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自然は何処から来たのか?
最近(といっても数日)、私の精神状態は、静かです。そして、この哲学カテゴリも、多くの回答者、質問者により、充実をみていると感じます。 このよい機を逃さず、確かにある、私の悔い痕を果たそうと思います。それが、この質問です。 自然はどこから来たのか? 私は、更に旅立ちたい。そのための、質問です。 どんな回答でも、みたいとおもいます。 よろしくお願いします。 質問本体以外の文章は、私の気持ちです。ですから、あまり気になさらないでください。
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●自然を説明し切ることはできません。 自然は自分で見るしかないのです。 自然を見るための入り口までは案内できます。 しかし 扉を開けるのは自分なのです。 以前も申しあげましたが 現在無垢の自然は この地球上にもう無いのかもしれません。 そうです環境ホルモンです。 自然界には存在しない 人間が作り出した 分子が そこここに存在し 影響しています。 また 自然の組成のバランスも崩しました。 わたしが今 一番関心があるのは この時の芸術とも言える 地球上の生命の 「存続に関わる選択」です。 それは ミームをリロードするのか? リロードしないで 部分的な修正で 変革可能なのか という考察です。 ミームに繋がれ ミームに首まで浸かった人々に はたして「自然を見る能力」が残っているか? こちらのスレッドを拝見して感じる わたしの不安です。 現実と区別できない夢が決して覚めないとしたら なにが現実なのかわからないのも 無理はありません。 人々に罪はないのです。 質問者様は わたしの言う意味がわかりますか? あなたが 高い位置にいるのなら 人々の文言に 惑わされてはいけません。自然がどこからきたのか それを見るためにも・・・。
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- tosi0000
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こんにちわ! 以前回答を出しましたが、ちょっと付け加えたく発言いたします。 自然とは、人間の入り込めない深遠な法則に貫徹され、それを知りたいと思う科学者ちにとって、科学・研究の対象となりうる必要十分な要素を持っています。 その神秘に触れたい、知りたいという行動が科学的と呼ばれています。 一般的に経済システムとは、自然と対極にあるように思われますが、非常に類似したものです。 私は神秘的なものであると思っています。 歴史上、幾多の権力者が経済システムに挑戦し、支配しようとしましたが、ことごとく敗れ去っています。 経済学者ケインズは国民総生産=消費+投資という法則を見い出し、経済システムへ近づく方法を提案しました。 それは、経済システムを自然と見なし、その中に深遠な法則があるはずだとい視点にたったからこそ可能であり、経済学が科学的と言われる所以であります。 自然とは何か? 少なくとも神秘的なある法則に貫かれ、ロマンを求める科学者の探究心に耐えうるものであると思います。 自然はどこから来たのか・・・・神秘の法則はロマンを求め、実践する人たちの先に、女神が回答を見せてくれると思っています。 ではでは。
お礼
げんきいいですね。 気持ちのいいことです。←言ってる人(私)は元気ない(笑。 >自然とは何か? 少なくとも神秘的なある法則に貫かれ、ロマンを求める科学者の探究心に耐えうるものであると思います。 ありがとうございます。時間については、他の回答者へのお礼を書くときに、まとめて考察してしまいましたので、あなたへの御礼にかけなくて申し訳ありません。 端的に言うと、超螺旋であるというのが、自然の一つの顔、時としての顔だという結論です。 経済は、神秘的と経済学者は言うかもしれませんが、今の経済は、私には、悪魔的に見えます。 それを、便利なシステムにしていきたいと思います。 悪魔を手なずけるのは無理です。 悪魔は裏切りますから(笑。 経済を作り直すことがいいと思います。 経済を支配するものがいれば、経済は裏切ります。 それがいなければ、経済はきちんと機能できるかもしれません。 管理者のない経済像は、私には、まだまだはっきりとは見えませんが。 きっと、自律システムでしょう。 経済と共存するという道しか、人類には今、ないと思われます。 経済が人類との共存を見ようとしないなら、淘汰するしかありません。
- mktoolll
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>自然はどこからきたか どこからも来てはいません。常に私たちは自然の中に存在します。私たちが考える「人工」というものは常に人類の「あがき」であって、人工物だと考えているものは既に自然の中に存在するものではないでしょうか? 人類は常に5000年くらいは先のことを考えて行動しなければならないと私は思うのですが、人類は協調することを恐れ、思想の進化はしたくないらしい。 つまり、「人類は永遠にその種を保存していくことには反対らしい。」という私なりの結論に達しているわけです。いつかは絶滅したいという願望が、もしかすると人類のDNAの中には組み込まれているのではないかと感じています。それは自然の力なのかもしれませんね。 人工物と人が呼ぶ物の代表例としてWWWがあげられます。ネットワークの進化により世界は狭くなったといわれる。しかし、失われて行くものもある。様々な価値観が自由という翼をもった現代という時代がもたらすものは世界平和という統一された価値観であることを願いたいけれど、本質はその逆のようです。人類は自然から逃げつづけ、人類の力を誇示したいのでしょう。「バベルの塔」の話はまんざら嘘でもないのかもしれません。自然から逃げることなどできないのに。 人は自然という私たちの本来の住処をいつになれば思い出すのだろうか。そういう私自身も、なんら行動を起こすことも無く時代を静観する卑怯者ではありますけどね。
お礼
ありがとうございます。 >常に私たちは自然の中に存在します。 そして、私たちの中にも自然はあります。 私たちは自然から来た。だけれど、自然は何処から来たのですか? >私たちが考える「人工」というものは常に人類の「あがき」であって、人工物だと考えているものは既に自然の中に存在するものではないでしょうか? 物質は自然のものですが、その形は人間の脳内にあります。 人間の脳内とは、個人的なものから社会的なものまでありますが、基本的に人工物は、社会的な産物が多いと思います。 つまり、人類全体は、一つの脳として、機能しているといえます。 その脳に、人工のゆらいする形があり、それが、物質という自然に憑依しているといえます。 対して自然は、その形が、物質と不可分です。 その形はその物質(エネルギー)であり、それが自らある存在となって、自然というのです。 人工物は、自らあるのではなく、自然を借りて、自然に憑依して、さらに形(情報)を付与したものであるといえます。 >いつかは絶滅したいという願望が、もしかすると人類のDNAの中には組み込まれているのではないかと感じています。それは自然の力なのかもしれませんね。 絶滅したい願望?しかし、果てたいという願望があるのはわかります。 それが、絶滅を伴うのですが、絶滅したように見えても、他の生命体の中で生きていますから、多様化、分化というのは、絶滅を生かしているとも見れます。