自称「歴史作家」さん、こんにちは。
朝起きてみると自称「歴史作家」さんの文が目に付いたので、私の意見を書かせてください。*の後に書いてあります。
fumkumさんの言われる通り、「冕冠(べんかん)」は、「礼装」の時、つまりは、儀式の時に用いられるのが、(現代の)通例です。しかし、「瓔珞(ようらく)」は、仏教としての「権威」をあらわすもので、「瓔珞」は、仏教に対しての「権威付け」であって、世俗の天皇が被るものとは違います。
*「瓔珞(ようらく)」については広辞苑でも「(1)インドの貴族男女が珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具。頭・首・胸にかける。また、仏像などの装飾ともなった。瑶珞(ようらく)。(2)仏像の天蓋、また建築物の破風などに付ける垂飾。」とあり、元々はインド起源のものです。しかし、漢字がインドの言葉を音訳したものでないことからも元々同じ様なものは漢語にもあり、その語をあてています。
さて、桓武天皇の冠については私は次のように書いています。「桓武天皇は頭部は冠ですが、左右に垂れている物は「瓔珞(ようらく)」だと思います。」と。「瓔珞」については左右に垂れている物についていっているのであって、冠まで言っているわけではありません。この桓武天皇の冠については冠の下部の縁の左右に穴があり、そこからかんざしを挿し込んで留める形式だと思います。紐で留めることもあるのですが、ここではかんざしを挿し、そのかんざしの頭に飾りを付けた形式であると思います。
桓武天皇の時代背景を考えると、当時は、日本古来の「神道」と「仏教」の「はざま」であり、特に、聖徳太子などは、仏教の始祖とも言われていますが、朝廷としては、依然として「神道」が唯一の信仰の対象でした。
* 平安時代の前の奈良時代は「鎮護国家」の盛んな時代で、国王が仏教を尊崇すれば諸仏が国を護ってくれると考えられる「国家仏教」時代でした。「金光明最勝王経」などが主要経典でした。聖武天皇は741年に武蔵などの各国に国分寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)を造ることを命じ、743年には「夫れ天下の富を有(も)つ者は朕(天皇の自称)なり。天下の勢を有つ者は朕なり。この富勢を以て、この尊像を造る。」として廬舎那仏(奈良の大仏)の造立を命じ、自身のことを「三宝(仏・法・僧)の奴」とまで呼んで仏教に帰依しています。なお、天武天皇は壬申の乱に勝って即位するまでは近江朝の追及をかわすために出家しています。また、聖武天皇の娘の孝謙天皇は退位後出家しています。ですから、神道が唯一の信仰対象と言うのは間違いです。なお、最澄・空海共に桓武天皇の時代に入唐し、最澄は官費によって行っています。帰国後桓武天皇の病気平癒の祈祷を宮中で行っており、また内供奉(ないぐぶ)といって宮中の内道場に奉仕し、御斎会(ごさいえ)に奉仕し、夜居(よい)を勤める高僧10名の中に選ばれています。このことからも桓武天皇の時代にも宮中に仏教道場と、仏教僧の存在があったことが分かります。
桓武天皇が平城京から長岡京に遷都したのも、北に大仏殿という、天皇の御所を見下ろす建物ができたために遷都を決意しています。その後、平安京へと、さらなる遷都をしていますが、それはともかくとして、平城京から長岡京への遷都は、大仏殿を嫌ったからに他なりません。
* 長岡京から平安京への通説では藤原種継暗殺事件と、それに続く皇太子早良親王の廃太子及び親王の自殺により怨霊のうわさが出たのがきっかけになっています。北に大仏殿云々は聞いたことがありませんので根拠となる学説や典拠があるようならお知らせいただきたいと思います。調べてみましょう。
そうした、天皇が仏教の「権威」である「瓔珞」を支持するわけもなく、また、遣唐使などにより伝来した、中国の「儀式」「作法」を取り入れたことは、当然のことであったと思います。
また、近年の「平成天皇」などは、そのような「冕冠(べんかん)」を付けたりはしませんが、平安時代の天皇の「礼式日」には用いられた記録も多々あります。
*前の文章にも書いた通り、「袞冕の服」は即位式においては明治天皇の父である孝明天皇の即位までは使用されています。それ以降は使われていません。これはあまりに中国風であったためであると考えられます。ブリタニカ百科事典の天皇の項目には平安時代初期あたりから「中国式皇帝」との小見出しを付けています。
天皇家は、日本古来から、通説として「神道」ですので、仏教文化?の「瓔珞(ようらく)」を取り入れる体制ではありませんでした。
*天皇家は奈良時代以降仏教に帰依することが多いことが通説になっています。「王法、仏法あいまって」との慣用句はよく使われるところです。
しかし、中国(唐)は仏教思想。
*唐朝の国教は一応道教とされています。道教の祖老子(姓が「李」)は唐王朝(王室の姓が「李」)の祖先だとされていたからです。でも実際は儒教・仏教・道教の混在ですが。
では、「瓔珞(ようらく)」で良いのでは?
それは、当時としては、神仏混合の時代でもありましたが、たとえ天皇といえども、「仏門に帰依」することはなく、ただ単に中国(唐)風を真似ての「権威の象徴」であり、仏様になるほどの「瓔珞(ようらく)」を真似したのではない。
と、考えます。
ただし、中国(唐)などでは、仏教国でしたから「瓔珞(ようらく)」が、そもそもの「起源」かもしれませんね。
ただし、その後の中国は分かりませんが、日本としては天皇の儀式としては「冕冠」と呼ぶのが正統かと思われます。
*「冕冠」については冠の上に長方形または日本式の正方形に近い「冕板(べんばん)」と呼ばれる板と、その前後または日本式に前後左右に玉を貫いた糸縄があるはずです。しかし、画像ではどう見ても「冕板」がありません。ですから「冕冠」ではないのです。なお、「袞龍衣」と「冕冠」については吉川弘文館の「国史大辞典」を典拠として書いています。ここに、描かれている「袞龍衣」と「冕冠」(「冕冠」は一部)の図は日本で使われた物ですから中国で使われたものではありません。それから、この画像が儀式の場面を描いているとも思えないのですが。
自称「歴史作家」さん、また、どこかで。
質問者の方には質問から外れてしまって申し訳ありません。参考程度に。
お礼
回答ありがとうございました わたしの以前の何回かの質問に丁寧に回答いただいております 感謝いたします、今回は「桓武天皇」ですが ご推察のとおり「そのとき~」をみて冠より顔の前に いくつかの「すだれ」のような「ひも」みたいなものが 何本か垂れ下がり、歴代の天皇のなかでは特異な冠 なので「唐風」の流かとおもいました 歴史作家さんは江戸が専門かとお見受けしましたが、守備範囲が 広いですね、 話はとびますが、NHKの篤姫がおわりましたが、「歴史作家さん」はどんな感想をお持ちになりましたか? 今後ともよろしくおねがいします