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桓武天皇の装束について

日本の天皇の中では、異例な「すだれのついた冠」をかぶり、衣装も 中国風ですが、どうしてこのような格好をしていたのですか? http://chiba504.hp.infoseek.co.jp/katsurahara/katsurahara.htm

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>日本の天皇の中では、異例な「すだれのついた冠」をかぶり、衣装も中国風ですが、どうしてこのような格好をしていたのですか? まず、桓武天皇の被っていた冠ですが、「冕冠(べんかん)」と言います。次のサイト「Wikipedia」の説明をお読み下さい。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%95%E5%86%A0 サイトでは、「起源は不明」となっていますが、日本では古くからの「遣唐使」によってもたらされた・・・と、言う「説」もあります。 また、サイトの下の方には、「冕冠をかぶる蜀の劉備」の画もあります。 「冠側面から玉笄(たまこうがい)と呼ばれる簪(かんざし)を指し、底部には纓(えい)と呼ばれる組紐がつく。また冕板(べんかん)の中央には天河帯と呼ばれる赤帯がついた。」 と、ありますね。 数日前のNHK「その時歴史が動いた」を見られたのでしょうか? 桓武天皇の時代は、天皇を支える豪族たち(後に公家となる)が非常に少なく、争いが絶えませんでしたから、まあ、「天皇の礼服」とありますが、「権威の象徴」を見せ付けるためだったと考えます。

cobamax
質問者

お礼

回答ありがとうございました わたしの以前の何回かの質問に丁寧に回答いただいております 感謝いたします、今回は「桓武天皇」ですが ご推察のとおり「そのとき~」をみて冠より顔の前に いくつかの「すだれ」のような「ひも」みたいなものが 何本か垂れ下がり、歴代の天皇のなかでは特異な冠 なので「唐風」の流かとおもいました 歴史作家さんは江戸が専門かとお見受けしましたが、守備範囲が 広いですね、 話はとびますが、NHKの篤姫がおわりましたが、「歴史作家さん」はどんな感想をお持ちになりましたか? 今後ともよろしくおねがいします

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回答No.9

NHKで放映された動画を静止画にしたものです。 画像を添付してみます。 うまくできるかどうか・・・。

回答No.8

こんにちは。 fumkumさん。 次のサイトは、どのように解釈したらよろしいのでしょうか? 全てのサイトで「間違い」を掲載しているのでしょうか? 特に、下記のサイトの説明文は? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%93%94%E7%8F%9E http://www.bunkaken.net/index.files/kihon/zoyo/yoraku.html http://www.moonmadness.jp/youraku.html 参考: http://www.rakuten.co.jp/gokurakudo/538287/ http://www.koterass.co.jp/shohin/yoraku/yoraku.html http://www.butsudanya.co.jp/shop_turitourou.html http://www.kk-kumada.com/butugu_youraku.html 「その時歴史が動いた」はご覧にならなかったそうですが、 桓武天皇が被っていたものは、まさに、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%95%E5%86%A0 このもの「ずばり」でしたが・・・。 天下のNHKも「間違い」を放映したのでしょうか?

  • fumkum
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回答No.7

>過日NHKの「そのとき歴史が動いた」にでてくる冠は冠から 何本かのすだれが顔前面を覆うように下がっているものが でてきましたが 中国風の二つのものは同じようなものなのか、違う種類なのかお分かりでしたら 解説願います 残念ながらNHKの「そのとき歴史が動いた」にでてくる冠については見ていないので答えようがありません。 >ところで桓武天皇の肖像はいろいろあって、日本風と ​http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87​ については、垂纓(の冠)と呼ばれたものだと思います。元は中国起源の頭巾(ときん)の国風に変化したものです。冠後部で上に突き立ったものは巾子(こじ)と呼ばれ、髪を束ねた髻(もとどり)が入っています。冠後部で横に出ているのはかんざしで、簪を巾子の根元に横から挿し、髪を貫いて冠を留める働きをします。冠後部で下に垂れているのは纓(えい)で、巾子の後ろに二枚重ねて差し込み、垂らしたものです。ここから垂纓(の冠)と呼ばれたのです。 以上、参考まで。

cobamax
質問者

お礼

ありがとうございます NHKの番組で桓武天皇がかぶっていたのはサイトにありように すだれがたくさん下がっているものでした http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%95%E5%86%A0 また、すだれがたくさん下がっていないもので、耳の方から 一本ずつ下がっているものも良くでてきますね http://chiba504.hp.infoseek.co.jp/katsurahara/katsurahara.htm いずれも桓武天皇がつけていた、冠と衣装で両方とも中国風 のものでした、この二つは同じものですか?