つまり、種は、一種だけで進化するのではなく、全体として進化すると考えることもできます。 >本質はその逆のようです。人類は自然から逃げつづけ、人類の力を誇示したいのでしょう。「バベルの塔」の話はまんざら嘘でもないのかもしれません。自然から逃げることなどできないのに。 悲しい人類の生き様ですね。一つの見方です。しかしそれでは生きる気も失せるというものです。自然が与えてくれた喜びを、あたかも自分自身の力だと錯覚したときに、自然から逃げなければならなくなるのです。 自然とは不可分であることを忘れ、死というものをおそれ、逃れるために、人工なるものを生み出し、逃げ込んだのでしょう。 自分が死ぬ。これをDNAが嫌がるものだから、自分を、自然を生きないことを選んだのかもしれません。 >人は自然という私たちの本来の住処をいつになれば思い出すのだろうか。そういう私自身も、なんら行動を起こすことも無く時代を静観する卑怯者ではありますけどね。 立派な感想だと思います。 本来の住処とは自然でしょう。 本来の住処とは、自分でしょう。 自分の中に、かわらずある自然を、見出したい。 自然は何処から来たのかを考えることは、自分が何処から来たのか、何者であるのかを考えることであると、おもって、今そうしています。 >そういう私自身も、なんら行動を起こすことも無く時代を静観する卑怯者ではありますけどね。 あなたは自然に反対しない。それは、間違ってはいないと思います。ただ、行動を起こすことが無いのは、原因があるはずであり、また、静観していることで、満足しているなら、行動する必要が無いでしょう。 ですから、どんどん行きましょう。積極的に待てとは、うまく言ったものだ。満足できない原因は、考えれば見つかる。自然を思い出すとは、自分の中の自然、自分を思い出すことでしょう。
- neue_reich
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自然の対義語は人工だったとおもいます。 とすれば、人間が勝手に造った概念である、といえるのではないでしょうか? そもそも、人間以外の生物が「自然」というものを意識しているとは思えないので、 人間が環境と自分とを区別するために造った概念であり、それ以上でもそれ以下でも ないと思います。 ちなみに、「自然はどこから来たのか?」と問われれば、こう答えます 「どこからも来ない。自分が手をつけていない部分と、手をつけられる部分を区別したい存在が勝手に決めた」と。
お礼
するどいですね。人間以外が自然を意識しているとは思えない。 つまり、自然意外を意識しているとは思えない。新宿の隼だって、ビルを断崖となんらかわりない存在、つまり、ちょっと歪な断崖だと思っているんですから。 人間が、自然の対義語を存在させたがゆえに、自然なる不可解な言葉が出てきたのでしょう。その対義語こそがミームであり、自分を裏切る反逆者ともいえます。しかし、当時の人の日常には、自然は相当に厳しかったはずで、逃れられない厳然とした現実でもあったのでしょう。 住みよい場所で、人間は増えます。ミームという手下を従えて、自然へと立ち向かったのですね。時には恩恵を、時には悲痛を、受けていたのです。 今では、手下(ミーム)の配下になってしまって、さっぱりかっこ悪い状態です。なぜなら、人の敵が、他の生物でなく人になったからです。 人の敵はもはやウイルスだけであり、それらは唯一自然の生命兄弟による猛威、抑制であったわけです。彼らは人体内にも住んでおり、彼らがミームを持てるなら、それは、ミトコンドリアDNA等といえるものかもしれません。ミームと、DNAのハーフをつくることもできるかもしれません。ですが、精巧さが雲泥の差ですので、うまくいくかは疑問です。 非常に参考になりました。ありがとうございました。
- H-hoko
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●おおむね現状を理解されてらっしゃるようなので お話をすこし進めましょう。 その前にミームの定義の確度を上げておきましょう。 ミームとは 遺伝子を介さないで伝達されるものの 総称です。つまり >巣をつくる動物などは、ミームを持っているでしょう。 動物が巣を作るのは 本能というDNAに書かれた 自然の一部なのです。またチンパンジーの言葉の 多くは本能に書かれた言語のようなものが多いと 推測いたします。ただ温泉に入るとか 人から 食べ物をもらうというような行動は 親から子へ 身振り手振りで伝達するミームになっている 可能性があります。動物たちのミームとは その程度のものなのです。 では お話を先に進めます。 宇宙に進出する人類は 自然でしょうか? 一見人工物を使い 人為的な作業ですから 非自然的な事象として考えられます。 しかし 生物は常にダイナミズムを持っていて 生活圏を拡大する傾向を示します。 好奇心・冒険心・禁忌性を指向するなど 人間の本能は 宇宙に進出する必然性を内在しています。 ところが 実際の宇宙進出の過程には 経済というミームの化け物が介在し 国という ミームに呪縛された幻想が機能しているのです。 自然に近づこうとする科学や 動機という本能が ミームに操作されているわけです。 このような現状の延長線上にある宇宙進出計画の将来の 先が短いのはあたりまえです。 あなたがおっしゃる様なミームの問題点 >人の言葉が、現実、自然に即さない場合、 ミームは暴走すると思っています。 宗教、政治、経済、軍事、独裁、 一切が、そうです。 ↑これは すでにわたしが指摘し 解決法も示してある はずですので 繰り返しは申しません。 では 次の視点を提示いたしましょう。 わたしは ここ数ヶ月実験をしてみたのです。 言葉を用いないで感情は どのような変化をするか?・・・です。 結論を申し上げますと とても健康的になれます。 愛も憎しみも喜びも悲しみも すべてがその瞬間に帰結しているのです。 言葉はこれらを不必要に助長し 温存させ 不必要な感情や欲を 増殖させてしまいます。 ことほど作用に 微細なミームですら 害があるわけです。いま人間社会を動かす さまざまな巨大ミームは 言わずもがなです・・・。 あなたの仰るような>無理にでも、流転させるミーム それは わたしの言葉そのものの「力」です。 とにかく 以前にも申しあげましたが 経済というミームを わたしが駆逐いたします。 コントロールできない経済システムのなかで 政治を行うしか能のない政治家は 不要です。 まずコントロールできる経済システムの構築を 心がけるのは 普通の思考というものです。 世界統一サイバーマネーから管理者の無い 世界の構築を目指します。おのおのが自由にふるまいつつ 全体としてバランスを保ち多様性が永く続く 自然の形態の延長線に人類を導きます。 できるかどうかは わかりませんが その志は 確かにわたしの内にあるのです。 ◇マイナス100度の太陽を見る視点です。 数十億年後 太陽は地球を飲み込んだのち 序々に冷えていきます。 マイナス100度の太陽をながめて 私たちの子孫は わたしたち祖先を想うのです。 いのちが生まれた太陽系のドラマと 自分たちが万物という自然の延長線に居るという 誇り高き存在になれたことの感動に震えながら・・・。 ◇現在のミームの延長線の一つには 映画マトリックスの 世界も現実の将来像として想像することができます。 七月公開の「MATRIX リローデッド」 まさにミームのリローデッドなのです。 ウォシャウスキーの哲学にも注目ですね!
