「怒り」と「愛情」を例にとって考察します。
「怒り」は人によってその人の人格や形成された観念によって全く、顕れ方が違います。
何か他者が理不尽な行為をしたとして、強い怒りが現れる人もあれば全く怒りが生じない人もいます。
人間的に成長すれば、「怒り」が哀れみや慈愛に変化する人もあり、「憤り」程度のネガティブな感情が表れても「怒り」は生じない人も多いです。「怒り」は仏教的に言うなれば、当人の煩悩に他ならないからだと思います。
ですから、「腹が立って当たり前」と云う生き方は私は賛同できません。
また、幼少の頃から周囲に全く「怒りの感情」の無い暮らしをしたとしてもその人の人格形成にはむしろ+に作用すると思います。
しかし、「愛情」の無い無機質な乳児期、例えば栄養だけ与えられた…様な状態だと、その人は「人間の子」として成長することは出来ません。
また、多面では、「愛情」と「愛」も本質的に分類して考えた方が良いと私は考えます。
・愛情は、五感で感じ取れる質のモノだと私は整理しています。
それに対して、「愛」は無現象…、五感で認識出来ない質のもので、「愛」が源泉となってそこからあふれ出た現象面を愛情と私は考えています。つまり、深さが異うのです。
表面に現れた愛情は、「自己愛・溺愛…」の様に人間の観念で歪められたモノも一般的に人は愛情と考えているようですが、それらは自己満足や劣等感、ストレス・欲求不満などが、大脳で現象化表面化した、
本来の「愛」が源泉となったモノとは異質な、自己中心的なもので私はそれらを「愛情」とは考えていません。
「愛」は「こころ」とかも、五感では感じ取れない質もモノで、素数の如く、純粋で絶対に他から汚されない質のものです。
私は僧侶ですが、未熟な頃はこう云う異いが理解できませんでしたが、人間を五十年以上も続け、今はそうとらえています。
「感謝しなさい」と言っても、「感謝」の念等もこの「愛」が源泉となっているモノなので、感謝も愛情も努力して出るものではありません。
むしろ、人間の大脳に付着した染や傷のような観念を大掃除したら、自然に湧いて尽きることの無い、無限の源泉のように思います。
カッコ良く結ぶならば、「喜怒哀楽」などは、表面的なとるに足らない現象面ですが、
「愛」はあなたの肉体なども含めた現象面でない、
存在そのもの、あなたそのものが「愛」だと私は考察します。
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補足
質問させてください。 ‘欲望’は感情なのでしょうか。 だとするならば、それは喜怒哀楽のどれになるのでしょうか。 もしかしたら、‘意志’かも。