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「仏」は「神」で有りや無しや。

阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、観世音菩薩、地蔵菩薩……。 1 これらを「神」の一柱だと分類することは不適当なのですか。好んで「神」と呼ぼうというのではありません。 2 分類してよいとき、これらの何れかを尊崇している教団には当該「仏」が「神」の一柱だと呼ばれることを不快に思うなどの事情がありますか。 宗教学や思想界、乃至は教団の考え方が分かる程度の解説を希望します。よろしくお願いします。

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  • mmky
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回答No.3

1 これらを「神」の一柱だと分類することは不適当なのですか。 分類に問題は無いと思いますが、一柱と役柄の名前を分離できるかですね。 つまり、1人の役者が何人もの役柄を演じている場合がありますからね。千手観音はその姿全体を現しているのですね。 例えば、(阿弥陀如来、大日如来は仏陀の役柄名)、(薬師如来:職業名)、(観世音菩薩、観自在菩薩:菩薩の分類名)、(地蔵菩薩:職業名)……。 このように、どれが一柱の名前か、一柱では無く役柄、又は役職の名前かですね。 よく間違うのですが、例えば医療部長は職業名であって名前ではないですね。同じように薬師如来は医療部長という役職名のようですから一柱ともいえないように思えます。 一柱でということは名前を確定しなければいけませんが、それが可能であれば神での分類になんら不都合は無いと思います。 仏を至高神と呼ぶこともありますから仏とよぼうが神とよぼうが特に問題は無いと思います。 神道では天御中主、天照とかこれは名前ですから一柱で数えられますし、キリスト教系でも天使に名前がありますから同じように一柱で数えられます。一方仏教は多すぎるので役職名なんでしょうか、数えるの難しそうですね。

sono-higurashi
質問者

補足

ご回答を有り難うございます。 少し分かったような、益々分からなくなったような、兎も角、何かしら大きな誤解をしていたことが分かりました。やはり質問はしておくものです。 2点、確かめさせて下さいませ。急ぎはしません。 1 ご回答に、「阿弥陀如来、大日如来は仏陀の役柄名」とあります。阿弥陀如来、大日如来、薬師如来、仏陀は同一の仏と考えてよいですか。 2 如何なる「菩薩」といえども、仏陀と同一の菩薩は存在しないと考えてよいですか。何だか、これにも複雑な話があるような、ないような……。 よろしくお願いします。仏を神に分類しても失礼でないことは分かりました。

その他の回答 (6)

  • mmky
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回答No.7

追加の追伸まで >>『後に阿弥陀仏となった法蔵菩薩などもこの代表的事例である。』の部分から「阿弥陀仏=法蔵菩薩」なのかなと考えたことによります。 そうですね。みんなこのあたりの菩薩に引っかって仏陀は菩薩であったと勘違いするものなのです。当然といえば当然なんですね。 そうすると、釈尊晩年の教え、阿弥陀仏、大日如来や久遠実情の仏陀が説明できなくなるのです。 実際には、菩提樹下の悟りは人間仏陀=久遠実情の仏陀の悟りそのものであったのですね。自分が生まれながらの久遠実情の仏陀であることですね。ところが、釈尊は晩年に至るまで仏陀になる方法として菩薩の修行を弟子に説いていたのですね。弟子の修行も十分に出来た晩年に霊鷲山の説法で初めて真実を明かしたということでしょう。それゆえ菩薩は弟子に師の修行姿を見せる方便ということになったと考えられますね。霊鷲山の説法がいろんなお経になったということでしょう。 例えば、仏陀を久遠実情の仏陀といったり大日如来といったり阿弥陀仏といったり、浄土宗系では無量寿(あるいは無量光)とかいいますね。 これは霊鷲山でみせた釈尊の真実のお姿を弟子がいろいろに表現したからだと思います。 (釈尊自身がこの説法を見たものには不信に陥るものがいるといってるぐらいですから普通の感覚では捉えようがないことはかっても今もおなじですね。) 釈迦は天上天下唯我独尊と早いうちから言っていたと思いますが弟子がそれを理解できなかったということだけでしょうね。霊鷲山の説法で初めてその意味を理解したぐらいでしょう。西洋風に言えば全知全能の神と捉えるべきなんですね。だから仏陀の上には誰もいないんですね。こんなところの理解不足から仏教には神がいないといった間違った考えもありますね。釈尊ははっきり「神々をも越えた。」といってるにですね。神々を従えた存在が仏陀ですね。だから仏教の本尊は釈迦大如来(呼び名いろいろ:阿弥陀仏、無量寿(光)、大日如来、久遠仏)しかないのですね。 参考程度までに

sono-higurashi
質問者

お礼

再三の解説の補足を有り難うございます。 折角ですが、こういう水準の話になると口を挟めません。多分、造詣の深い方同士の間では微妙にか、明瞭にか学説や見解、理解、主張に異なるものがあって意義ある議論が可能なのかもしれないと拝察します。 本当は行司役が務まるとよいのですが張り合いのないことで済みません。しかし、仏教に明るい方も、このご回答を参考にして下さるものと思います。 わざわざ、ご丁寧に有り難うございました。素っ気がなくて済みません。