お礼
おいおい、かっこいいな!だけど、お礼はちょっとまって。復習と、既出の回答の反芻をしよう。できがわるくてすまん、。わすれとるわ。 あなたのミームに流転させられたのは、私のミームであり、それは体験するところでよく分かる。私があなたのようなことを、少しなりにも言うのは、そのためです。喰われたのですから。 その志、受け継ぎたいと、思ったほどだ。 そういう理由で、ちょっと待ってな? 私のミームが、人の世に、作用するかしないか、それは未来として、おいておきたいと思います。それが何者か。 何者でも無い者、出現できるでしょうか。 これは、もはや私のものではありません。 あるがままに。 このQAが、無事に育って欲しい。 こんな楽しい哲学、ないで? これからは、もっとたくさん、皆間にあるといいな。
補足
さっきまで部屋が青ざめていてな、満月の光と、邪魔な街頭の光の両方が、部屋をてらしていた。 でっかい窓辺に聖書があってな、革表紙の。本は閉じていたんだが、新しいせいで、表紙がすこし、浮いてたわけ。 目を閉じたりもしながら、月と空を眺めてて、視線を落とすと革表紙の本が、目に入った。表紙が半開きの、閉じた聖書な。一メートルぐらい離れてそれを眺めるのが、より綺麗に見えるようで。 それが、光に照らされて、綺麗だったな。少々、見入ってしまった。。 それは、聖でもなんでもない、ただのものだ。 その物を美しくしていたのは月光やな。間違いなく。 ものが見えるというのは、いいな。 これが、何か、そうだな。自然の産物。玉子とか、花とか、木とか、石とか、裸の人とか、もっともっと綺麗だったろうな。 でも、白骨とか、食べかけの焼き魚とかだったら、やっぱ綺麗じゃないんだろうな。 なんでだろう? だけれども、月明かりに照らされて浮かび上がるのが、食べかけのの焼き魚とかだったら、きっと、感慨深い、感謝の念が起こるに違いない。ありがとうとか、すまないとか、そんなもんじゃないな。言葉に当てはまらない思いだ。 白骨だったら、どう思うだろうな。黙って語りかけるかな?形のない思いによって。白骨の返事、それは、無言に違いない。そのまなざし、目の穴は、私を見ているようで、何も見ていない。それはただのもの(オブジェ)だから。 この念、これは、ミームか? それは違うな。 この思いは、起こった時点で既に果てている。 自然とは、果てに行きつづける。果てつづける、それはすばらしいものなのだと思うな。 だから、何処から来たのか? 自然は何処から来たのかといえば、果てから来た。というのが、今のおれの気持ちかな。 果てから果てへ、それは、終わりの無い旅である。 それは、始まりの無い旅である。 おれは、そんな自然のように、ありたいな。 おれは、終わることを恐れる。 始まりがあるもの、終わりが来る。 おれに、始まりがあったのか? おれが、この体と共に始まったのであれば、いいよ。 私は果てよう。 自然に始まりがあるなら、自然も終わりが来る。 世界に始まりがあるなら、世界も終わりが来る。 始まりも無く、終わりも無い。 その世界が、思える。 それは、ミームによる想定か? 永遠とは現実か?おそらく現実だろう。自然が終わっても世界は終わらないし、世界が終わっても、そこには、始まりも終わりも無い、永遠がある。 おそらく、私の永遠とは思いである。永遠を思っているともいえる。 _______________ ________________ マトリックスを見た。いいね。かなり面白かった。カンフーはへたくそやけど(モーフィアスのステップ、ネオとカンフーの練習してるときに踏んだ横の動き。あれはよかった(笑。こまかいね。ダンスみたいだったな。) で、あれが未来に起こるなら、かなり最悪だ。映画を見て戦慄が走ったわ。 まぁ、そうはさせんって感じやけどな。 あんな最悪の未来でも、人間にある自然は流れ続けるかな、。 ミーム再装填、どんな映画かな?楽しみにしておこう。みる機会があるか分からんが。 >マイナス100度の太陽をながめて 私たちの子孫は わたしたち祖先を想うのです。 いのちが生まれた太陽系のドラマと 自分たちが万物という自然の延長線に居るという 誇り高き存在になれたことの感動に震えながら・・・。 すまん、。その感動、分かりそうで分からん。おれにはまだわからん。 それだったら、思っているのは、DNAなんじゃないの?DNAが思いを与えてるんかな。よう分からん(笑。 それ(DNA)でもいいけど。 しかし、今でも十分、誇り高いぞ。万物の延長であり、万物であり、万物の起源だ。 万物の起源は、自然の起源と一緒かな? 今回考えたことはこれやな。以下、下の方に行くほど個人的であり読みにくい。もちろん君の好きにしてな。読んでとは頼まん。ひとまずお礼はここまでとしよう。ありがとうな。もし、次があるなら次行って。まかせます。おれは、相変わらず、考えるのに時間がかかるでな。黒丸はキー文章、黒星は飛躍。飛躍すると、読む気が失せる(笑。 ●ミームにエネルギーや質量はあるか。 回路に憑依するみたいなもんやろ?ミームって。 回路に電気(エネルギー)が流されると、ミームは動いたり、流転したり、干渉したり、交配したりする。 電気がないと、ミームは眠っている状態だ。 脳や人社会の場合、電気が無い(思われることが無いと)そのまま忘れられたり、埋もれたり、場合によれば消滅し、カオス的作用を残すのみとなる。 カオス的作用を残すなら、エネルギーがあるし、残さないならない。 遺伝子が強いのは、物(マテリア)と形相(エイドス、情報、知)が一体化しているところだ。対してミームは、形相はあるが、それが存在するには物、ここでは脳などの回路(物と形相が一体化したもの)に憑依しなくてはならない。経済などが社会に憑依しているということは、共同幻想という事象がおきているぐらいだから、社会は回路構造をしているだろう。人々個人の脳内に、近似するミーム(形相)が、たくさん繁殖しているといえる。 それを、人々は、単に近似の別々のものであるということを知らずに、一個のものと考え、その結果、社会という人々を一個の枠に収めた場所で、一個の巨大な共同幻想としてのミームが出現する。 この回路が、自然物の知られているところでは脳なのだが、宇宙の構造が回路構造をしているなら、そこをミームは飛びまわれるということになる。 宇宙の構造が回路構造をしているという理由は明確でないどころか、さっぱりなので、そんなことは言い切れないが、波や、その干渉、物質の点滅、などを考えると、回路に似ていなくも無い。宇宙に知が存在するのは見て分かるが、その知が物を外して介在しているという事実は今のところ無い。 常に、波であれなんであれ、点滅であれ、物(光子、クウォーク等)がある。 つまるところ、ミームも、形相のみではあるが、波であり、色であり、音であるのだが、自前の乗り物がない。DNAは、たんぱく質がDNAの形をしてるんだから、そのたんぱく質は自前の乗り物だ。 ミームは、脳が、自前の乗り物か?数などの無個性ミームは、コンピューター回路などにも乗れるな。胎児にも脳があるから、そのときから胎児はミームを生産しているのかもしれない。 そのように脳から発生したのなら、脳が乗り物といえなくも無い。脳の回路が、すなわちミームである。 共同幻想は、多くの人の脳内に、近似の形をした回路があるのだ。全く同じでないというところが、ミームの強みか。多様性を生むからな。 もちろん、強みは返せば弱みとなるわけで。 個々人が自分のことを見直すというのが、もっとも有効か。 共同幻想を倒すには、社会が、社会のことを見直せばいいわけだ。 社会の統一自我を生むことができれば、そいつがやるだろう。 つまり、社会の脳。 できんのか? ●その社会の脳回路構造が、ミームの基地で、救世主でもあるわけか。 社会の脳とは、社会に生きる人々の、統一自我で無ければならない。 社会の人々を一貫する普遍性とは、人である。