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自分は変えられるが相手は変えられないに対する批判
よく言われる台詞 「自分と(未来は)変えられるが、相手と(過去は)変えられない」 (時間的な可能性は、エントロピー保存が逆転しない限り無理なのでうけいれるしかないでしょうが) これに意義あるといったら100人中何人が「そうかも」って思ってくれますかね? わたしは、どうもこの表現にうなずけません。つまりこれは、現代社会の支配的傾向である「個人主義」を擁護し正当化し(相手を変えることは相手のプライバシーへの侵害という現代的個人主義しそうだと思う)、またそれによる方便でもって説得しようとしているという、一種のつじつまあわせのように感じるのです。なので、本当の理想的状態 「相手は変えられるが、自分はかわらない」 ということに無関心になってしまう。なにか現代的なお題目に毒されている気がしますね。流行思想のようなものです。 そこのところはどうなのでしょうか。
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- lancru358
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>人のせい、社会のせいという場合も多くありますよ いやあ、それが違うんですなあ~・・ これを話しだすと、死後の世界もかかわってくるので この存在を信じていない人と話してもお互いに意見が違うので 平行線をたどるだけですのであまり言いたくはないのですが あえて言いますと(笑)、 他人や社会のせいにみえるだけで、目にみえない世界ってありますから。 夢はみたことありますよね?けど目に見えませんよね。 他にも味覚など、目にみえないけど存在するものは山ほどあります。 他のせいに表面上みえるだけで、すべては自分のしたことが まわりまわってくると思います。過去、未来両方がかかわって。 それに他人や社会のせいにしている限り幸せになれない気がするし、 不満や愚痴がなくなることはないと思います。 すべて自分の責任と思えば不満や愚痴もなくなり、幸せになれますよ。
- hopepepepe
- ベストアンサー率13% (4/30)
(たしかに素晴らしい質問だとは思いますが) 変わらないものなどあるのだろうか・・・・? また個人の関わりだけが起因した変化など存在するんでしょうか?
お礼
マクロ的にはないでしょう。準ミクロ的に考えればどうかという問題と捉えてもらえればいいでしょう。
- ap10
- ベストアンサー率33% (453/1356)
>自分は変えられる×2人いたら、結果的に「相手が変わった×2」が実現しますよ えっと・・・確かにその通りですけど、今回のご質問やご質問者様の主張(理想的状態)になにか関係ありますか? 言えばご質問者様の仰る理想状態の間逆・・・いや90度ズレな話ですよ(苦笑) 「相手が変わった」と「相手を変えた」は確かに変化したという結果はありますが、全く意味合いが異なるって事は当然理解されてますよね それにその意味合いの違いがこのご質問だとかなり重要なポイントでしょうから もしかしてご質問者様の主張の正当性を主張したいが為の話題すり替え? 確かに良くある手法ではありますけど・・・ ある程度の知識をお持ちのようですからこの手の説得手法って中学生ぐらいまでしか通用しない事は十分ご理解されてるでしょうし、この可能性はありませんよね? まさかもまさかで雑談したいだけでしょうか? 一部回答忘れていた点があったので、その点について以下に追加 >「相手は変えられるが、自分はかわらない」 >ということに無関心になってしまう。なにか現代的なお題目に毒されている気がします >ね。流行思想のようなものです。 >そこのところはどうなのでしょうか。 まず、そういうワガママな考え方「相手は変えられるが、自分はかわらない」をする人は今も昔も一定数います 増えてきている気もします 「自分はかわらない」だけであれば状況によって悪い考え方ではないのですが、「相手は変えられるが」が追加されると、殆どの状況においてワガママと言われる考え方じゃないかと思いますよ この考えを理想的とご質問者様が主張されているのですが、これって説明ミスとかありませんか? さきほどの補足を読むと、ちゃんと話の流れや全体像を理解できているか不安
お礼
「相手が変わった」も「相手を変えた」も、結果的には同じことですので、効果として等しいものです。過程はあまり重要じゃないということです。 「自分が変わる」はもちろん前向きで潔い姿勢です。人間として評価できます。ところが、一方で「他人を変える」ことも評価していいと思うわけです。つまり、現代的な思想が片方偏重なところがある。これが、いわば、根拠の薄いポジティブシンキングのような流行思想じゃないかということです。 考えてもみてください。昔は「あだ討ち」が世の中の美談だったのです。人殺しがです。流行思想とはかくも流動的です。
- tiltilmitil
- ベストアンサー率22% (1871/8250)
>これに意義あるといったら100人中何人が「そうかも」って思ってくれますかね? 確認したいんですが、「これに意義ある」というのは、この言葉には価値があるという意味でしょうか。あるいは「異議がある」つまりこの言葉には反論したいということの変換ミスでしょうか。
補足
変換ミスです。申し訳ない。
- 相談 蟻(@soudan-ari)
- ベストアンサー率19% (40/208)
男女の恋愛を喩えてみては如何ですか?思う所、人それぞれかなとも思いますが。 仕事の場合はどうでしょう?立場や価値観によって変わる部分と変わらない部分があるように思います。私の言ってる事は、年齢や経営者と従業員などの条件で違うと言う事です。 上記において、学習とか経験をどのように考えます?そう考えると変わらない方が、進歩が無いとも受取れますが?如何でしょうか?(退化すら変化では?) 結論は、時間が止まらない限り変化や進化は進む。但し、それが進歩か、退化はそれぞれ違うでしょうが。個人のレベルで考えるには、問題の影響因子が多いとも感じますが?宗教家や哲学の実践家で、脱世俗化するなら個人主義に近いかもしれませんが?普通は有り得ない。食事するだけでも誰かと関わっているのが人間社会で、金銭などの社会ルールもある。 質問の答えになってないかも知れませんが?