  • mmky
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回答No.6

追伸01 1 ご回答に、「阿弥陀如来、大日如来は仏陀の役柄名」とあります。阿弥陀如来、大日如来、薬師如来、仏陀は同一の仏と考えてよいですか。 阿弥陀如来、大日如来は釈迦大如来(本名)の役割名です。阿弥陀如来は救世主的側面が強く出た場合。大日如来は霊界の神秘を説く場合でルシャナ仏とも呼ばれます。 一方、薬師如来は名前の通り医者を生業にする如来、つまり西洋風にいえば大天使ですね。仏陀は肉体生命を救う医者の仕事はしないですから、別の天使の職業ということです。 2 如何なる「菩薩」といえども、仏陀と同一の菩薩は存在しないと考えてよいですか。何だか、これにも複雑な話があるような、ないような……。 そうですね。曼荼羅図にあるとおりで、中央に仏陀(大日如来)がおり、その周りを如来が、更にその周りを菩薩が取り囲んでいますが、これはピラミッド構造を平面に投射したものだからですね。 菩薩は如来を目指して、如来は仏陀を目指して修行しているということですね。 更にいえば、菩薩というのは諸天善神と如来の間にいる神々の総称ですね。 西洋で言えば聖霊と大天使の間の天使と呼ばれる存在です。仏教で言えば文殊菩薩などは実在の菩薩ですから有名ですね。 神道で言えば大神様が如来、菩薩クラスということでしょう。

sono-higurashi
質問者

お礼

再度のお答、有り難うございます。 薬師如来も釈迦の役割名と受け取ってしまったのは、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%A6%82%E6%9D%A5 の記事にある『さらに「覚禅抄(東密)」において胎蔵大日如来と同体と説かれている。また「阿裟縛抄(台密)」で釈迦如来・大日如来と一体とされているが、顕教での妙法蓮華経に説かれる久遠実成の釈迦如来=密教の大日如来との解釈と、釈迦如来の衆生救済の姿という二つの見方による。』の部分をしっかり追求せず、面倒がって「薬師如来=釈迦如来・大日如来」としてよかろう、と勝手に決めてしまったことによります。 また、仏陀と同一の菩薩は存在しないと考えてよいか否か迷ったのは、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E8%96%A9 の記事にある『後に阿弥陀仏となった法蔵菩薩などもこの代表的事例である。』の部分から「阿弥陀仏=法蔵菩薩」なのかなと考えたことによります。 質問文投稿時には、仏は神、神と呼んで誰も小言をいう者なしで、あっさり片付くものだと考えていました。釈迦と阿弥陀如来、大日如来との関係が念頭になかったので、適切な質問文が作れませんでした。これで浄土宗の家に生まれているというのですから呆れたものです。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。 回答の準備をされている方があってはいけないので21日(日)一杯は締め切らずにおきます。

noname#100496
noname#100496
回答No.5

神道系の新興宗教の話だと、現在の世界は副神系統の神が支配してるので、多くの神が存在するそうです。しかしもうすぐ、神の政権交替があり、天の岩戸が開いて、主神が本当の神が現われるそうです。神の政権交替の、予言の歌として、童謡のカゴメの歌があります。2012年が、宇宙の節分と言われています。その時は豆は炒らずに、生で播きましょう、神の芽が出る事を願って

sono-higurashi
質問者

お礼

神の芽でも、魚の目でも、お好きなものを生やしなさいまし。

noname#88701
noname#88701
回答No.4

八百万の神仏を概念的に整理統合できるのは曼荼羅の思想と思います。 ただし、この内容を理解し必要とされるのは、密教の教えを学び、事相教相ともに高いレベルに達した人においての事であるとも言われます。 いわゆる阿闍梨位に於ける、従果向因の救済の方便を発揮する立場において必要とされるものです。 我々凡夫の従因向果の立場に於いては、必ずしも必要では無い事です。 概略のみでしたら曼荼羅の思想関係をお読み下さい。 独学の誤った解釈は危ういものと思います。

sono-higurashi
質問者

お礼

このご忠告であれば私にも実行可能です。 縦に読んでも斜めに読んでも無謀なことは考えるな、と書いてあります。実際、そうなのだと思います。この時点でNo.6まで通読してありますが、益々迷路に入りそうです。この単純な質問に、こんな面倒なことが待ち受けているとは思いもよりませんでした。 曼荼羅は記憶しておきます。有り難うございました。

  • hyuuma8579
  • ベストアンサー率29% (326/1097)
回答No.2

両者とも反発する概念ではありませんから 両者の概念比較において、どうかということです。 概念形や概念質、概念量や概念範囲が同等とみなされるなら両者はイコールで結ばれます。他宗教の神(たとえば、アラーの神)が加わったとしても同じです。呼び名の比較ではありません。呼び名で言われる存在概念の比較です。「仏概念」、「神概念」、「アラーの神概念」・・・ イコールで結ばれなくても、より小さい方がより大きい方に含まれるのですから、その場合は大きい方の概念の呼び名で統一されるでしょう。

sono-higurashi
質問者

お礼

神の集合をAとする。仏の集合をBとする。BはAに含まれる。即ち「仏」は「神」の一種である。こういう理解をしました。この理解が誤っているときはご一報下さいませ。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

  • ESE_SE
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回答No.1

「一柱」という数詞から推察するに、質問者様のおっしゃる神とは日本の神道における神々でしょうか。 でしたら本地垂迹説・神仏習合・神仏分離・廃仏毀釈に関する歴史を紐解かれてみてはいかがでしょうか。 それら以外の「神」との対比を考えられているのであればそのあたりの条件提示をお願いします。

sono-higurashi
質問者

お礼

補足要求にお答えします。 神道と限らず、「神」を数える単位は「柱」とばかり思っていました。これを機に確かめておこうと思います。 質問文でいう「神」は神道の神とは限りません。神道を含む、「神」一般を指します。 一神教の神、ヒンドゥー教の神々、民俗学でいう諸々の神、古代ギリシャの神々……、これら全てを「神」とするとき、「仏」が「神」の概念に該当するか否かの問い合わせです。 よろしくお願いします。

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