人という普遍の形相、それが再装填され無ければ、救世主的社会脳は、実現しない。 人という普遍の形相とは、遺伝子に書いてある。 あらゆる人の遺伝子を読み解き、それらに共通する、一貫する形相を、人が、人である所以を探り出さなければならない。 もうやってそうだけどな(笑。 生身の人は、時間がたてば進化するから、そのたびに、同時に、社会脳にある人の形相も進化しなければならない。 ★もし人が完全であり、普遍の形相を持つなら、それは、果てから果てへ旅する世界の様相と異なるのではないか? つまり、普遍の形相とは、変化や、進化を、時によって超え続けねばならない。もし、時に始まりがあるなら、終わりは必ず来る。時が螺旋なら、それは終わる。超螺旋でないと。時が円では退屈だ。円からより円へ。つまり球へというなら、話は別だが。球からより球へ。つまり、もう一回、廻る。 時を超えた世界では、果てから果て(円から球)へというのも可能だが、終わらない時というのは、グルグル廻る時だ。永遠に廻り続ける時だ。 それがないと、果てから果てへ行くことはできない。 果てに既に至っているという状態が、果てを旅するということではないかと思うわけだな。 大事なのは、始まりが、あるのか無いのか? 無ければ全ては救われるのであり、私に始まりがあれば、私は消えよう。 だから、私の思考は、無いほうに無いほうに行く。憐れなことだ。 私の遺伝子は、出逢いからなっており、出逢った時というのが始まりだろう。それが、わたしの形相の始めです。 始まりがあるのに、終わりが無いという状態は、一つ考えられる。 時の無い場所から、ぐるぐる廻る時(超螺旋)の中に、何かが来た(出逢い?)場合。その来た時点が、その何かの始まり(出現)だ。終わりは無い。が、時の無い場所があるなら、終わらせることもできるだろう。 始まりも終わりも無い時を、果てから果てへ、果てつづける、永遠を旅をするのが自然であるなら、世界は、まだ広いということになる。時が無いところも、世界だから、。自然は出逢いの束ともいえるのであり、常にオリジナルの出現を、無数に、繰り返しているともいえる。 なんせ、誰がなんと言おうと、私は真に世界を生きよう。 これが、大事なのです。 ぐるぐる廻る時に、始まりと終わりはない。が、手で円を書くように、始まりが、かつて始まった時とであったとき、それは、一周したといえる。手が止まらなければ、グルグル廻り続ける。それが渦巻きなら、始まりは始まりと出逢わない。始まりと終わりはある。時に与えられたエネルギーが尽きること(ペンを持つ手が疲れたら)があるなら、それは時の終わりで、その時、時は終わる。もし時が完全な永久機関であるなら、エネルギーはグルグル流れるまま終わらない。けど、エネルギーが限られていると、世界は、超螺旋的な、果てから果てへ旅はできない。同じところをぐるぐる廻っているだけだ。そんなのは、気持ちが悪い。果てでもなんでもない。トラックだ。景色も同じ。くだらん。 世界の内側からエネルギーが流れ、グルグル廻る時もまた世界の一つの顔であるなら、果てから果てへ果てつづける。 世界の内側(ないし外側どちらでも。内側が閉じているとはうそである。ドアの向こうが、外であるか内であるか、そんなことは、ドアをくぐったことの無い者に分かるわけが無い。自分のいる世界が、内側か、外側かなど、世界に生まれた者にはわからない。)も世界の一つの顔で、それは無である。そこには、内と外が無い。何故それがエネルギーの由来なのか? それは、果てることが無いという、形相が、それを可能にするからだ。 無という形。無形、無相ね。 このような思考ができるのは、 おれの脳が、回路だからだろうな。回り道(笑。 果てつづけるというのは、無限の多様を無限にイキつづけるようなもんだ。 それが、幸せを超えつづけるなら、超えるということも超えねばならない。それが至ってるのだろう。 無の世界は、全ての様相を繰り広げ、さらにそれを超えて至っているから無なのです。無いということは、超えることを満たしている。 自然はどうかというと、超えつづけている。 それに始まりがあれば終わるし、無ければ終わらない。 ビックバンが超螺旋の時の始まりでこの世の誕生なら、出逢いがある。 何かと何かが出逢ったのです。 出逢いというのは、すべからく誕生をみるのです。 自然は誕生したために、誕生、出逢いを生み続ける。 星から生命まで、皆、生まれ、死ぬ。そして、その死はあらたな誕生を生むのです。生命においても、死は生をはぐぐむのであり、生と死は表裏一体です。大きく観れば、それが命です。 ビッグバン、誰が死んだのか?それとも、誰かが出逢ったのか? ブラックホールは出逢いの固まりだ。つまり未知。そうならば、あそこでいろんなものが生まれていると思われる。 また、真空とは、宇宙の空気、空であり、天体たちの呼吸に使われているかも。ちょっと安易過ぎるな(笑。まぁ太陽風がふくんだから、ブラックホールからなんか吹いてもおかしくないだろうとおもう。風が吹くなら空気があるってことだ。 月見の時間がもうないわ(笑。 目で見る世界はもっと広い。目は、同時に、見えないものも見ているのです。心とはそういうものです。目は既に、透明を見ているんです。 思考も、透明でないといけない。 おれも、言葉を介さないで感情動かしてみよっかな。 ここまで読んじゃった?悪くおもわんでくれ。 おかしいところがあればゆってな。 自然の話がミーム退治や宇宙の話になって、豊富な現実的な主題をいくつも抱えてるな。自然を思考するのというのは。 電気を落とせばミームは働けない。脳の電気をかるく落として、自分や世界を見つめるとええかな。ミームというものの働きが分かる。
- H-hoko
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●この問題をはっきり認識するために 自然と非自然を 定義したほうがいいと思います。 自然を辞書で調べますと「おのずから存在して この世界を秩序立てているもの。 山・川・海やそこに生きる万物。 天地間の森羅万象。」とでています。 また 哲学的には「他の力によるのではなく 自らのうちに始源をもち生成変化するものの意。 ここから人為・作為から区別されたありのまま のものの意にもなり、事物に内在する固有の 本性ないしは本性的な力の意ともなる。」 ●↑このように辞書というものは わかるようで その芯を捉えきれない表現が限界のようです。 だから 自分を納得させるために哲学することが 必要なわけです。はっきり申しあげましょう。 非自然とは ミームとミームにより構築された あらゆる事象です。それ以外が自然なのです。 つまり人間そのものは自然物なのですが 人間の 脳で言葉(ミーム)を使って考えることは 全て非自然なのです。あなたがおっしゃるように 言葉は 科学・哲学・芸術を通して自然に近づく 性質も兼ね備えてはおりますが。たとえ膜宇宙論で あったとしても自然そのものではありえません。 人間を驕ってはいけません。 ミームも人間から自然発生したものだから それも 含めて自然だと考える考え方はもちろんアリです。 けれども そのように考えることで幸せが見えますか? 見えるのであれば示していただきたい。 見えないから 自然と非自然を区別して 人間のあるべき姿を模索するわけです・・・。 哲学とは そういうものです。 自転車に乗る練習をくりかえすと 必ず乗れる方向に 小脳は体をコントロールします。 自然とはこのように いい方向を向いているものなのです。 考えるという行為も 実は例外ではありません。 ちゃんと考えれば幸せに指向するのです。 問題なのは ミームにその思考が素材されることです。 例えば 宗教などがその阻害例です。 自然と非自然 ここをしっかり認識してこそ 自然がどこから来たのか?という疑問の答えが 見えてくるのではないでしょうか・・・?