  • fumkum
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回答No.6

自称「歴史作家」さん、こんにちは。 朝起きてみると自称「歴史作家」さんの文が目に付いたので、私の意見を書かせてください。*の後に書いてあります。 fumkumさんの言われる通り、「冕冠(べんかん)」は、「礼装」の時、つまりは、儀式の時に用いられるのが、(現代の)通例です。しかし、「瓔珞(ようらく)」は、仏教としての「権威」をあらわすもので、「瓔珞」は、仏教に対しての「権威付け」であって、世俗の天皇が被るものとは違います。 *「瓔珞(ようらく)」については広辞苑でも「(1)インドの貴族男女が珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具。頭・首・胸にかける。また、仏像などの装飾ともなった。瑶珞(ようらく)。(2)仏像の天蓋、また建築物の破風などに付ける垂飾。」とあり、元々はインド起源のものです。しかし、漢字がインドの言葉を音訳したものでないことからも元々同じ様なものは漢語にもあり、その語をあてています。 さて、桓武天皇の冠については私は次のように書いています。「桓武天皇は頭部は冠ですが、左右に垂れている物は「瓔珞(ようらく)」だと思います。」と。「瓔珞」については左右に垂れている物についていっているのであって、冠まで言っているわけではありません。この桓武天皇の冠については冠の下部の縁の左右に穴があり、そこからかんざしを挿し込んで留める形式だと思います。紐で留めることもあるのですが、ここではかんざしを挿し、そのかんざしの頭に飾りを付けた形式であると思います。 桓武天皇の時代背景を考えると、当時は、日本古来の「神道」と「仏教」の「はざま」であり、特に、聖徳太子などは、仏教の始祖とも言われていますが、朝廷としては、依然として「神道」が唯一の信仰の対象でした。 * 平安時代の前の奈良時代は「鎮護国家」の盛んな時代で、国王が仏教を尊崇すれば諸仏が国を護ってくれると考えられる「国家仏教」時代でした。「金光明最勝王経」などが主要経典でした。聖武天皇は741年に武蔵などの各国に国分寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)を造ることを命じ、743年には「夫れ天下の富を有(も)つ者は朕(天皇の自称)なり。天下の勢を有つ者は朕なり。この富勢を以て、この尊像を造る。」として廬舎那仏(奈良の大仏)の造立を命じ、自身のことを「三宝(仏・法・僧)の奴」とまで呼んで仏教に帰依しています。なお、天武天皇は壬申の乱に勝って即位するまでは近江朝の追及をかわすために出家しています。また、聖武天皇の娘の孝謙天皇は退位後出家しています。ですから、神道が唯一の信仰対象と言うのは間違いです。なお、最澄・空海共に桓武天皇の時代に入唐し、最澄は官費によって行っています。帰国後桓武天皇の病気平癒の祈祷を宮中で行っており、また内供奉(ないぐぶ)といって宮中の内道場に奉仕し、御斎会(ごさいえ)に奉仕し、夜居(よい)を勤める高僧10名の中に選ばれています。このことからも桓武天皇の時代にも宮中に仏教道場と、仏教僧の存在があったことが分かります。 桓武天皇が平城京から長岡京に遷都したのも、北に大仏殿という、天皇の御所を見下ろす建物ができたために遷都を決意しています。その後、平安京へと、さらなる遷都をしていますが、それはともかくとして、平城京から長岡京への遷都は、大仏殿を嫌ったからに他なりません。 * 長岡京から平安京への通説では藤原種継暗殺事件と、それに続く皇太子早良親王の廃太子及び親王の自殺により怨霊のうわさが出たのがきっかけになっています。北に大仏殿云々は聞いたことがありませんので根拠となる学説や典拠があるようならお知らせいただきたいと思います。調べてみましょう。 そうした、天皇が仏教の「権威」である「瓔珞」を支持するわけもなく、また、遣唐使などにより伝来した、中国の「儀式」「作法」を取り入れたことは、当然のことであったと思います。 また、近年の「平成天皇」などは、そのような「冕冠(べんかん)」を付けたりはしませんが、平安時代の天皇の「礼式日」には用いられた記録も多々あります。 *前の文章にも書いた通り、「袞冕の服」は即位式においては明治天皇の父である孝明天皇の即位までは使用されています。それ以降は使われていません。これはあまりに中国風であったためであると考えられます。ブリタニカ百科事典の天皇の項目には平安時代初期あたりから「中国式皇帝」との小見出しを付けています。 天皇家は、日本古来から、通説として「神道」ですので、仏教文化?の「瓔珞(ようらく)」を取り入れる体制ではありませんでした。 *天皇家は奈良時代以降仏教に帰依することが多いことが通説になっています。「王法、仏法あいまって」との慣用句はよく使われるところです。 しかし、中国(唐)は仏教思想。 *唐朝の国教は一応道教とされています。道教の祖老子(姓が「李」)は唐王朝(王室の姓が「李」)の祖先だとされていたからです。でも実際は儒教・仏教・道教の混在ですが。 では、「瓔珞(ようらく)」で良いのでは? それは、当時としては、神仏混合の時代でもありましたが、たとえ天皇といえども、「仏門に帰依」することはなく、ただ単に中国(唐)風を真似ての「権威の象徴」であり、仏様になるほどの「瓔珞(ようらく)」を真似したのではない。 と、考えます。 ただし、中国(唐)などでは、仏教国でしたから「瓔珞(ようらく)」が、そもそもの「起源」かもしれませんね。 ただし、その後の中国は分かりませんが、日本としては天皇の儀式としては「冕冠」と呼ぶのが正統かと思われます。 *「冕冠」については冠の上に長方形または日本式の正方形に近い「冕板(べんばん)」と呼ばれる板と、その前後または日本式に前後左右に玉を貫いた糸縄があるはずです。しかし、画像ではどう見ても「冕板」がありません。ですから「冕冠」ではないのです。なお、「袞龍衣」と「冕冠」については吉川弘文館の「国史大辞典」を典拠として書いています。ここに、描かれている「袞龍衣」と「冕冠」(「冕冠」は一部)の図は日本で使われた物ですから中国で使われたものではありません。それから、この画像が儀式の場面を描いているとも思えないのですが。 自称「歴史作家」さん、また、どこかで。 質問者の方には質問から外れてしまって申し訳ありません。参考程度に。

