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運命について。
日本の神話や伝承に「オイディプス王」のように神に定められた運命に翻弄された話(特に悲劇)がありますか? (数奇な運命を辿った人物や神の声にしたがって行動した英雄の話ではなく、運命を知らされながら、それに抵抗としたにもかかわらず結局そのとおりになってしまった、というような話) 私の限られた知識の中にはないように思います。 日本だけではなく、東洋哲学の観念に「神から定められた運命」というようなものはあるでしょうか?天命という言葉は聞きますが、、、それでも逆らっても逃れられぬ運命、といった感じは受けません。(私だけですか?) どうしてこのような違い(?)があるのでしょう? 洋の東西の違いだと言われればそれまでですが。。。 どういった観念が「運命」を生んだのでしょうか? 一神教の存在でしょうか? 思うところあればお聞かせください。 また、「違いなんてない。日本(もしくは東洋)にも、似たようなこんな話があるよ」という情報でもかまいません。
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- netcatme
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>例えば宗教改革の際カルバンの説いた「予定運命説」などは >少なからず運命は定まっている、 >という見方だと思いますのでキリスト教には >運命論はあるんではないでしょうか? 余談ながら一言申し上げると、予定調和説は運命どころか、人がどう考えてどう行動するまで神が最初から決めている、もしくは、どう行動して、どう考えようが救われるかどうかは最初から決められているというものです。どのように行動しても変えられない「運命」とは別種のものだと思います。 ヨーロッパの「運命」は狩猟の結果(毎日がギャンブル)や疫病から発生したと考えられますが、日本での「運命」はやっぱり台風でしょう、「運命」の後、笑って立ち直ることが求められることがたびたびあった日本とは、どこか「運命」のとらえ方が違う気がします。支配することができるはずなのにできない、もどかしい「運命」と、支配することを最初から諦めた素直に受け入れるしかない、自然そのものの「運命」、そのような違いでしょうか。
- cse_ri2
- ベストアンサー率25% (830/3286)
私が過去にした質問が参考になるかと思います。 『運命・運勢は変えられますか』 http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=345440 質問者の方が真理を見出し、己の運命に打ち勝つことが できるように願います。
- neil_2112
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「運命」というのは突き詰めて言えば、現実の不合理や不条理を受け入れざるを得ない時の私たちの枠組みのひとつ、と言えるのだと思います。程度の差はあるでしょうが、人間存在が根本的に不条理の中にある以上、神話であれ物語であれ、このような対処方法は洋の東西を問わずに存在するのではないかと思います。 日本人が運命を受け入れたあり方の一端が、「産神(うぶがみ)問答」という日本各地に残る昔話の定型のひとつに伺えます。この昔話の骨格は、遊行の僧などが村はずれのお堂で一夜を過ごしていたところ、姿の見えない声を聞くというパターンです。声の主は産神を始めとするいろいろな神々で、村で生まれたばかりの子供や近日中に生まれる子供について、その寿命や死に方を決めているのです。 例えば「あの子は七歳、水の命だ」(七歳で水死)とか、「手斧に虻だち」(手斧でつけた傷に虻が毒をもたらして死ぬ)といった不思議な会話がなされ、後にその会話の内容はすべて現実のこととなる、というストーリーです。 かつてのわが国ではこのように、特に子供の寿命や健康などについて産神と呼ばれる神がそれを司っていると受けとめられ、それは人知を超えたという意味での“運命”を説明づけるものでした。人生は思う通りにならず、とりわけ寿命は誰にもコントロールできるものではありませんし、根本的に不合理なものです。その不合理性をそのままに受け入れるために、“神によって決定された命”という物語が必要だったのでしょう。 ただ洋の東西で違いがあるとすれば、その運命に落ちつく過程でどの程度までの抵抗が社会的に受け入れられるか、という文化や国民性の問題ではないでしょうか。日本はご承知のように国そのものが「なりなりてなった」わけで、我々は個人の思いを超越したことろに働く自然(じねん)の“ただそのようである”現実を受け入れるように文化を発達させてきています。言わば運命への抵抗が少ないわけですから、自然と運命そのものも際立って認識されないと言えるでしょう。 この産神問答のバリエーションの中には、もちろんエディプス王ほどドラマチックではありませんし、また例も少ないのですが、決められた運命に抗おうとする男が登場するものもあります。 あるお堂で雨をしのいでいた男が、真夜中に交わされた産神たちの会話から、その村でその夜に生まれたばかりの女児が将来自分の嫁となる運命であることを知ります。すぐにでも嫁を欲しい男は、あと十数年も待つことがたまらず、当のお産の家に押し入り、一家を皆殺しにしてしまいます。運命をわが手で切り開こうとしたのです。 しかし、時が過ぎて晴れて嫁をめとった男は、初夜の際に妻の首から胸にかけて大きな刀傷があることを知ります。訳を尋ねてみて、果たしてその娘があの夜に定められた女であったことを知り、男は運命の力の大きさに愕然とする、というストーリーです。 