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マグリット作品とトマソン芸術の共通点
マグリットの作品は、現実世界への挑戦、反旗というテーマでいいと思います(雲の切れ目が鳥の形?そりぇ十分現実の「空」に対する挑戦だ)対して、トマソン芸術は、これまた現実を踏まえた上の、ばかばかしさ、意外さというものを前面に押し出します。共通しているのは、大前提として 「現実」 を土台にしているということです。 その「現実」の味わいを十分味わい尽くした上で、ひねるのです。その現実の味が強いことが、マグリット、トマソン芸術の強烈さと新鮮さだと思うのですが、どうでしょうか?
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No.3の返事はだいたいおっしゃる通りと思います。 “町を良く観るとあるはずのない物、手術台の上のこうもり傘とミシンの出会いのように突拍子もない出会いが実在していてしかも美しい。 その有り様は全く芸術と同じようである。” その通りです。 マグリットの作品から受けるのと同じ物がそこにあり、ラウシェンバーグやウォーホールやデュシャンやソル・ルーイットやポロックやロスコー 、ブラン・クーシ、菅木志雄、高松次郎、等々と同じ物がある。 そういう気付きがトマソンの本質であろうと私は思います。 美術にある程度詳しい人はそういう風な類似や比較を楽しみもできますし詳しくない人でもあたかも現代美術を眺めるように素直に鑑賞して楽しめる物であろうと思います。 私の意見は質問者様とはそれほど遠くなく、違いはマグリットだけとの類似共通点にこだわる必要は無いという点のみと思います。
観る物→観る者 に訂正
どういう物を「超芸術トマソン」と見るかというのはトマソンを考える上ではなかなか本質的であってけっこう難しい問題なので定義を持ち出しています。 超芸術トマソンは作家が作品として作った物ではありません。にもかかわらず芸術と同じようにその物と観る物が向き合って心を通わせる時間があります。 そのような体験を通して鑑賞者は美術や芸術の本質とはなんなのだろうか、作家の意図とは芸術にとって本当に必要なものなのだろうか、という疑問を得るわけです。 マグリットにかぎらず(マグリットが前衛芸術かどうかなどについてはここでは荷が重いので論じませんが)、現実の価値観や常識に対する反抗として「前衛的」美術作品を仕掛けて「こんな物は芸術ではない」と言わしめるような作品を投げつけ続けるような時代もありました。 しかし前衛芸術と言えども最後には芸術の範疇として取り込まれてしまう、あるいは現実社会の壁にぶち当たって新しい価値を置き換えることはできない、そんな思いが「超芸術」発見の伏線としてあったということは見逃してはいけないと思います。 超芸術トマソンの基調として既存の美術に対する「疑い」があるのは否めませんがそれを以て全ての革新的な美術と等しいものとするのは超芸術トマソンのひねりの深さや時代の煮詰まり感という大事な本質をかえって見逃すことになるのではないでしょうか。 (もし既成概念や現実ヘの挑戦反旗をテーマとした芸術が全てトマソンと同じだとするとかなりの芸術が「トマソンと同じ物」となってしまってトマソンの画期的な部分やおもしろさというのはかえって無くなってしまうでしょう) マグリットであれ、作家がある意図のもとに創作した作品である点で他の美術作品と同じようにトマソンの対局である点がトマソンのおもしろさと私は考えるのですがいかがでしょうか。 マグリットの良さや、トマソンの中に似た感覚を発見したというのは体験として尊重すべきだと思いますがそれがトマソンの本質であるかと問われるとそうとは言えないと答えざるをえないということです。
お礼
もちろん観念的にはそうです。回答者さんのおっしゃるとおり、論理的にはまったくその通りだとうなずくしかないのです。トマソンは「意図」を離れた「超」芸術である、それが一般芸術とは画するのだと。 しかし、結果ですね。作品としての形態様態、その味わいが、どうもマグリットに酷似していると思われるんですよ。 もちろん、トマソン物件が実際マグリット作品に表れるということではなくて、その雰囲気というか。有りようですね。 例えば、マグリットには、暖炉の中から蒸気機関車が出てくる絵とか、りんごが部屋いっぱいの大きさである絵があります。これは、「現実」にはありえないことを提示することによって、鑑賞者は「現実」と対峙したもの、その反世界を「現実」のしがらみから開放された世界として開放感を得る、言い換えれば、現実の束縛が潜在的な重荷になっているからこそ、マグリット作品がそれからの開放作用を持っている。 大してトマソンはどうか。壁に役に立たない扉があったり、原爆物件と称する、隣の建物の形状を日焼け後として残した壁を持つ建物など、あるいはあまりにも有名な、役に立たない純粋階段など、マグリットの現実への挑戦にそっくりではありませんか!よく観比べてみてください。私のいっている意味が「そうか!」とわかる瞬間が来るはずです。
補足
つまり、トマソンは、マグリット作品の意図せざる表出なのです。
超芸術トマソンについては、いわく「見立て」であるとか「マグリット」「デュシャン」などなどいろいろなスタイルにかこつけて語られる事がえてして多いのですが、無理に類似で結びつけるよりも「超芸術トマソン」としか形容しようのない物があちこちに実在していてまずはそれを観賞して楽しむ事から出発した方が好いと思います。 本の中では「芸術と同じように役にも立たないのに美しく、まるで芸術が展示されているかのように保存されて呈示されているように見える物件。」「世の中の実用にならない点において芸術よりもさらに芸術らしい超芸術というべきもの」と定義されていて。「芸術家が作品として表現しようと思って作ったものではない」という条件が付けられていますので、マグリットであろうがデュシャンであろうが、例え見かけが似ていたとしても一種の対極であることは間違いないと思うのです。そういう意味ではダダであろうがシュールであろうが印象派であろうが前衛美術であろうがひとしく超芸術とは対極である点に注目すべきでしょう。 マグリットの作品とのいくばくかの共通性に気がついたとしてもあわててそれにとらわれてしまうとトマソンをかえって狭いものに押し込めてしまうと思います。 また赤瀬川原平は超芸術トマソンの背景としては60年代以降の「前衛芸術の蒸発」「蒸発感」を語っています。 このあたりが美術との関連で語る場合のヒントではないかと考える次第です。 この質問は質問ではなくて自説の展開と思います。 この回答にも多少お聞きづらい表現があったかと思いますがご容赦下さい。
お礼
もちろん、そういう杓子定規な、定義的な捉え方をすれば、トマソンは意図しない芸術であるから「超」芸術なのだ、という言い方は説得力がありますが、結果としてできた作品とすると、どうも同じにおいがあるではないか、ということが、質問文からお分かりだと思います。そこのところを考えたいものです。
- chimneycat
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トマソンは”超”芸術ですぞ!
お礼
そうですね。ありがとうございます。トマソンの特定パターンがいかにもマグリットらしく思えましたね。