回答No.5

こんばんは。 NQ1.です。 fumkumさんの言われる通り、「冕冠(べんかん)」は、「礼装」の時、つまりは、儀式の時に用いられるのが、(現代の)通例です。しかし、「瓔珞(ようらく)」は、仏教としての「権威」をあらわすもので、「瓔珞」は、仏教に対しての「権威付け」であって、世俗の天皇が被るものとは違います。 桓武天皇の時代背景を考えると、当時は、日本古来の「神道」と「仏教」の「はざま」であり、特に、聖徳太子などは、仏教の始祖とも言われていますが、朝廷としては、依然として「神道」が唯一の信仰の対象でした。 桓武天皇が平城京から長岡京に遷都したのも、北に大仏殿という、天皇の御所を見下ろす建物ができたために遷都を決意しています。その後、平安京へと、さらなる遷都をしていますが、それはともかくとして、平城京から長岡京への遷都は、大仏殿を嫌ったからに他なりません。 そうした、天皇が仏教の「権威」である「瓔珞」を支持するわけもなく、また、遣唐使などにより伝来した、中国の「儀式」「作法」を取り入れたことは、当然のことであったと思います。 また、近年の「平成天皇」などは、そのような「冕冠(べんかん)」を付けたりはしませんが、平安時代の天皇の「礼式日」には用いられた記録も多々あります。 天皇家は、日本古来から、通説として「神道」ですので、仏教文化?の「瓔珞(ようらく)」を取り入れる体制ではありませんでした。 しかし、中国(唐)は仏教思想。 では、「瓔珞(ようらく)」で良いのでは? それは、当時としては、神仏混合の時代でもありましたが、たとえ天皇といえども、「仏門に帰依」することはなく、ただ単に中国(唐)風を真似ての「権威の象徴」であり、仏様になるほどの「瓔珞(ようらく)」を真似したのではない。 と、考えます。 ただし、中国(唐)などでは、仏教国でしたから「瓔珞(ようらく)」が、そもそもの「起源」かもしれませんね。 ただし、その後の中国は分かりませんが、日本としては天皇の儀式としては「冕冠」と呼ぶのが正統かと思われます。