このような産神は際立って高い子供の死亡率を説明するための物語でしたから、最長でもせいぜい結婚までの子供をコントロールする存在だと受けとめられ、大人については出番はありません。 大人については、早くも奈良時代の頃から仏教の因果の教えが俗化した形で一般化していて、死を含めて身体障害や病気、天災などこの世の不都合の原因を因果、つまり本人の業のせいに帰結させる説明が一般に受け入れられました。三時業などといわれる考え方で、現在の自分の有り様には現世であれ前世であれ、必ず自分のまいた原因がある、というものです。 もっとも、いくら本人の業とは言っても前世の行いは現世の本人には如何ともしがたいものです。むしろ説明の中に本人が入ることで、結果的にはそれ自体「運命」として、より強力に諦念をせまる働きを持ったとも言えるでしょう。 まとめると、大きく見れば「運命」という考え方はやはり日本人の根底にもあったと言えると思います。ご参考程度に。
- iqdeflat
- ベストアンサー率22% (19/84)
よくエデプスコンプレックスと対比されているアジャセは 運命のようにもとれますがどうでしょう。 仏教が輪廻からの(運命?)解脱をめざしているので 逃れられないという感じが薄まっているのではと考えます。 でもなんとかなるという希望をもともと持っていたから仏教が 生まれた、拡がったともとれますね。
お礼
遅くなりました。ご意見ありがとうございます。 >仏教が輪廻からの解脱をめざしている そうですね、何もしなかったら輪廻の輪からは逃れられず、またその方法(悟りを開く、でいいでしょうか?)もまた容易には抜けられない。しかし不可能なことではない。 こういったことが教義である仏教が少なからずアジア全体に影響を与えてきたので東洋文化には運命論が少ないのかもしれません。 確かに、運命=強い力を持ってはいるが回避不可能ではない、というイメージが私は強いので、そういった影響もあるでしょう。 単に宗教の違いなのかも知れませんね。 アジャセのお話はヒンドゥー教色の強い世界でしょうか?(お釈迦さまがおられた時代、というのならそうかな、と思っただけで、後世の創作ならわかりませんが)ヒンドゥー教に運命論はあるのでしょうか?あるのなら洋の東西は別に関係ないといえますね。 参考URLありがとうございました。楽しく拝読させていただきました。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
参考までに 仏教やキリスト教には運命論はありません。日々の選択の結果という考えですね。 キリスト教がヨーロッパに浸透する際に、ヨーロッパの森をに住む人々が信じていたアミニズム的信仰、「魔女的な信仰形態」が組み込まれたんですね。タロット占いや何とか占いというルーツですね。このアミニズム的な宗教は占いが入っていますので運命というのが入っていますね。ヨーロッパに暗い運命論がはびこっているのは、キリスト教以前の原始宗教のなごりですね。日本にも占い好きな人はたくさんいますが、本来の高等宗教には運命論はありませんね。 ということですかね。
お礼
遅くなりました。ご意見ありがとうございます。 オイディプス王はギリシャ神話が元ですし、運命が元来のキリスト教的な考えだとは思っていませんが、例えば宗教改革の際カルバンの説いた「予定運命説」などは少なからず運命は定まっている、という見方だと思いますのでキリスト教には運命論はあるんではないでしょうか? 旧約聖書などでは運命を持ち出さないといけないような話もあると思います。(例えばイサクの誕生は神から予言されたものですが、人間の側から見ればお告げはされたが生まれるまで確かめようのないことであり、その上実際生まれてしまうのですから運命だと言えるのではないでしょうか?未来には~なる、と記述が何度もあるのも、人間からしたら「定められた運命」と捉えることは可能だと思います。) 一神教が運命を生んだ、というのはキリスト教以前に運命という概念があったことから間違いだとわかりましたが、私の中では一神教(絶対的な神の存在)が西洋で運命という概念を強めた。と思います。(もしくは運命が一神教を強めた) また、アニミズムが運命を生んだとすればそれは洋の東西を問わずあるべきものではないでしょうか?(アニミズムはタイラーによれば宗教の起源であり、世界中にみられた、mmkyさんのおっしゃるとおり、原始宗教なので) それともmmkyさんがおっしゃるのはヨーロッパのアニミズムには運命という概念が存在したので、ということでしょうか? もしそうなら、どうしてヨーロッパのアニミズムだけそういう観念を持ち合わせたと思いますか? また、もし東洋のアニミズムにもそういった概念はあったが、高等宗教の発達の過程で失われた、薄れていった、というのでしたら、なぜその違いが起きたと思いますか? mmkyさんの回答が上記に当てはまらなく、もっと他の意図を持っていたのならそれを詳しくお答えください。理解力が不足していてすみません。
お礼
遅くなりました。ご意見ありがとうございます。 >「運命」というのは突き詰めて言えば、現実の不合理や不条理を受け入れざるを得ない時の私たちの枠組みのひとつ、と言えるのだと思います。 本当にそうですね。神話や宗教は元来「論理的に説明不可能なものに対する説明するためのもの」だと思っています。(それを神話や宗教に依らず捜し求めるのが哲学だとも思っています) ならば、運命というものも世の不平等であったり、neil_2112さんのおっしゃるような不条理を納得させるための説明なのかもしれません。 程度の差はあれ、洋の東西なく運命は存在するんでしょうね。 産神問答、という話を初めて聞きました。とても参考になりました。