボックスの中の入れ子だけはある程度ご理解いただけたようで結構でした。 ★やっぱり誠実に回答して頂いたとは思えません。 ご回答、ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.6です。こんにちは。 ★ ・・・どのように対応するのですか? ☆ の答えを書いたら その回答内容はたとえば ★ 僕に「退会しろ」と言っているのですね。 ☆ というふうに さらにそのあとの相手の対応にも及んでいるであろうと考えられたわけですね。 つながりはあるでしょうね。しかも果たしてどういう対応を わたしは自分の答えに含み促していたか いまこの期に及んで 意図していなかったと言うのですが どうなんですかねぇ。 と言うよりは わたしの回答が前提していた《相手》には あなたは入っていなかった(つまり入る入らないとは別だった)ので いまどう対処してよいか思案がつきかねていますが もしその前提していた相手に絞って考えるなら どうでしょうかねぇ。 もし人道上の問題を別にしてそのほかでは人間扱いしないのなら 《退会》するしないは わたし〔の回答やその中で示唆するような相手の対応〕とは関係ないですね。お好きにどうぞ ですね。 自己が自己に到来することなどは 示唆していますが その他に相手がどう対応するかについては 放っておきます。 ですから ○ 《退会しろ》とも《退会するな》とも言っていません。
お礼
僕が誤解したとすればこんな書き方をしたあなたが悪い。 >面と向かっている場合には >ですが このような質疑応答の空間においては >このような仮想現実の場でも > ですが 諸般の事情により――規約等のことです―― この直説法はかないません。 とあれば >いちばんひどい言い回しは 《永遠の火の中に行きなさい》です。その手前としては 《ほろびなさい》です。その手前は 《さがれ》です。 が僕に向けられていると思われても仕方が無い。 僕の読解力が低いのは頭のいいbragelonneさんであれば容易に想像つくでしょう。 であるならばあんな分かりづらい回答は遠慮して下さい。 どっちにしても、質問にあるような人に対して仏は感情を逆撫でしエスカレートするようなことを言うのですね。 ご回答、ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
ferpeaus さん こんにちは。 ブッダの立ち場でということはよく分かりません。ブッダより偉い考えに立てば 次のように考えるでしょう。 面と向かっている場合には 相当ひどい内容の言い回しを出しても構わないと考えます。それは 相手の反応をただちにその場で得られるという場合のことです。こちらの反応を 相手も見て分かるという場合です。 ですが このような質疑応答の空間においては 互いの反応をすぐに見てとるわけには行きません。このような場合には じっと相手の反応を見まもりつつ それぞれの反応内容に応じて対処するほかないと考えます。 要するに特効薬はなく決定版はないと考えます。 むろん相手の人柄やその時の状態によっても違うでしょう。 要は わたしは次を標語としていますが どうお考えになるでしょうか。 ○ わたしたちは人間を愛し欠陥を憎むのであって 欠陥ゆえにひとを憎んではならず ひとゆえに欠陥を愛してはならない。 ところが ざっくばらんに申し上げますが わたしの考えでは このような仮想現実の場でも けっきょくは面と向かって相い対している場合と同じように そうとうひどい言葉を投げかけて対処したいというつもりがあります。 いちばんひどい言い回しは 《永遠の火の中に行きなさい》です。その手前としては 《ほろびなさい》です。その手前は 《さがれ》です。 逆から三つ目の最後の言葉をかけてもらちが開かないときには 放っておきます。人道上の必要が生じたとき以外は 完全に放っておきます。つまり人間扱いしないという意味です。 ですが 諸般の事情により――規約等のことです―― この直説法はかないません。 とにかくその人の自己還帰をうながすように話しを持っていくしかないと考えます。どう思われますか?
お礼
僕に「退会しろ」と言っているのですね。 ありがとうございました。
お釈迦さまは魔に対して一切取り合わなかったそうです。 やればやるほど仏らしさの証明をするようなものです。 魔、が、かわいくてどうにもならない・・・ そんな風に見られたらおしまいです。 魔が魔でなくなってしまいます。 普通の人間同士で、これをやると、時として取り返しのつかない事が起きるものです。 普段怒らない人が怒って収拾のつかない事態が発生・・・てな事が起こりかねません。 人の心を刺激する事に喜びを感じる・・・魔の心です 誰の心にも潜んでいるかも・・・ 無視か正面衝突?か・・・は・・・ 私も時には正義漢になってみたいとは思うのですが・・・ いかんせん、年を取ったという最もな理由で回避してしまうのです。 何の事はない、ただ勇気が無いだけ・・・ と評価されている向きもあるようですが・・・。 魔を切ってしまう勇気があれば素晴らしいと思いますが ひとまずは、仏ぶって? 知らん振りをする事にしましょう。
お礼
なんかエスカレートしそうですけどね。 ありがとうございました。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
参考になるかどうかわかりませんが、 ガンジーのいわゆる「無抵抗・不服従」でしょうかね。 http://www.t-kougei.ac.jp/research/pdf/vol2-29-07.pdf http://www.geocities.jp/yamanob3/ee_page22.htm などが参考になると思います。 >>> http://www.geocities.jp/yamanob3/ee_page22.htm から一部引用 当初は"passive resistance" と呼ばれていた運動 Satyagraha (サチャグラハ) は、日本語では「無抵抗不服従運動」と訳されるようだが、その名の由来は、英語の呼び方では不十分ということでいろいろ仲間と考えた中「Sadagraha (Sat=truth, Agraha=firmness)」として提案された名前をガンジーが内容をより表にと Satyagraha に変えたのだそうである。 だからガンジー達は単に"passive resistance"というようには考えていなかった。 抵抗と言えば「武器を持って戦う」ことをイメージするとすれば、その対極としてガンジーの手段を"passive resistance"と表現することも出来るかもしれない。 けれどガンジーにとってはむしろ passive ではなく active なものだったに違いない。 <<<
お礼
無抵抗のまま殺されてしまった人も多くいますよね。 それじゃぁダメじゃん。 ありがとうございました。
仏さんに聞いた話では、仏さんから見れば、人々(=衆生)は子どものようなもの、だそうです。 だから、大人をからかったり、いたずらする子供をやさしく、幸せな気持ちで見る感じであると思います。危ないことをしない限りは大目に見てくれるんじゃないでしょうか。 ちなみに、他の仏さんは、親戚のように見えるそうです。
お礼
多分、なめられたと思って殴りかかってくるでしょうね。 でも仏はケンカも強いみたいなので返り討ちでしょうけど・・・。 僕はケンカは弱いので、参考になりませんね。 ご回答、ありがとうございました。
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お礼
>でもどうしてferpeausさんは、「仏はケンカも強いみたいで返り討ちでしょうけど」と、さも知っているかのように仰るのでしょうか? そういう回答を戴いたからです。 k_jinenさんとその回答者さんのどちらが正しいか?と言われても答えようがないし・・・。 僕の過去の質問を読んで理解して下さい。同じカテでそんなに遠くない位置にあると思います。 ご回答、ありがとうございました。