こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
上賀茂神社や下賀茂神社の縁起ついては、すでにWikipedia等でお調べのことと思います。
(1)上賀茂神社は、天平17年(745)に聖武天皇の病気平癒の祈願が行われ、病が回復したことから、皇室との関係が深まりました。
その後、天平勝宝2年(750)には、孝謙天皇より御戸代田(みとしろだ)1町が寄進をされ、ますます、皇室との関係は深まりました。
御戸代田とは・・・神社が直接支配をして、その田から採れる米を神様にお供えをする。いわば、神社が直接管理する田のことです。「社領」とも言われます。
(2)桓武天皇が、平城京から長岡京、そして、延暦13年(794)10月22日に最終地として葛野(かどの)の地に都を遷都し、人心を一新するとともに、新しい政権や政治を始めようとしました。
(3)延暦13年(794)11月8日、桓武天皇は、これまでのように、地名をそのまま都の名前にするのではなく、つまり、葛野宮(かどののみや)ではなく、天下泰平、天下安寧(てんかあんねい)を願い、「平安京」と名乗るように詔(みことのり)を宣言しました。
(4)この、桓武天皇が平安京に遷都をした時、御所の北に位置していた上賀茂神社を「王城鎮護」の神社とし一層の庇護を与えました。
(よもやま話)
(1)桓武天皇天平9年(737)に光仁天皇の子として平城京で生まれました。
(2)天応元年(781)4月に桓武天皇として即位するも、光仁天皇には他に7~8人の皇子がおり、家臣たちは派閥争いを繰り返していました。
(3)さらに、皇居よりも北の一段高い山懐に東大寺(大仏殿)があり、あたかも、皇居を見下ろすような位置にあり、寺が皇居(天皇)を見下ろすことに不快感を持ちました。
(4)しかも、平城京の近辺には幾つもの寺があり、僧侶たちも、次第に政治に口を出すようになりました。
(5)そこで、桓武天皇は密かに、側近の一人「藤原種継(たねつぐ)」と共に新しい都の建設を模索しました。
(6)宮廷に仕える公家たちの目をくらますため、種継と共に「狩」を装って、候補地選びに何度も出かけました。
(7)そして、藤原種継を支持する豪族が支配する長岡の地に都を建設することとしました。
(8)平城京では、川の水路を各家庭に引き込み、いわば、水洗トイレだったのですが、大きな川が近くになかったため、水量が十分取り入れられず、汚物などがドブに堆積してしまい、匂いはもとより、衛生状態も最悪でした。
(9)そこへいくと、長岡の地では、「桂川」や「宇治川」という大きな川があり、十分に水量もあり、各家庭への水洗トイレにも利用できるし、また、淀川を遡って桂川や宇治川を入ることができ、物資(生活必需品)などが大量に輸送できることから、長岡の地に新しい都の建設を進めました。わずか半年で皇居の建設は終了。
(10)延暦3年(784)、平城京から長岡京への遷都を実行。そして、僧侶の政治への口出しを恐れて、寺院は一切都の中には造らせませんでした。
(11)さらなる都の整備を進める中で、延暦4年(785)9月、片腕であり、都建設の責任者であった藤原種継が何者かに暗殺されました。
(12)桓武天皇は怒り、
「全てを、必ずや探し出せ」
と、命令。
(13)数10人もの関わった公家が捕捉されましたが、その一味の中に弟の早良親王(さわら)も加わっていたことが判明。桓武天皇は、早良親王を幽閉し、島流しにしようとしましたが、早良親王は桓武天皇を恨みつつ島流しになる前に病死。
(14)その後、平城京では、飢饉や疫病(天然痘)などが続き、桓武天皇の母や后(きさき)も相次いで病になる。さらには、便利であったはずの川が氾濫を起こして、平城京は荒れ放題になりました。
そこで、占ってもらったところ、早良親王の「たたり」だと言われ、直ちに、「鎮護」の祈祷をしてもらいました。
(15)やむなく、桓武天皇は2度目の遷都を決意。候補地としてあがったのは葛野(かどの)の地でした。
(16)今回は、十分な時間をかけて都の建設をし、延暦13年(794)10月22日、葛野の都に遷都。11月8日、平安京と名づける「詔(みことのりょ)」を宣言しました。
(17)平安京では、水害の心配もなく、また、京都の北にある小さな川を集めて「東堀川」と「西堀川」を人工的に造り、都の水利に役立てました。さらに、平安京では、「東寺」「西寺」の二つの造営を許可し、京の街の守りとさせました。
(18)平安京の市街地の整備が進む中、延暦25年(806)3月、桓武天皇は70歳でこの世を去りました。
お礼
素晴らしい回答ありがとうございます。 非常に参考になりました。