  • fumkum
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回答No.4

>日本の天皇の中では、異例な「すだれのついた冠」をかぶり、衣装も中国風ですが、どうしてこのような格好をしていたのですか? まず、この冠は「冕冠」ではありません。「冕冠」は冠の上に「冕板(べんばん)」をつけ、中国においては前と後ろに玉を貫いた糸縄12リュウをたらし、日本においては前後だけでなく左右にもたらします。特に日本の「冕板」は正方形に近くWikipediaの図の通りです。桓武天皇は頭部は冠ですが、左右に垂れている物は「瓔珞(ようらく)」だと思います。 「冕冠」ではないもう一つの根拠は「冕冠」は「袞龍衣(こんりゅうのきぬ)」と呼ばれる礼服と共に用いられ、「袞冕の服」と呼ばれることです。聖武天皇以来、即位式や正月の朝賀での天皇の服装が、それまでの白一色の「帛衣(はくい)」から、「袞冕の服」に変わり始め、「内裏式」にも規定されるようになりますが、この「袞龍衣(こんりゅうのきぬ)」は両袖に大きな龍の刺繍があります。桓武天皇の写真(延暦寺所蔵品だと思いますが)の両袖には龍の刺繍が無いのが根拠です。 さて、『異例な「すだれのついた冠」をかぶり、衣装も中国風ですが、』とありますが、実は「すだれのついた冠(ここでは違いますが)」は使用しなかったわけでもありません。「袞冕の服」前記したように「内裏式」に規定され、即位式や朝賀に使用されます。広辞苑では「冕冠」として、「天皇が即位などの大儀に着用した礼冠。-略-」。「袞竜の御衣」として「天皇が用いた礼服。-略-即位・朝賀などの儀式に用いた。のちに即位の大礼のみとなり、孝明天皇即位まで行われた。袞衣。」とあります。江戸時代末まで使用されています。(規定では皇太子も同じ様な礼冠を使用するようです) 「冕冠」・「袞龍衣」は中国の唐礼に典拠を持っています。しかし、ここで重要なのは天皇だけが中国の唐礼を典拠とした服装をしたのではないことです。臣下もそれぞれの官職位階に応じて規定の服装をしたわけで、即位や朝賀などの行事に朝廷全体が中国風の格好をしています。(高田倭男氏著「服装の歴史」の66ペ-ジに近世の文官の礼服の図がありますので参考に。一般に見慣れている垂纓の冠や束帯ではなく中国風です。) ではなぜ中国風の格好をするようになったのかは中国文化の受容にあります。日本は7世紀前半からそれまでの豪族連合政権的な体制から、天皇中心の中央集権型に改革されていきます。当時の最先進国の中国隋・唐朝の律令制度を導入しますが、中国から導入したものは律令制度のみではなく、国史の編纂、思想、礼法、服装など多岐に及びます。天皇の呼称も詔書に用いられ特別な用語とされ、読みも「すめらみこと」です。天皇の一般的呼称は律令上は「皇帝」です。このように中国化は多方面に及びます。特に桓武天皇は「郊祀(こうし)」と呼ぶ郊外に円丘を築いて犠牲を奉げ、天の神を祀り、祖先を天神と併せ祀った儀式を二回実施しますが、これは中国の北京に今も残る天壇で行われた儀式そのものです。このような中国化が礼式、服装にも及んだと言うことです。 長くなってしまいましたが、参考まで。

cobamax
質問者

お礼

解説ありがとうございました、 ところで桓武天皇の肖像はいろいろあって、日本風と http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87 中国風の二つの肖像です http://chiba504.hp.infoseek.co.jp/katsurahara/katsurahara.htm これは時々みる耳のところからすだれが一本下がっている延暦寺蔵のものですが 過日NHKの「そのとき歴史が動いた」にでてくる冠は冠から 何本かのすだれが顔前面を覆うように下がっているものが でてきましたが 中国風の二つのものは同じようなものなのか、違う種類なのかお分かりでしたら 解説願います

