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敗戦時、日本内地の日本軍将兵の数
ある本によれば、1945年8月15日のアジア・太平洋戦争終結時、およそ700万の日本軍将兵が日本の内外に展開していた、と書いてあります。 別の本には、その当時、外地には330万余の将兵がいた、とされています。 算出根拠が異なっているとしても、内地には約半数の将兵がいたことになり、その多さに驚いています。 いったい、内地にはおよそ何人くらいいたのでしょうか。 近衛師団は分かりますが、どのような業務に従事していたのでしょうか、教えてください。
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太平洋戦争での人的数字の統計に関しては、旧厚生省援護局が作成した物がやはり一番信頼できるものであるといえます。 その援護局によれば、昭和19年11月時点での日本陸軍軍人総数は、現役147万9千人、応召260万人、在郷585万5千人(このうち応召不可の者が155万3千人)だったようです。このうちの現役と応召の合計407万9千人が陸軍在隊者となっており、そのうち南方や満洲などの外地(沖縄・小笠原を含む)を除くと本土・内地には86万8千人がいたことになります。 大本営はこの数字を元に、徐々に悪化する戦局に備えて第1次から第3次までの「応急兵備」を整備することとし、とりあえず増加兵力として本土に150万人の兵力を手当てするという数字が、陸軍自体の有形無形の組織的再編とともに目標として挙げられました。この増加兵力には内地での充足ももちろんですが、外地部隊からの引き抜きも当然考えられていました。 結果的に昭和20年8月15日現在での陸軍兵員数は、その部隊の実像や兵器類の装備の充足率を考えないとして、小笠原の1万5千人を含めて238万7700人が残っていたということになっています。この記録には沖縄の4万900人も記載されていますが、これは明らかに員数あわせというか、数字上だけでの存在だと考えるのが妥当です。因みに陸軍全体の総兵員数は約547万人ということになっています。 これは陸軍総数の6割が外地に散らばっていたことになります。内地の部隊の装備の貧弱さや兵士の錬度の低さを考えれば、外地で過酷な戦闘に揉まれていたこれらの兵士が何割かでも帰国できていれば、本土決戦も多少は違ったシミュレーションが組み立てられていたかもしれませんが、すでにシーレーンがずたずたになっていたことを考えれば意味がないことかもしれません。 話が飛んでしまいましたが、最後にこれらの部隊がどのような業務、あるいは役目を果たしたかということに関しては、はっきり言って語るべきものはないといっても過言ではありません。昭和20年1年間の動員数は300万人以上を数えましたが、これらのほとんどは文字通り机上の空論的な数字遊び以外の何物でもなく、実際に防衛線と名づけられた任地へ送られた少数の、いわゆる実戦部隊でさえ最初から肉弾攻撃以外は何も教えられなかった程度の状況でしたので、他の回答者の方たちの言われるように、その現状は推して知るべしといったところです。
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- isa-98
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そりゃ、根こそぎ動員すればです。(^_^;) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E3%81%93%E3%81%9D%E3%81%8E%E5%8B%95%E5%93%A1 決号作戦 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%BA%E5%8F%B7%E4%BD%9C%E6%88%A6 本土決戦 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E6%B1%BA%E6%88%A6 当時の関東地方の配置図が入手出来ないのが残念ですが、 鹿島灘~相模湾にかけて大規模にに配置されていました。 (第二線含む) しかし、天皇には陸軍の言う程の兵力と武器弾薬などは存在しないと 言う正しい上奏があり、大局を見誤る事はありませんでした。
お礼
ご回答ありがとうございます。 このような数字は、調べれば調べるほどいろんな数字が出てきて、結局、掴みきれないということが分かりました。 Wikiの「決号作戦」によれば、内地に490万人いたことになります。 工業や農業従事者から主に動員して、毎日塹壕掘りや竹槍作りをしていたとは、驚きです。
- misa-on28
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宍戸幸輔著「広島 軍司令部壊滅」(読売新聞社)によれば、20年秋までに本土防衛体制を確立するために5月まで3次にわたる増強計画を立てていたそうです。 既存兵力内地の10コ師団35万人にくわえ兵力150万人、兵站その他の諸部隊をあわせると200万人の増強計画で、合計およそ235万人が本土防衛にかり出される計画にあったと言います。 これらの新設師団は何をしていたかと言うと、一応編成後は各地で防備にあたることになっていました。 ただし、装備は全く足らない状態で、被服はとりあえず人数分あったとしても小銃は5人に一挺、弾薬も一挺当り60から90発、銃の支給のない兵隊は勤務として竹槍を作ったりしていたそうです。 手投げ弾もなく、仕方なく陶器で手投げ弾を作ったりもしていました。 陣地構築用のシャベルやつるはしも払底していたので近郊農家から借用ですませたり、農村出身の兵隊に特別休暇を与えて、実家や近隣から必ず器材を持参せよと言う命令?をだしたり、そういった状態でした。 と言うわけで、特に本土決戦用の新設部隊はまともな兵力とは言えるものではなかったと言うことのようです。 従事していた業務は、機材の調達や代用兵器の調達、作成(竹槍とか)訓練、などなどのようです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「合計およそ235万人が本土防衛にかり出される計画にあったと言います。」 このような数字もあるのですね。 私が調べたところ、第一総軍、第二総軍合わせて225万人という数字もありますから、これに合致していると思います。 考えてみますと、敗戦直前に多くの書類を焼却し、残った書類も爆撃で燃えたり散逸したりしていますから、正確な数字が出てこないのは当然だと気づきました。
お礼
詳しく教えて下さってありがとうございます。 陸軍についてはすっきりしました。 質問で示した「およそ七百万の日本軍将兵」の根拠は、吉川弘文館発行・吉田裕編『日本の時代史26』です。 また、「およそ七百万」については、次のサイトでも裏づけされていると思いますので、この数字と今回のKITAIKKI様のご回答を基に、海軍について調べてみます。 日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/rnsenji1-022.html 適齢壮丁の徴集者に加えて、再度の召集者および長期の応召者による終戦時の兵力動員数は七一九万三千人に達した。