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自分は変えられるが相手は変えられないに対する批判
よく言われる台詞 「自分と(未来は)変えられるが、相手と(過去は)変えられない」 (時間的な可能性は、エントロピー保存が逆転しない限り無理なのでうけいれるしかないでしょうが) これに意義あるといったら100人中何人が「そうかも」って思ってくれますかね? わたしは、どうもこの表現にうなずけません。つまりこれは、現代社会の支配的傾向である「個人主義」を擁護し正当化し(相手を変えることは相手のプライバシーへの侵害という現代的個人主義しそうだと思う)、またそれによる方便でもって説得しようとしているという、一種のつじつまあわせのように感じるのです。なので、本当の理想的状態 「相手は変えられるが、自分はかわらない」 ということに無関心になってしまう。なにか現代的なお題目に毒されている気がしますね。流行思想のようなものです。 そこのところはどうなのでしょうか。
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- kaz-a
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>本当の理想的状態 >「相手は変えられるが、自分はかわらない」 ここが根本的に間違っていると思いますが。 「変わらなくても良い」人がいるならそれは完璧な人だけですが、人間である以上完璧はありえない。 よって「自分は変わらなくても良い」という想定をすること自体が傲慢な発想に基く、理想とは程遠い、自分に甘えた考え方ということになります。
- lancru358
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>現代社会の支配的傾向である「個人主義」を擁護し正当化し(相手を変えることは相手のプライバシーへの侵害という現代的個人主義しそうだと思う)、またそれによる方便でもって説得しようとしている ↑こういった意図で言われる台詞ではないと思います。 愚痴をいう、過去のことを振り返りくどくど考える、人のせいにしない、などへの戒めと、 自分にとってどんな不幸に思えることでも相手や環境のせいではなく結局は自己責任、自分次第で未来はどうにでもなる、過去を振り返っても無意味、といったことを訴えたいんだと思います。ポジティブシンキングという意味では 多少流行思想なのかもしれませんが。 私も特に愚痴を言う人(他人のせいにしている人、自己責任と おもっていたら愚痴は出ないはずと思うので。)と 過去のことで悩んだりくどくどいう人に このセリフを言いたくなります。
お礼
人のせい、社会のせいという場合も多くありますよ。この辺が現代的ポジティブシンキングの落とし穴のような気がしているのです。 もちろん、前向き自己責任は非常に潔いですが、本当に公正な思考かはよくわからない。
お礼
理想的、といったのがわるかったのかもしれませんが、苦労しないで好転するということです。 もちろん「変わらなくてもよい」という人はまずいませんし、自身の反省点、攻略点にしていく姿勢は好感が持てますが、しかし、本当に物事を客観的に考えると、同時に人も変わるべきだということになります。つまり、この辺の一種の「自虐感」あるいは「自己責任」という言葉がなにか、流行現象のように思われるところです。