回答No.3

>>私は鎌倉在住ですので、いま鎌倉の歴史を読み返しているところです 鎌倉ですか。 歴史には欠かせない場所ですね。 確か、だいぶ以前に「義経」が放映されたように思いましたが・・・。 私も、何度か鎌倉には行きました。 もう、大分以前ですが、私の勤めていた東京の病院(当時は、医事課長でした)で、職員旅行の幹事を任されて、立てた企画が、まず、房総に行き、鴨川シーワールドや洲崎灯台を見学して、その夜は、鴨川泊り。翌日は、金谷から九里浜へカーフェリーでバスごと移動をし、そのまま鎌倉までひた走り、建長寺門前の「花心」で精進料理の昼食。そして、大仏さまなどを見学して、病院に帰りました。 この企画が大当たり! 皆が、その後、 「とても楽しかった」 と、言ってくれたことがあります。 そうそう、その時、予算を若干オーバーしてしまい、いざ支払いの段階で、経理課長が、 「予算をオーバーしている、院長に支払って良いか、お伺いをたてるので、お前も一緒に院長室へこい」 と、言われ、私は、おずおずと経理課長と院長室へ行きました。そして、経理課長は請求書を院長に見せて、 「こんなにオーバーしていますよ、院長」 と、迫りました。しかし、その時、院長が、 「カーフェリーも良かったし、何よりも精進料理が美味かった。帰って来てからも、職員皆が、とても楽しかった、と、言ってるじゃあないか。お前にはこんな企画がたてられるか?」 と、逆に、経理課長に問いただし、 「もう、それぐらいの金でとやかく言うな。気持ち良く払ってやれ」 と、私を援護してくれて、経理課長が私の横で、唇をかみ締めていたことを懐かしく思い出します。 それから後、私たち夫婦でも何回か鎌倉は訪れ、鶴岡八幡宮から延びる若宮大路では、一軒一軒店を覗き込みながら歩いたり、「あじさい寺」「駆け込み寺」「銭洗弁天」「大仏さま」。 歴史が好きな私にとては、たまらないほどの街でしたね。 調子に乗って、もう一つエピソードを・・・。 あれは、7月の初旬頃だったと思いますが、一通り見学をして、「茶寮・心々庵」で予約をしておいた「花べんとう」を食べ、支払いの時、ズボンの尻ポケットから1万円札を出してレジをしましたが、その1万円札が濡れていました。実は、私は当時は大変な汗っかきで、汗で濡れたお札だったのですが、店の人は、それをすっかり「銭洗弁天」で洗ったお札だと思い込んだらしく、 「いいのですか?縁起物ですよ」 と、言ってくれました。まさか、「汗で濡れた」とは言えず、 「あっ、まあ、まだ他にもありますから」 と、お釣りもそこそこに逃げて来ました。店を出てからは、家内と大笑いでした。 今度、鎌倉に行ったときに、あなたに「解説」してもらうと、もっともっと楽しいでしょうね。 私は、今、川越市です。 川越市も「小江戸」と呼ばれるだけあって、「本丸御殿」「喜多院」ここには、春日局の化粧室が移築されています。そのほかにも、「蔵造りの街並み」「川越祭り」「百万灯祭り」「花火大会」「さつまいも」などなど、 そのような市で、まだ、私が本当の意味での作家活動をしていない20代後半、そして、川越市に住んで、まだ、数年。と、言う時に、市の職員も混じっての、ある懇談会で、私は、生まれ故郷の「佐渡」について、ウンチクを講じました。 たぶん、そのことが、市役所の部長か課長に印象が強かったらしく、市長から突然に「市立博物館建設委員」の辞令を受け、私は、他の委員に負けないように、川越市を勉強しました。 歴史って、奥が深いことは、あなたも実感しておられると思いますが、私の「趣味」の1コマです。 くだらない話ですみませんでした。 「川」・・・「原」・・・ 「文」・・・「月」・・・。