お礼
●>自然と非自然 ここをしっかり認識してこそ 自然がどこから来たのか?という疑問の答えが 見えてくるのではないでしょうか・・・? あなたが、そう言うのなら、そうしよう。 不自然とするだけでは、イイカゲンすぎます。直感は語れないですから。 私が思うのはこうです。 ミームとは、小さな意思である。しかし、ミームらは共同幻想であり、自律しておらず、常に、人によっています。人がいなければ、彼らはいないのです。 しかし、巣をつくる動物などは、ミームを持っているでしょう。 むしろ、脳のあるものは皆、多かれ少なかれ言葉を持っています。 チンパンジーやいるかなどは確実に持っています。 彼らの言葉は不自然でしょうか? 言葉自体は、不自然ではないのです。 偉大な意思が、自然です。 小さな意思(ミーム)が、偉大な意思に反しない場合は、自然にうまくいきます。 反した場合、うまくいきません。人間のミームは、反していることがかなり多いのです。 つまり、幸せに生きるには、その偉大なヴェクトルともいえる自然の意思を、汲み取ることだといえます。 自然の意志とは、自由な意思ですので、我々ではヴェクトルをある方向でしか限定することしか知らないので、今はまだ無理です。 全方向ということ知らないのであり、自由、それは何処にも向かないということを、我々は知らないのです。知らないというよりも、見ていないのです。なぜなら、人は、意思をミームによって見るからです。 向かないということが、全方向を向いているということであることを、知らないのです。自然のあり方を、知らないのです。 意思と言ったものの、とうぜん、一般の言うところの意思とは、比べられません。 ●>問題なのは ミームにその思考が素材されることです。 例えば 宗教などがその阻害例です。 人の言葉が、現実、自然に即さない場合、ミームは暴走すると思っています。 宗教、政治、経済、軍事、独裁、一切が、そうです。現実を否定し、新たに都合のいい現実を作ろうという意図が働き、現実を超えることをしらないまま、矛盾に落ちていくのです。現実を超えるというのは、既に、常に、時が成しているのです。時も、知られていない。 今は、ミームの中で、淘汰が起きているのです。 ●>ミームも人間から自然発生したものだから それも 含めて自然だと考える考え方はもちろんアリです。 けれども そのように考えることで幸せが見えますか? 見えるのであれば示していただきたい。 ミームがなければ、この大自然の中でいかに幸せに暮らしていけるのでしょう?もちろん、あなたの言わんとするところがそういうところでないのは分かっています。人間は、ミームを使用してくることで、幸せになろうとしてきたのは違いないでしょう。そして、一部の人間が、わがままなままに権力を持ったんです。立場なるものを、自分以外の場所を、作り出したのです。共同幻想として。自然が、幸せも生めば不幸も生むのです。 他の生物にもいえることです。彼らは死に対して潔いが、というよりも、そういう生き方であり、人間は、そうではないのです。 ●幸せを見るには、もっと、遠い目も必要です。 多くあるミームを大小かまわず平等に見なければなりません。 人は、大きなもの(多くの人がその社会において、存在を認めているもの、共同幻想の中でも、大きな権力を持った共同体)に目を奪われがちであり、大きすぎるものは見えにくい(宇宙など)、小さすぎるのも見えにくい(微生物など) ゆえに、死や病苦などは、立場を選ばず誰しもにあります。それが、自然だからです。それは、人という自然によるものだからです。 死は、そういう意味で、平等です。 生も、もちろん平等です。 自然は、平等を超えています。 超えているので、平等を満たしています。 人間が、ミームを優先するようになっては、本末転倒です。 人間は、ミームを統御しなければならないのであり、それに振り回されるようでは、幸せになるとは到底、思えません。ミームは、いつでも捨てれる、書き換えれる状態になければならないのです。その上で、ミームを適度に成長させていくのです。そして、ミームは劣化しませんので、ミームを劣化させる、ミームを生む必要があります。無理にでも、流転させるミームを生めばよいのです。思想の絶対性という幻想を、打破するものです。 そうしてから、ゆっくり無を知っていけばいいのです。 それは、ミームの上でも、自由をもたらすからです。 おそらく、その時は皆、無言でしょう。 歌や声があるぐらいじゃないでしょうか。 いるかや、鯨、鳥たちのように、。 ちゃんと考えれば、幸せに向いて進める。 そのとおりです。しかし、もう遅い。 ミームはでかくなりすぎたので、そういうものは、別の共同幻想によって、喰わねばなりません。微生物が、巨大な鯨の死体を分解するようにです。 次につくるミームは微生物的なものが、いいかもしれません。一つの大きな共同幻想ではなく、同じようなものが、数種、数は無数にあるというミームです。 もう出現していそうですが。インターネットや、グローバリゼーションは、そういうものかもしれません。小さい世界は常に動いていますから、流転しやすいともいえます。 経済、国、宗教、国連、ミームの強大な所以、つまり、人々の共同幻想は、厳然たる現実に照らし合わされ、必ず近いうちに崩壊します。崩壊したときに、共同幻想から抜けれなかった人々は、生きるすべを知らないので、困ります。混乱が起きないように、微生物なのです。天体が運行するように、いつの間にか、ことを終えているという働きが理想です。しかし、その課程に、その歪な形のせいで、轟音を立てて大きく崩れるかもしれません。そうならば、、どうしよう? >脳で言葉(ミーム)を使って考えることは 全て非自然なのです。 では、自然を使って考えることは可能ですか? 自然な思考とはいかなる思考でしょう? それは、自由な思考であると、私は思います。 辞書には、他力によらず、自らのうちにその始原をもち、それにより生成変化するものとあるようですが、自らのうちとは何処のことか? そこは、他も、自も、ないのです。 あらゆるものの根源が内も外も無いところにあり、各々という外に行くことで、各々のうちには自が、生ずるのです。それをもって、自から然り、と、いうのです。 しかし、各々に、別の由来の外が存在する、と思ってしまうと、間違います。我々が一般的に語っている、各々の内とは、実は外のことなのです。 なぜなら、各々という者が、既に外だからです。 私の前に、あなたがいる場合、その根元は同じであり、あなたは私にとって、他人というよりも、他の自分ともいえます。他の事物の場合も同じです。私の前に、世界がある。 世界と私が色々に関わっていることで、両者存在している。 それは当たり前です。今、自然の由来を考えるに当たって大事なことは、そういう表面的なことではなく、世界と、私が、本来は同じところから来ているのだということです。私と世界が交わるところ、そこが自然であるともいえます。 ●>ちゃんと考えれば幸せに指向するのです。 問題なのは ミームにその思考が素材されることです。 ミームを、自然に同化さすとどうでしょう、もしくは、自然の相似を写す。 ミームを、自分にある自然によって、自然化するのもいいかもしれません。 しかし今は、ミームの怪物を淘汰するのが先です。そして、いま、我々が持つ共同幻想は、崩れるのだという認識、危機感、現実を見る度胸が必要です。 私だって、歌を歌うだけで済ましたいのです。無言でありたいのです。 無言で、自然と、響きあいたいのです。解けて同化してしまいたいのです。 あなたと同じように、。 もう、そうしようかな、。 そうすることが、ミームの淘汰に、最も効果的なのかもしれません。 感化が起こるからです。 どの人の心も、形は違えど、同じ成分でできているからです。 その成分は、自然の由来です。
