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多くの人が好きになれないこと

多くの人に会います。 ここでとか、社会で。そのなかで、1割くらいしか、感じのいい人だと思えないわけです。 こういう感覚、「大多数の人が好きになれない」と言う感覚と言うのは、どういうものでしょうか?普通の感覚なのでしょうか。だとしたら、ずいぶん人間と言うのは了見の狭い生物だと言うことにならないでしょうか。それとも、生物の了見と言うのはそんなもので、そのほうが都合がいいのでしょうか。

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noname#101110
noname#101110
回答No.7

人間という生物はひどく特殊ないきもので、多くの個体と(好き嫌いを別にして)つきあっていかなければ生きてはいけない宿命を負っています。蟻やら蜂なんかもその点では一緒かもしれませんが、高等生物になった分、一度切り離されていますから、この社会性というものは多分に不自然なものなんだろうと思います。一人一人が個を主張する中での社会性の強制は大変な苦労を人間に強いている状態だともいえます。 質問者様の >1割くらいしか、感じのいい人だと思えないわけです。 というご感想は、ある意味正直な感覚だと思います。普通の感覚なのではないでしょうか。ライオンなどは出会う同性(主に雄)は皆敵だと感じているらしいので、一割でも赦せそうな相手が見つかればおんの字でしょう。 >生物の了見と言うのはそんなもので、そのほうが都合がいいのでしょうか。 そうだと思います。他人は皆敵だと思い込むことは闘争人にとって安全サイドです。人間として生きていくにはそれからどうするかということが重要なのでしょう。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 社会性が人間の宿命らしいです。トラのように孤高に生きられればいいのにと私は感じます。その社会性たるや、やはり、強いられたもの、なにか強制された不承不承のものというプログラミングがありますから、やはり嫌いな存在と顔を付き合わせることが日常となる。

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  • vgy75thn
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回答No.10

現状で、のこりの人間たちは私にとって、意味のない、意味をもてない人形だから。 私に呼応することのない、過ぎ行く他人は、法のかかった動く人形。 情動的な関わりが、生命感を吹き込む。 人間と人間との狭間には、断絶と壁があって、「(正しくも、正しくなくも)通りたい(関わりたい)」願望の道が、間柄をつくっている。 ぼくの考え。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 壁は厳然と存在し、しかしそれを打ち破ろうとするエネルギーが人間の結びつきを生むかもしれません。

noname#89707
noname#89707
回答No.9

生物とかはあんまし関係ないと思うんですが、自分は、感じの悪い人と言うのをあまり見ません。そういう人を見た記憶がありません。 ただ、人を嫌うことは、残念ながらあります。 むかつくこともあります。 どっちかと言うと、自分の方がかんじ悪いと思われることもあるかなとも思います。 どちらかと言うと、感じのいい人ばかりしか遭いません。 気がふさぎこんだこともあるので、その時は、周りの人は自分のことを怖く思っていたかもしれません。 質問者さんは、文調から明るい感じがしますが、多くの人を好きになれなくてもそれ自体は問題ないと思います。結構みんな悩んだりしてるので、明るい顔がなかなか見られないこともあると思います。 ただ、悩みを抱え込むタイプの人は、日本人には多い気もします。 結構芯まで辛い気持ちを、多くの人は抱えているので、内気で言葉にならないこともあり、正直に打ち明けられなくて、苦労しているんじゃないでしょうか。誰か本当は、聞いてほしいな、と言う気持ちと、自分でがんばらなくては、という気持ちとの間で揺れているという事が、あるのではないかと思います。実際的な問題は、それを聴いてくれる人が居るのかどうか、ではないでしょうか。 人の話は、了見、領分の異なった点もあって、理解することも、深く話を聴くことも難しいですが、自分としては、自分の思い込みとかをなしにして聴いて、正直に答えてあげるのがいいのではないかと思います。

noname#105097
質問者

お礼

嫌うことと感じが悪いはほとんど同義だと思うのです。おそらく回答者さんは人間愛がそなわっているのでしょう。 人っていうのは、可変的なもので、その人ができる最高度の状況を維持できれば、それこそ本当に「いやな感じ」の人物は格段に減るわけですね。素直な人間のやり取りができることが本当に大事だと感じますね。

noname#91067
noname#91067
回答No.8

常識、非常識の見解、或いは「万有引力の法則」と同じで「好き嫌い、快不快の感情論は循環論」だからなのだそうです。循環論から抜けるにはエポケー(判断の中止)をするか、寛容になるぐらいしかないのですけどね。 「万有引力とは何か?」「物質は質量に対して引き合うこと」「なぜ物質は引き合うのか?」「万有引力の法則があるから」・・・「なぜ好きになれないのか?」「非常識だから」「なぜ非常識なのか?」「不快だから」「なぜ不快なのか」「非常識だから」・・・∞感覚感情の前では常識の根拠を示すことや次の方針に至れないです。