回答No.2

こんにちは。 >>NHKの篤姫がおわりましたが、「歴史作家さん」はどんな感想をお持ちになりましたか?今後ともよろしくおねがいします。 こちらこそ、よろしくお願いします。 「篤姫」について・・・ 原作者の宮尾登美子さんが、間違っていたのか、勘違いされていたのか、史料の解読不足、だったのかは分かりませんが、篤姫が千代田城を出た日を4月10日と設定されていたようでしたね。 「慶喜公記」では、4月11日に官軍が城を受け取りに正門から入る直前まで、城に残り、徳川家代々の「宝物」で城を飾り付けて、平川門から城をあとにしました。 そして、徳川家代々の宝物・・・確かに「宝物」とは何か?? たぶん、悩んだ末が「生け花」でしたね。 私としては、宮尾さんと肩を並べるほど偉くはありませんが・・・ 実は、私は、もう20年くらい前になりますが、「市立博物館建設委員」(市内の有識者15名くらい)を市長から委嘱されて、13年余り、たずさわってきました。私は13年あまり委員会に出席しましたが、時々、委員の入れ替えがあり、その時、歴史考証家で有名な「稲垣史生氏」と席を同じくした一時期がありました。 稲垣氏の弟子に2~3年前に若くして亡くなられた「杉浦日向子氏」がおり、私も仲間に入れてもらい、2~3回、その方々と某ホテルで食事会をしながら、「意見交換」や「新説」などについての「歴史談義」をしたことがありました。 「今の若い者は、正しい歴史より、面白みだけを追求している。まあ、商売としては、売れることが一番だが、歴史作家と名乗る者は皆、細かいところまで、きちんと史料を読んで世に出して欲しいものだ。今は、それが欠けている。本当に情けない」 と、稲垣氏は嘆いていました。 と、言うわけで、篤姫の最終回は、私から見たら打ち上げ花火が「シュボッ」と、川面に落ちたような、はっきり言ったら「尻切れトンボ」の感がありました。 あれだけ、毎回毎回の放送で工夫を凝らし、徳川の人間として生きた女を描いただけに、徳川を背負っての主人公としての最後は、「ウウウン~。おしいな」と・・・。 また、私も作家、と、言っても、下の下ですが、稲垣氏の影響?も、多少はあり、池波正太郎氏の「鬼平犯科帳」でも、池波氏は、鬼平の役宅を「清水門外」にし、私邸を「目白台」として設定しているが、これは、池波氏の史料の読み違い。実際は「本所三ツ目」が私邸であり、役宅でもあった。 津村節子さん、と言う作家がいます。 平成3年頃、「海鳴」という本を出版されました。 これは、佐渡へ「水替人足」として送られた直吉18才を主人公にしていますが、 私の所属する「某作家協会」で、たまたま、津村氏と会うことができ、一応は、 「良く書けていますね」 と、言った後、 (1)18才では佐渡送りにはなりませんよ。佐渡奉行所と老中との取り決めで20~40才くらいまでの身体強健な者、となっています。 (2)佐渡奉行は旗本から2名が選ばれ、隔年に佐渡へ出向いて役目をしていました。当時の佐渡奉行依田十郎兵衛が「受け入れを拒否」し、翌年になって、老中の説得で「依田は受け入れた」と、なっていますが、無宿水替の受け入れを受諾したのは「宇田川平七」ですよ。 (3)無宿水替が佐渡に着いてから、休息を与えられたのは十日間となっていますが、実際は「三日間」だけだったんですよ。 (4)佐渡相川の「遊女屋」のくだりがあり、「二十四軒」とありましたが、津村さんの設定した時期には、遊女屋は「十四軒」だったんですよ。 (5)無宿水替の居住範囲として、「百三十六坪二分」となっていますが、正確には「百五十七坪」ですよ。 (6)山主-差配人-水替人足の序列で、「差配人」も同じ「無宿」と、していますが、差配人は「無宿」ではなく、普通の人間「平人(ひらびと)」ですよ。 等々の「指摘」を、恐れ多くも、してしまいました。 だが、さすがに、津村氏も偉かった。多分、心の中では「ムッ」としたとは思いますが、 「この本を書く前に、あなたと出会っていればよかった。こんな間違いだらけの本を書いたのかと思うと、自分がはずかしい。そして、指摘してくださった、と言うことは、読んでくださった、ということ。また何かで佐渡を知りたい時は、あなたにご教示をいただきたいと思っています。お名刺を頂戴できますか」 実に、穏やかに接してくれ、私にビールを注いでくれたことがありました。 