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自分は変えられるが相手は変えられないに対する批判
よく言われる台詞 「自分と(未来は)変えられるが、相手と(過去は)変えられない」 (時間的な可能性は、エントロピー保存が逆転しない限り無理なのでうけいれるしかないでしょうが) これに意義あるといったら100人中何人が「そうかも」って思ってくれますかね? わたしは、どうもこの表現にうなずけません。つまりこれは、現代社会の支配的傾向である「個人主義」を擁護し正当化し(相手を変えることは相手のプライバシーへの侵害という現代的個人主義しそうだと思う)、またそれによる方便でもって説得しようとしているという、一種のつじつまあわせのように感じるのです。なので、本当の理想的状態 「相手は変えられるが、自分はかわらない」 ということに無関心になってしまう。なにか現代的なお題目に毒されている気がしますね。流行思想のようなものです。 そこのところはどうなのでしょうか。
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お礼
わかりますよ。仏教的にカルマがありますし、それは自身の行いから来るものですし。こういう瞑想的な効用について私もずいぶん考えてきましたし、実践してその効果を実感するものです。他のせいにしてぶつぶつ言っていると運もつかむことができないという側面があります。 そかし、この台詞が言われている背景には、どうもそのような宗教観の臭いが薄いですがどうでしょうね。