noname#105097
質問者

お礼

好きには、理由があると思います。それは渾然一体となって深いところ、いわば無意識からの命令なので、言語化できないということではないでしょうか。

  • kigurumi
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回答No.6

好きになれないってのは、、、、 「みんな好きになるべきだ」 とか 「好きになれない人はおかしい」って言う人がいたら、危ない人かも。 愛とかハグとかそういう安易な言葉をみだらに使う人は信用ならない。 だって誰とでも寝る娼婦みたいで、みだらすぎるから。 日本には諱ってものがあったそうなんですね。 ゲド戦記だと<真の名> ここではkirurumiってのはIDであり通称みたいなもの。 では真の名は戸籍上の名前か? 違う。 その人の本質を表す言葉が真の名。 ゲド戦記では、ゲドは人間界を荒らす竜の名前がわからず苦戦するんですね。 「竜よ静まりたまえ」と言ったところで、相手の真の名を唱えていないので、無効なんです。 でも、調べた結果、竜の真の名前がわかった。途端竜に告げると竜はおとなしくなった。 真の名を知るということは、相手の本質を捕捉したってことです。 で、私も多くの人に対して「好きだ」と思わない。 理由は、相手の真の名を知らないことが原因かも。 真の名を相手に渡すってことは、命を託すようなもの。 100%信用した人にしか、ゲドは自分の真の名を明かさなかった。 現代の日本には諱は用いられていない。 しかし、これは文字にするものではなく、信用した相手に口づたえで告げるもの。 従って「私を好きならその証としてあなたの真の名を教えてください」と言った場合、どれほどの人が相手に自分の真の名を明かせるのか? 「みんな好き」って人に、「どれくらいの人に今まで真の名を明かしました?」と聞きたいところです。 「え? 真の名? 私の真の名は私はまだ与えられていません」じゃないかと。 じゃあ 好きだって言える状態以前の問題じゃん・・・って思うんですね。 なのに、あたかも真の名が与えられた者であり、その真の名を多くの人に教えているかのように言うって、嘘つき。 ということで、「好き」じゃなく「嫌いではない」くらいが「好き」の意味で使っている人が多いんじゃないかと。 多くの人が嫌いではない=多くの人が好き って違うと思う。 好きってのは、もっと高尚なもので、真の名を託せる相手限定にすれば、わかりやすいのにねぇ・・・。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「好き」っていう言葉の中には、一般的にはある「真実」が含まれる場合が多いように思われます。それは「愛」「欲」「弱さ」「強さ」「惨めさ」「怒り」「憧れ」「生物の根源」のようなものが渾然一体となった響きがある。 もちろんご回答のような「好き」の履き違えもおおくあります。

回答No.5

 回答番号:No.3補足です:  現役でギラギラ何とかしようと思っていた、60代後半、十四、五年前までは、そういう価値判断をして、人に対していました。  そういう都合がなくなった今、一、二名以外はみんな同じようです。  こちらに役立ち、都合いい人も、そうでない人もみな同じになりました。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 いろいろと角が取れる、丸くなるということは、とても好評価を得るものです。貴重な変化だと思えます。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

BakaAliceさんの質問には統計確率論でいいんでしょうか。 まあ、統計的に言えば1シグマの7割の人は10人の人を見てその中の3人ぐらいは嫌いと思ってるんじゃなかろうか。2シグマの領域だと10人中5人が嫌い、10人中9が嫌いだという人は3シグマの領域の人のように思えますね。 つまりかなり変わり者の部類だと思います。 私などはありのままを好きになるほうなのであまり嫌いにならないですね。おそらくマイナス3シグマの能天気な変わり者でしょう。 良い悪いじゃなく統計的に分類可能ないろいろな個性があるというだけでしょうね。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私は確かにそうとう偏屈だと思いますね。たとえば、ストリップに行っても9人くらいは評価できない。どうもそういうかなり偏ったところにいる存在のようです。

回答No.3

 自分が存在し、生きていくことを継続するのは、出会う経験や対象に対して一定の評価をすることが宿命的ですね。  禅や宗教の修行精進である程度は超克することも可能でしょうが、全く対象評価なく、存在し、生きていく事はできないのではないでしょうか?  せいぜい偏見や自分勝手、ご都合主義を少しずつ克服していくことくらいでしょうか。  これも“くらい”といっても大きいことなのですが。  “生物の了見”ということを仰せですから、多分このことにもご理解があってのご質問でしょうね。  万物に一体になった存在は、万物を神と自分とするそうです。  それは意識を自分でないものとするのでしょう。  そうでなければ、できるだけ自分のご都合や情緒に動かされないようにすること以外にはないのではないでしょうか?  第一印象でいいとか、悪いとかのものがありますね。  まぁできるだけ暢気、緩やかにしていくことでしょうか?

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 評価を放棄すること、それはもっとも中庸で流れていく姿勢なのでしょうが、逆に自身のエネルギーは枯れてしまうのではないか。 自分ができる最高の気分評価を維持する。その努力と姿勢が大事だと思います。

noname#100496
noname#100496
回答No.2

人には短所、長所があります。相手を好きになれないのは、相手の短所を気にしてるからだと思います。相手の長所だけを、見るようにしたら、すべて人が好きなります。これは私の体験です。ある日偶然、私は頭を、座禅見たいに無に無我にする要領を体得しました。それからは相手の長所だけ見えるようになり、人が好きになりました。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 確かに、長短ある場合、「短」を強調する性質がありますね。こまったものです。長短両方いっぺんに評価できる理性や度量が欲しいものです。「無我」の境地。これは心身によろしいです。

  • matrix256
  • ベストアンサー率24% (171/708)
回答No.1

そういうものです。 他人を自分の好みに合わせようとすると 人間関係はつらいものとなりますよ。 人間嫌いの人は 他人に期待しすぎなのです。 他人に期待するのをやめることです。 非常に逆説的ですが 他者に対する自己承認欲求が強い人ほど 「他人からは理解されようとは思わない」 などという発言をしたりします。 参考まで

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 確かに私は他人に期待している、逆に言うと他人をただの存在、無関係な事物とは感じていない、ということです。それをやめるというのは、かえって不誠実な気もします。でも結局はそのほうが上手く流れそうですが。

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