なお、多くの方が「流人(るにん)」と「無宿水替」を混同されているようですが、この場を借りて、 (よもやま話) (1)「流人」とは、広義的な言い方であって、厳密にいえば、朝廷や幕府権力などに批判的行動をとって罪に問われた者を対象とした、いわゆる政治犯的性格をもった「流刑(るけい)」と、江戸幕府下においての刑事罰を対象とした「流罪(るざい、または、遠島の刑)」とに二分してかんがえなければならない。 (2)「流刑」は、基本的には佐渡に送られても、ある程度の期限付きではあるが扶持米(ふちまい)などが支給され、妻以外の家族や供人を連れて佐渡へ渡ることができた。なぜ妻はいけなかったのか。それは、妻という最小限の家族単位を切り離して禁欲生活を強いる、「付加刑」的要素を持っていたからである。これらの中には、順徳上皇や日蓮上人、観世元清(世阿弥)などの人々がいる。 (3)一方、「流罪」と呼ばれる人々は、当然のことながら単身で佐渡へ送られ、極端にいえば、島へ着いたその日から、自力で生活の糧(かて)をみいだして生きて行かなければならなかった。従って、まず、この両者においても大きな差異があった。 (4)三宅島や八丈島から江戸へは200~300Km以上も離れているのに、乗り逃げ事件は非常に多い。しかし、佐渡は本土と一番近いところでわずか30Kmほどしか離れてはいない。浜には漁師たちの小舟も置き去りにされている。にもかかわらず、佐渡では乗り逃げ事件は少ない。さらに、「流刑」や「流罪」になった者が、島の者と再婚をし、子供をもうけたりして、赦免状が出ても島に残った例も少なくない。 これらは、他の流刑地には余り見られない特異な一面である。そこには、佐渡という大きな大地と、割合豊かな恵みと、島民の大らかな包容力があったからではないだろうか。 (5)しかし、佐渡は正徳4年(1714)の記録の中に「お構い場所(おかまいばしょ=罪人などを送ってはいけない場所)」との記録がある。それは、当然、天領地佐渡の金銀が幕府の重要な財政基盤となるにつれて、佐渡での経済活動も活発になり、陸路、海路などの交通網が整備され、「罪人を隔離する」という性格が薄れてきたためである。 (6)史料によると、初の流刑は養老6年(722)であるから、およそ1000年で、佐渡は流刑地としての役目を終えた。 (7)さて、「無宿者」が水替人足として佐渡へ送られることが決定したのは、安永7年(1778)であり、「お構い場所」となってから60年余りが過ぎてからのことであり、「無宿水替」は、多少は軽微な罪(けんか、博打など)を犯した者もいたことは確かであるが、そのほとんどは、「無宿者」という、飢饉などで生まれ故郷の痩せた田畑などを捨てたり、次男三八の穀潰しと言われて、江戸へ出てきた一種の浮浪者で、「人別帳」に乗らない人々を指し、現代で言えば、住民票を移さないまま都会へ出てきた者たちのことである。 (8)そして、「無宿水替」は、金銀山の「水替人足」の役割としてのみに送られた者である。 (9)多くの方々が、佐渡へ「流人」が送られて「水替人足」として働かされた、と、言うのは、全くの「デタラメ」であり、大きな間違いである。混同もはなはだしい。 さと、次回の大河ドラマは、戦国武将「直江兼続」ですね。 直江は、佐渡との関係も非常に深いものがあります。 どこかで、佐渡が出てくると嬉しいのですが・・・。 ちなみに、私は佐渡の生まれです。

cobamax
質問者

お礼

感想をいただきありがとうございました 私は歴史物が好きで「大河」は欠かさずみていますが 明治維新を男性の目からみたものはたくさんあり、それなり に面白いのですが、明治維新はバックグラウンドが大変複雑 な上、主人公たちの考えが「いろいろ変わり」ついていくのが、たいへんでした、その点今回は女性の目から見た幕末をひとりの女性の目を通し その女性が「一本道」を歩んできたのが大変印象に残り幕末 維新 の見方が以前より視野が広がったように思えます、また印象に残った のは、井伊と篤姫が茶室で会話したなかで、井伊の 「攘夷 攘夷といって声高に言っているものたちに、この大切な日本をまかすわけには行かないのです」がとても印象に残りました 私は鎌倉在住ですので、いま鎌倉の歴史を読み返しているところです 大河ではたびたび鎌倉が登場しますので知人から良く案内をたのまれますが不勉強でいつもまごついているところです 今後ともよろしくご指導ください

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