補足
毎度、長文でごめんな。下の方が結論であり、上の方は、思考の過程ですので、さらりと早読みでもしてください。引っかかることも、そう無いでしょう。
- mr0823
- ベストアンサー率14% (19/133)
人間の脳でしょ。 自然を自然と認識しているのは人間ですから。
お礼
私は、以前の回答へのお礼で、言葉は六感だといいました。 以下、無理やり文語化しますが、 他の五感。見えるもの、本来に形なく、聞こえるもの、本来は揺らいでおらず、嗅げるもの、本来は漂わず、触れるもの、本来は力なく、味わうもの、本来は印象がありません。 言葉も同じように、本来、意味が、無いのです。 それはそれ。 他の五感の働くように、六感も働かせるなら、意味は意味のままに、形は形のままに、波は波のままに、漂いも漂いのままに、力は力のままに、印象も印象のままに、なるのです。 人にあった、人のものになるのです。 フェロモンが零感だとするなら、それは、誰のものでもないでしょう。 人に合わせたものでもないでしょう。 零だけに、それは、全き、分別がありません。 自慰ができるということは、そういうことです。 零と無いとは、太極をなすのかもしれません。 あなたの回答を考えて、よかった。ありがとうございました。 脳は体であり、言葉の宿る機関です。 以下は、言うて見るだけ言うてみます。言葉を転がす暇つぶしのようなものです。 第七感は何でしょう?時を知る(体感)ものでしょうか? 第八感は、空間を知る(体感)ものでしょうか? 第九感は、生死なども知れそう(体感)ですし、第十感は、止まること、絶対零度を知ること(体感)ができそうです。 まだまだ世界は尽きません。 第十一感は、、、、消えることを(体感)できるかもしれません。 第十二感は、、裏で裏がえる、までいける(体感)かもしれません。これは、表のことではありません。 第十三感は、全てにあることができる(体感)かもしれません。 第十四感は、私が、あなたに知られず、あなたになることができる(体感)かもしれません。 第十五感は、夢を生きれる(体感)かもしれません。 第十六感は、引力を忘れて生きれる(体感)かもしれません。 世界は一つも、尽きません。尽きるのは、私の体力です。遊びつかれて(笑。 霞を食べて生きる仙人の、いかに小さきことでしょう。そんなの、ぜんぜんすごくない。 そして、言葉遊びをした後は、御祓いでもしましょうか(笑。 遊びで始まったのだから、遊びで終わろう。 人が、私が、人の言葉に、属することは無い。言葉は、人のものでも、私のものでも、なんでもないからです。 また、 これら第七から第十六感も、同じように、本来は、無いのです。
補足
これを忘れました。主題です(笑。 霞を食べる仙人はすごくないけど、一匹の蟻が、獲物をみつけるのはすごい! 自然は凄いをとおに超えて、神々しい。 しかも、神々しいだけではない。 初々しく、瑞々しく、遥か久遠の隔年をおもわせ、透明が入り混じり、 闇と光のブレンドがなる。混元、混沌、根元、ほとばしり、ぞくぞくでしょう?考えるだけで、こんなにやばいのです。いきなり世界に出たら、まじで死ぬ(昇天)かも。冗談抜きに(笑。 地獄の底の永遠の下から、天国の永遠上まで越えて突き抜けるのです。 コーヒーにミルクを入れるだけで、驚異が見れるのです。 はっきり言って、 自然、最高です。 人の生き様、最高です。 世界、最高。 それでも、愛はあるでしょう。それでも愛は、まだ大きい。 なぜなら、愛は、空想ではないからです。自然も然り。 愛は、人の言葉には、自然同様、収まっていません。 現実、最高。
- tosi0000
- ベストアンサー率28% (8/28)
こんにちわ。 時間ができた時に自然が生まれたのではないでしょうか。 砂だらけの月も自然ですし、今の地球も自然です。 ただ人間にとって、地球環境が住みにくく成りつつあるため、自然破壊と言っているだけでしょう。 自然破壊もまた自然なのだと思います。 思うに、時間の存在が自然の存在なのでは。 (ayametiさんの意図からずれたかも・・・) 私の近くに、傲慢で我ままな人いますけど、彼のほうか自然に生きているかも知れないな~~。 ではでは。
お礼
>時間ができた時に自然が生まれたのではないでしょうか。 マクロな視点というか、長い手を持っておられますね。 すぐには考えれないので(以前の回答へのお礼に体力を使ったので)、また、補足にて考えさせていただこうとおもいます。 時空ととらえてよいでしょうか? 空間が自然で生まれたところ、時間が生んでいるところとも考えれそうです。この回答のような発想は、非常に好感があります。 >砂だらけの月も自然ですし、今の地球も自然です。 月が、豊かな地球自然を担っていることは言うまでもありませんが、豊かであった自然を、人が貧しくしているという状況は、認めざるを得ない。 なぜなら、人そのものが、不必要に(必要以上に)貧しくなっていると、感じるからです。 この、「人の貧度」を、経済数値化することで、自然と経済は調和を見るはずです。数は平等、無個性ですので、できるはずです。 富と豊かさの意味するところの違い、関連も、考慮したいと思います。 >(ayametiさんの意図からずれたかも・・・) この質問において、私の意図などは入れてません。 ただ、気持ちがあるだけです。悔い痕とは、私の気持ちです。 ですから、この回答も、ありがたくいただいています。 少なくとも、私の思考より、優れている回答と思います。 私の思考が、それ(優)を見出したのですが、あなたのおかげでしょう。 そういえば、人の憂いとかいて、優「やさしい」ですね。 人の夢とかいて、儚「はかない」。 どちらも美しい文字です。 そう、人は、本来、美しいのです。 言葉を吐き違えて、穿き違えて、だめになっているのかもしれません。 着付けの勉強が、人には必要ですね。着付けの先生も、自然です。 先生(自然)が生徒の前に登場したら、裸だったりして(笑。 おおいに納得できます。 が、着付けを勉強するのは楽しいはずです。 楽しいことは、敬遠する必要が無い。 未来の人のファッションに、思いをめぐらすと楽しいですね。 実に、できのよくない生徒の、補習授業です(笑。 ※衣服は、人の言葉をあらわしています。 >思うに、時間の存在が自然の存在なのでは。 はっきりと示してくださり、ありがとうございます。 私が思うのは、自然の行くところ、それは世界であると思っています。 >私の近くに、傲慢で我ままな人いますけど、彼のほうか自然に生きているかも知れないな~~。 あなたがそう、おもうのですから、そうなところはあるとおもいます。 >ではでは。 どもども。
