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アレキサンダー大王の墓とは?
- アレキサンダー大王の死後、遺体の処理方法は謎となっています。
- アレクサンドリアにはアレキサンダー大王の陵墓が作られたとされていますが、具体的な場所は不明です。
- アレキサンダー大王の陵墓の形状や大きさについては記録や伝承がありません。
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1、マケドニア人の葬儀は土葬らしいです。死の間際にはマケドニア兵たちによる最後の別れが延々と行われていたようで、何の処理もされてないと思われます。葬儀はペルシャ流の喪の風習に従ったらしいですが、とにかく遺体をマケドニアの首都アイガイに運ぶことになったようです。詳しい記録はとくにありません。 2、アレクサンダー大王の墓は、複数あり、どれが本当かわからなくなったというのが実像です。プトレマイオス1世は320年に大王が神官からエジプトの正統な王と認められ地メフィスに最初の墓をつくりましたが、彼は後に自分の王国の首都としたアレクサンドリアに第二の墓をつりました。さらに百年後、プトレマイオス4世は、第三の墓を作り、その周りに歴代のプトレマイオス朝の王の遺体を集めて集団墓地にしたとされます。 その後、ローマ時代からその終わりにかけて、歴史が隔絶し、いくつもの間違った説が登場します。特にサン・マルコ教会の近くとか、ナビ=ダニエルのモスクと同じ場所という説などは、その後の歴史家を大いに混乱させ、このローマ後期の別の墓がアレクサンダー大王の墓だと信じれていたのです。1991年にアルバトルの墓がアレクサンダー大王の墓とする説が主張されましたが、このプトレマイオス時代の墓は時代的にはあうものの、碑文等がないので仮説は不明のままです。 ちなみにシリア砂漠のあるオアシスにある墳墓がアレクサンダーの墓だというような主張もあります。 3、アレクダンドリアの図書館には記述がある図書があったかもしれませんが、それらは失われています。 4、アレクサンドリアは度々、地震に襲われていて、また都市も荒廃しました。ローマが撤退して以後は、イスラムの侵出と、大型船の時代に合わない港湾設備のために交易も衰退し、誰かが壊したのではなく、忘れされれていったというだけです。また長年つかわれた都市というのは、時代を経るごとに古い時代の上に新しい町ができていきます。アレクサンダー大王の墳墓も地下墳墓とみられているので、上に別の建物ができたということです。
お礼
懇切丁寧なご回答大変ありがとうございます。 1.遺体処理が土葬という点につきご教示ありがとうございます。墓所の写真も大変参考になりました。アレキサンダー大王の遺体については、死後直ちに激しい後継者争いが発生したため、相当長期間にわたり大王の遺体が放置されたという記述を以前読んだ気がします(自信はありません)が、もしその記憶が正しいとすると、大王も死後の運命は相当悲惨だったように思えます。 2.大王の墓が3箇所もあったというのは意外でした。大王の遺体(遺骨)も新しい墓所ができる度に移されたと理解してよいのでしょうか。ご教示頂いた内容からすると、3つの墓のいずれもが政治的な理由(時の権力者が大王の権威を利用するため)で造られたように思われますので、いかに当時大王の権威が強かったかが感じられます。 3.大王の陵墓の場所が行方不明となっている理由が破壊されたためではなく、単に忘れ去られてしまったためであるということですね。アレクサンドリアがキリスト教徒、続いてイスラム教徒の国になってしまったために神格化されていた大王の墓は破壊されたという考えがある旨を以前読んだことがありますが、かりにそうだとすると、エジプトのピラミッドやローマにあるローマ諸皇帝の墓所が破壊されなかったことの理由がつかないですので、やはり単に忘れられてしまったということのように自分も思います。そうすると、いつの日か大王の墓が発見される可能性があるということですね。 大変勉強になりました。