お礼
状況によりけりですね。 この標語的な「自分は変えられるが他人は変えられない」というやつは、なにか一般法則のように押し付けがましい印象があるのですよ。お答えのように、もっと可変的に、状況的に考えるべきじゃないでしょうか。
難易度(上が楽) 1.自分を理解する 2.自分をコントロールする 3.他者を理解する 4.他者をコントロールする 他者を変えられる能力があれば、自分も変えられるんですよね
お礼
これは、非常に明快で論理的なご回答ありがとうございます。 やはり、他者理解より自分理解のほうが易しいのでしょうか。どうも、案外この「自分」ってやつも扱いが難しいと思ってしまうのです。なにか「他人操縦術」っていうのが、もしかするとうまいつぼがあるのじゃないかと思ってしまいまして。 自分を変えられる能力がある、しかし、他人を変えられるには力不足 という状況があるとすれば、それは自分から変革しなければしょうがないですね。
- akamanbo
- ベストアンサー率17% (462/2680)
>相手を変えることは相手のプライバシーへの侵害 違います。 当該フレーズの意図は、徒労に終わることに必死になるのは人生の無駄だからやめとけ、というだけのことです。 プライバシーがどうこうではなく、自分の理想どおりに相手を変える方法なんか存在しないのですよ。
お礼
「徒労」ですか。つまり、プラグマティックな意味合いで言われていることなんでしょうかね。なにか教条主義的な雰囲気があるのでどうも紛らわしいですね。 相手を変えることはそれほどに実現性が低いことでしょうか。
- ap10
- ベストアンサー率33% (453/1356)
>これに意義あるといったら100人中何人が「そうかも」って思ってくれますかね? 5人いれば多い方じゃないかな >相手を変えることは相手のプライバシーへの侵害という現代的個人主義しそうだと思う これがまずちょっと間違った見解だと思います >本当の理想的状態 > >「相手は変えられるが、自分はかわらない」 これはもっと間違っていると思います どこが理想的なの?と思いっきり突っ込みたいところです ちなみにAとBという二人の人間がいて、それぞれが「相手は変えられるが、自分はかわらない」と考えた際に、既に矛盾が発生すると思います つまり、Aが「相手(B)は変えられる」とした際に、Bは「自分はかわらない」と言っているんですよ まあ言葉遊びはあまり好きじゃないし、他の回答者様が十分すぎる程いい回答されているので、この程度で失礼します
お礼
失礼しました。 「意義」でなくて「異議」ですね。文意を汲み取ってくださって恐れ入ります。
補足
自分は変えられる×2人いたら、結果的に「相手が変わった×2」が実現しますよ。まあ言葉遊びの範疇ですが。
- sukeken
- ベストアンサー率21% (1454/6647)
こんにちは。 この1文の中に「相手」が出て来るあたり、なんかあいまいな表現になっていますよね。 「自分と未来は変えられる。それは、自分の気持ちや考え方しだい。」 とでも言っておけば、スムーズだと思うんですけど。 つまり、その気にならなければ、自分も未来も変わらないよって事。 これで良いのではないでしょうか? では。
お礼
そうですね。「相手」なんていう考えが焦点をぼかしているのかもしれません。「自分」対「相手」という構図がなにか胡散臭いものを誘発する気がします。
「自分と未来は変えるように努力しなきゃいけないが、相手が変ることを期待するのは僭越だし、過去は事実として謙虚に受けいれよう」 かなー。 日本はまだ「個人主義」には至っていないですよ。「個人主義」には「自己責任」「他社への積極的な働きかけ」が含まれていますが、今の日本人は「孤立主義」に陥っているだけです。
お礼
「僭越」でしょうか?自分も他人も両方イーブンで扱うというのは邪道でしょうかね。過去は過去って言うのは納得するしかないですけどね。しかし、「他人」はもしかすると例えば「家のインテリア」とか「料理の味付け」とか「カロリーオフ志向の料理」とかいうことと同じくらいに、転換させる意義を持つものではないでしょうか。 孤立主義ですかね。たしかに人々がイーブンでやりあうという大人の社会ではないようですね。
お礼
わかりますよ。仏教的にカルマがありますし、それは自身の行いから来るものですし。こういう瞑想的な効用について私もずいぶん考えてきましたし、実践してその効果を実感するものです。他のせいにしてぶつぶつ言っていると運もつかむことができないという側面があります。 そかし、この台詞が言われている背景には、どうもそのような宗教観の臭いが薄いですがどうでしょうね。