- suzuhide
- ベストアンサー率20% (32/156)
質問の意味が判りかねますが・・・ 逆にひとつ質問させて下さい。 それでは自然で無い物とは何でしょう? 人工物ですか、でも人も自然の一部のはずでしょう、ならば人が作ったものも自然の一部だと思うのですが。 僕は人間が自分を自然の外に居ると思いあがっているのでは無いかと思っています。 だから自然が何処から来るのかでは無く、人は何時自然の外に出たかを質問すべきでしょう。
お礼
>僕は人間が自分を自然の外に居ると思いあがっているのでは無いかと思っています。 ●健康的だと思いました。 >だから自然が何処から来るのかでは無く、人は何時自然の外に出たかを質問すべきでしょう。 ●出たんですか?自然。もはやこの言葉、私の言葉のキャパを超えた。意味不明です。もう一度、反芻してみます。 要素還元、二元論では、無理です。超紐理論まで行きましたが、それはよく言って、人の言葉の曙。自然には遠く及びません。人の言葉が自然に触れるところ、それが科学の行く道であり、自分と世界、見る者と見られる物。 これらの二元論を超えるところかなぁと、おもいます。 >質問の意味が判りかねますが・・・ ●質問の意味するところが分かれば、答えは必要ないと、思っています。疑問には、答えを凌ぐ意味があるのです。 ゆえに、私は、この質問を未だ理解していないというべきでしょう。 していないから、質問している、質問が存在するともいえます。 >それでは自然で無い物とは何でしょう? 人工物ですか、でも人も自然の一部のはずでしょう、ならば人が作ったものも自然の一部だと思うのですが。 ●不自然なことです。不自然なもの、不自然な気持ち、不自然な動き、不自然な考え。自然体でない状態。 自然に学ぶというのは、そういう意味もあるのだろうと、今思いました。 コンクリで護岸整備された河川、食べたら毒になる農薬のかかった野菜、人は、生きるのびるために、不自然になったとも言えます。(一部の権力の横暴が多々あることも、もちろんです。) 人が、不自然になったと言うとすると、それは、何のためか? 弁証法的に、自然が上昇、昇天し続けるために、人が出現したのか? そのように、考えれなくもないです。 しかし、弁証法、進化論、諸々の視点では宇宙150億年(距離的な時間で宇宙を語るのは不自然なのですが)を説明することは到底無理であり、ゆえに、自然に学ぶことが大切なのだと思うのです。 「自然の終わりとは何なのか、それは行くところか?ならば来たところははじめか?」 これは(カギカッコ内)、あまりにもゆがんだ私の思いだと思います。時をすでに、ゆがんだ形で、むりに使用しているからです。人の言葉の限界など、たやすく訪れます。 学ぶとは見たままか? むしろ、見たままなのか? 正見とはいったものの、そのままの答えを見ればよいのでしょうか? この我侭な、狭い視野で。 実に正見のありかを、私はすでに、知っているのかも知れません。 言う必要の、無いことです。 もう、聴けばよいのです。自然を。すでに、観ればよいのです。自然を。 無心に、感じればよいのです。自然を。 そして、第六感、入力系ではなく出力、言葉により、生き様をみせればよいのです。響けばよいのです。 第六感はフェロモンだという話もありますが、私は言葉とします。 フェロモンは、あえて言うなら零感でしょうか。 人の言葉の源は、忘れてはならない。自然に、IN OUTしたいですね。 人の言葉とは、人の能動であり、受動と欠かさず連動、一体化しているのであり、それは本来自然発生的であるのです。彼らを歪にしてしまった原因は何か? 自然を忘れたことかもしれません。 自然と響き合えるなら、その言葉(能動の一体化)は正しいといえるかもしれません。歪が、新たな響きを生むのなら、それを、否定できない。 なぜなら、 歪など、自然はとおに凌いでいるのですから。 歪など、勝手に人が思っているだけなのですから。 人の思い上がりの、なんと儚いことと思った。 その上、生き急ぎ、その上、すがりつくのです。 それは歪でもなんでもない、それが、人の、現実の、今の、姿なのです。 もちろんそれが、全ての人の姿とは言えません。 ありがとうございました。 お礼により、未熟ですが、思考の試みを少し、させていただきました。
- H-hoko
- ベストアンサー率50% (6/12)
●とても高尚なご質問ですね。 質問者様の 精神の高みを垣間見る思いです・・・。 さて 自然とはどこから来たものでもなく 誰かが作ったものでもなく その所以を 思索するほどむずかしいものでもない。 自然とはありのままです。 見たままです。ただそこに在るということです。 緩い正弦波が 共鳴しておおきなおおきな正弦波となり 永い永い時間の果てに たまたまそのおおきな正弦波が ぶつかり 波頭を上げるようにビッグバンが起き 正弦波の性質として その限界振動の規則正しい 倍率共有振動により 100あまりの物質が生まれ 宇宙という空間の摂理にそって 拡散している そんな宇宙のひとつの範囲に わたしたちは居る。 もともとひとつの正弦波からなる全ての物質は さまざまな条件のもとで さまざまに干渉したり 共有したり 共鳴したり 結合したり 分解したり かかわりあう性質を備えていた。 その かかわりのひとつの形態として命は生まれた。 自然とは 宇宙150億年の時間の結晶です。 地球上の命とは 誕生以来46億年の時間の結晶なのです。 自然とは どこから来たものでもなく その本質を 理解するには あまりにも存在が大きく深すぎます 150億年の時間を理解できるほど人間の脳は スケールがおおきくありません。 ありのままを見るだけで精一杯です。 人間のつくりだしたミームに惑わされてはいけません。 ミームは人間に都合のいいように働きます。 自然の大きさに比べれば 人間のつくりだしたミームなど 無に等しいほどの大きさでしかありません。 幸せに生きたいのならば ミームに惑わされず 自然から学ぶことです。哲学とは幸せになるために することなのですから・・・。
お礼
