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ツール・ポアチエ間の戦いについて
キリスト教社会がイスラム勢を初めて打ち破った、「ツール・ポアチエ間の戦い」についてお伺いしたいと思います。 当時、圧倒的なイスラム勢に対してなぜ、カール・マルテルが勝利を収めることができたのか、調べているのですがあまり、すっきりとした回答を得ることができません。 もし、その理由もしくは参考文献まどおわかりになる方がいらっしゃったらお願いいたします。
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ポアチェの名前を初めて知ったのは1980年代にフランス政府が日本製のビデオの輸入量を抑える手段として、ポアチェのみで通関手続きを認め、自然に輸入量が減るようにしたときでした。フランスは8世紀にポアチェでアラブ軍を食い止めたが今度は日本製ビデオをここで食い止めようとしていると騒がれたものです。 ポアチェの戦いは国と国の戦いでもなければ、キリスト教社会対アラブ社会の戦いでもありません。国境で対峙することになった二人の領主(呼び名は正確ではないが)の私利私欲をかけた戦いに過ぎなかったといえると思います。 711年にスペインを占領したアラブ勢力はポアチェの戦いが起こったとされる732年頃にはもはや一枚岩ではなくスペインという土地に領地を得たものの主として納税義務などで総督や本国に不満を抱くものが生まれていました。彼らをなだめるためには総督は新たな戦いと領土の獲得が不可欠だったわけです。そのためピレネーを越えてフランク王国の南部を掠め取ろうとしたのでしょうが、どうしたわけか、ポアチェを攻めたアラブ軍は家族を同伴していたといわれます。あるとき、カール・マルテル軍が家族キャンプを襲ったことがきっかけとなりアラブ側の敗退になったといわれます。 このように実態は両軍が雌雄を決して戦ったのではなく局地戦に過ぎなかったようです。ポアチェで仮にアラブ軍が勝っていてもその後の歴史は大きく変わらなかっただろうと言われます。それはピレネーの北は森林が多く寒冷でアラブ人の定着できる土地ではないと見なされるからです。現にピレネーの大西洋側の山中にこもったキリスト教徒たちは、僅かな勢力だったにもかかわらずアラブ人は峡谷に興味を示さず放置した事が後の国土回復戦を許すことになり、1492年グラナダの陥落で約800年に及んだアラブのスペイン統治が終了しています。 参考文献 『アラブとしてのスペイン』余部福三著 第三書館刊 ¥2,500
お礼
早速、詳細な回答をいただき、ありがとうございます。 参考文献、読んでみます。