実に、美しいヴィジョン(空気感)を、この回答により垣間見ることができました。 この回答のように、具体的に示唆を与えることは私にはできず、回答者の誠実さ、正直さ、思慮ありきを伺えます。 私の精神が、この数日、静かなのにはわけがあるのです。 数日前、思考において、毎度といえば毎度なのですが、久しぶりに苦労したのです。 痙攣もおき、気持ちとしては、 「おいおい、勘弁してくれ(笑」という、感じです。 笑っているだけの余裕があったのは事実なのですが、本音は、 「もう、私が、人の言葉に属することはない」 と、気持ちで言い切ったくらいです。 なんとも愉快な気持ちの本音であり、それがおこした、ある種の救いともいえる作用で、今に至るのです。 あたりまえを知っただけなのです。 あなたのいうように。 もう、しゃべる言葉が、よく見当たらないので、また出てきたら、補足させていただきます。 私の思考が、このような回答なり、質問なりを読んで、それをものにするのには、一週間、一ヶ月、半年ぐらいかかっているようです。それでも、あまさずものにしたとは到底、思えません。できているのは少しです。 私自身の回答についても、それを、私が十分、実にしているとは、到底、思えません。 もちろん、「人の言葉よりも、先に実あり」、なのですが、。 いつも、後になって、「ああ、そうだったのか」とか、「そういうことかい!」とか、思うのです。 それが、私には嬉しいのであり、また、あなたには、申し訳ないと、思っています。 即日に出したこのお礼は、まだまだなもので、ズレもあるかもしれませんが、お許しください。 ありがとうございました。 私は、 自然の来るところに 行くところに あるところに、 なりたい。 そのための、旅立ちかもしれません。 気づけば、たくさんしゃべってますね(笑。
- satiro
- ベストアンサー率9% (60/630)
思い込みの帰結。
お礼
そこが、思いの果てるところなら、私は、喜んで行こう。 いただいた回答により、思うことは、 自然は、自然の思いの数だけあるということです。無数に、。 自然の数は数えれないので、帰結するところは変わらぬだろうと、思いました。 次に言うことは、与付的な思いですが、 夜、街では、星は、数えるほどしかあがりません。 十個から二十五個といったところでしょうか、。 しかし、高層マンションの屋上、また、山(六甲山)に登ってみれば、 一面に、明かりの屑が、散らばっています、。 ああ、 そうなのです。 星々は 地に おちたのです 。 なんと悲しいことでしょう。 なんと、かなしい、ことでしょう。 私は、泣けないのに、泣きそうです。 私は行かねばならないと、そういう時に、思うのです。 地球という星の、思いの、なんと豊かなことか。。 果たしたい。
お礼
ありがとう。 おれは、半醒めだ。半分、醒めている。こう言うことそもそもが、醒め切ってない証拠だ。 はっきり言えば、まだ眠たい。ここ数年、瀬戸際なのです。 高い位置にいるところは高いし、ぜんぜん低い部分もある。 見て分かるとおりだ。そういうのがおれの実状だ。 それを、全部高くするのが今のおれの思考の過程であり、自然を感じる事は、それに欠かせない。あなたの回答も、それに使ってる。 >質問者様は わたしの言う意味がわかりますか? 半分分かる。今はな。高みから見れば、余裕だ。俯瞰できるよ。 低いところから見れば、しんどい。今は、おれは、低い意識だ。 だけれども、現実を見たいので、そうする。おれは、現実生きてるからな。 現実というのは、無限の入り口であり、無限そのものであり、大切な事だ。 何が大切かって、現実が大切なのよ。当たり前だけど。 >そうです環境ホルモンです。 がーん、。やな。その現実を知ると、少しよろめく。 >こちらのスレッドを拝見して感じる わたしの不安です。 おれだって思った。でも、言わなかった。いくらでも裏道はあると思うからだ。ミームの実態は実はスカスカで、自然の網目はぎっしり詰まってる。 自然にアクセスする道は、無数にある。だから、言わなかった。 >わたしが今 一番関心があるのは この時の芸術とも言える 地球上の生命の 「存続に関わる選択」です。 それは ミームをリロードするのか? リロードしないで 部分的な修正で 変革可能なのか という考察です。 ミームに繋がれ ミームに首まで浸かった人々に はたして「自然を見る能力」が残っているか? 残っている。誰しも、雨が降っていることに気づく。 体がぬれるからな。傘を差すか、差さないか、それを考えないというときは、誰しもにある。雨を見て、傘を思いつかないときが、誰しもにある。 それは、容易な発見だ。 >あなたが 高い位置にいるのなら 人々の文言に 惑わされてはいけません。自然がどこからきたのか それを見るためにも・・・。 それは難しい。言ったように、高いところばかりではないから。 人の文言に惑わされることは結構ある。おれには隙が多い。 だけれども、自然を見れば、それが揺るがぬ拠点になる。環境ホルモンが荒れ狂っても、風は起こせない。 風は自然の産物だから。 光と、水と、風と、土と、透明と、自他。 土と自他は、ミームの影響を受ける。それ以外は一切受けない。 自他の無きを知っている場合、ミームの牙城を一つ崩せる。 だけれども、こういう思考を使うと、いくらでもいけるのだが、おれの脚が地から離れるから、いけない。現実離れしすぎる。解決できても、おれだけじゃあな。話にならん。ここに来た意味がない。おれは、歩きたいからな。 大事なのは、常に、自然を見ること、感じること、常に、自然体であることだ。 常にだ。隙を出してはいけない。おれには難しい。今は、町(ミーム)に住んでるからだ。 そのためには、自分で、ミームを脳内淘汰で、自然の石っころやら水やら光やらもまぜて、鍛え上げない限り、隙がなくなることは無い。 なぜなら、人間の隙、過ちは、ミームから生まれるから。 おれのミームを全力で自然体にする。それしか道は無い。 ミームの再装填をするにしても、修正するにしても。俺的には、ミーム全体に、何かを吹き付けることで、全体を変異させる。ミームリロードというより、ミーム新生、生まれ変わらせる。ミームの脱皮?だ。 もしくは、ミーム分解することで、その性質を変化させる。 同じ構成物でできていても、大集団と、小集団では、違う振る舞い、性質を示すことがよくある。経済、国をばらばらに。地域に拡散させる。 部分的にというのは、どうだろう。 たとえばどうするんですか?部分的というのは。 >人々に罪はないのです。 自然としての人にはな。つまり、ホントの人、マトリックス的には、栽培されている人には罪は無い。 だけれど、幻想の人にはある。幻想の人は、ミームでできている。 自然の人は、幻想の人を使って生きてきた。 使わされて生きてきたといってもいい。 罪は無いといえるか? そりゃずるい。幻想は、人を殺しながら生かしてきた。完全に生かすことは無かった。だけれど、それを、淘汰の中で選択したのは人だ。 自然と、ミームがあって、ミームを選択したのは人だ。 いつの間にか、ミームを使う側から、ミームに使われる側になった。 カップラーメンだ。カップラーメンに、お湯を注げ、三分待て、とかいわれて、そして、環境ホルモンを食う。えげつない言い方だけど。 いつの間にか、ミームは人の幸せという目的に対し、合目的的でなくなってた。それはなぜか?ミームにも歴史があるはずだ。 いつからか、ミームとしての幸せを追求するようになった。 ミーム人の幸せが、自然人の幸せに合致しなくなった。 ミームの立場を明らかにしないといけない。 ミームは、自然、現実としての人に、使われるのです。 人は、ミームによって、自然を虐げてはいけない。 現実が、幻想を、使うのです。それが、正しい形だ。
補足
>高い位置にいるのなら 人々の文言に 惑わされてはいけません。自然がどこからきたのか それを見るためにも・・・。 さよけ(笑。 わかったよ。