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人間の快感について
いつもお世話になっております。 ところで、私もそうなのですが、SF作家のアイザック・アシモフという方が、こう述べられていました。(フジテレビ・トリビアの泉より) 「人間は、無用な数の知識が増えることで快感を感じる事が出来る唯一の動物である」と。 一体、これは何故なのでしょうか。 私の考えでは、人間の脳と五感に関係があるような感じがします。(知覚心理学か認知心理学でしょうか?) 以上、御回答よろしくお願い致します。
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こんにちは。 #7です。長い回答をお読み頂き、ありがとうございます。 >・大脳辺縁系⇒その情報は、本人にとって「快感(利益)」か「不快感(不利益)」かを判別し、そこから出た出力結果を大脳皮質に送信している。 >そこで初めて、表情が顔や言葉に出たり、身体にも影響が出てくる。それと同時に「感情」も生まれる。 私の説明がちょっと分かりづらかったですね。 もう一度整理させて下さい。 大脳辺縁系の情動反応が大脳皮質に送られ、それが直接認知の対象になることはありません。辺縁系の情動判定は全て下位の自律系や運動系に出力され、これによって環境からの入力判定に対応した様々な「情動性身体反応」が自動で選択されます。大脳皮質はこの情動性身体反応の結果を基に「情動の原因帰結」を行います。これにより、自分に発生した感情が喜怒哀楽に分類され自覚されるわけです。 このように、辺縁系にどのような情動が発生したかは大脳皮質には直接は入力されません。大脳皮質は身体に現れた情動行動や生理変化を知覚することにより、自分の脳内に発生した心の動きを「間接的に知覚」します。 これをフローにしますと、 「入力―情動反応―身体反応―原因帰結―感情の分類・自覚」 となります。 情動の方が認知よりも原則的に先ですので、自分の意志で感情をコントロールするというのは誰にとってもたいへん厄介なことです。例えば、大脳皮質に「恥ずかしい!」という意識が発生したときには、我々の顔は既に赤面しています。では、この恥ずかしいという認知結果は、これはまた辺縁系に送られますので、これによって我々の心の動揺は更に深まることになります。ですから、このような感情が自覚されたならば、我々は勤めて冷静に振舞う必要があります。でも、顔が赤くなってしまっては、もうごまかしは効きませんけどね。 社会や産業といいますのは、世の中に貢献することのできる心理学の最も実践的な分野だと思います。どうか、がんばって下さい。
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脳の快感は、心の快感とは違います。知識は脳の栄養になるだけで、自我を刺激します。人類は言葉を話す様になると、急激に脳が発達しました。脳は論理や科学や言葉の刺激を求めています。しかし脳は、自然と対立していて、論理的思考で、自然の心、情緒を排除します。だから脳が思考してる時は、情緒がないので、心がストレスになります。脳が休むと、人の心と自然の情緒が交流するので、心が癒され自我が弱くなります。日本の伝統文化は、脳を休めて、心の癒し、情緒を追求しています。茶道、能、歌舞伎、日舞、文楽、雅楽、演歌、日本画、落語など
お礼
お礼が遅くなってしまい申し訳ございません。御回答ありがとうございました。 言われてみれば、そうですね。 私は主として産業や社会の心理学を専攻しておりますが、確かに情動的な癒しは快感を感じる時ですよね。逆に、職場や学校などでは脳がフルに働いているので、ストレスを感じやすいです。
- ruehas
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こんにちは。 #3です。回答をお読み頂き、ありがとうございます。 心理学を専攻なさっておられるのでしたら、あのような初歩的な説明は不要でしたね。たいへん失礼を致しました。 >(1)「快感・不快感」を認知・判別・学習する脳の機能は、大脳皮質なのでしょうか? 少々ややこしくなりますので、順番にご説明します。 まず、大脳皮質には利益・不利益の判定を下し、行動選択の動機を発生させる機能はないです。 我々高等動物の行動選択様式といいますのは、解剖学的に以下のような三系統に分類されます。 「本能行動:生命中枢(脳幹以下脊髄まで):無条件反射(本能行動)」 「情動行動:大脳辺縁系(偏桃体):条件反射(学習行動)」 「理性行動:大脳皮質:計画行動(学習行動)」 このうち、身体内外からの環境入力に選択的反応を発生させ、「快・不快(利益・不利益)」の価値判定を行うことができるのは 「本能行動(無条件反射)」と 「情動行動(条件反射)」だけです。 本能行動は遺伝情報に従う反応であるのに対しまして、情動行動では生後の学習結果を用いることができます。我々動物はこの二系統で行われる快・不快の判定に従い 「接近行動(報酬行動)」 「回避行動」 この何れかを選択します。 これがどういうことかを言いますと、実質我々の脳内では、大脳皮質には行動選択や意思決定の権限は一切与えられていないということです。 では、「理性行動」とはいったい何かといいますと、これは大脳皮質の認知機能を用いた「計画行動(意識行動)」のことであります。 大脳皮質は「今現在の状況」と「過去の学習記憶」を基に論理的に矛盾のない「未来の結果」を予測します。この認知結果に応じて実行される計画行動が即ち理性行動であり、そして、大脳皮質がこのような認知作業を行うときには、我々の脳内には必ずや「意識」というものが発生しています。 ところが、大脳皮質にできるのは「論理的に矛盾のない結果を選別する」というところまでであり、この結果に対して利益・不利益の判定を下しているのは果たして「大脳辺縁系の情動反応」であります。つまり、大脳皮質が如何に論理的で理性的な計画行動を立案しようとも、その認知結果が大脳辺縁系に入力され、我々の脳内に「心の動き」が発生しない限り、行動選択における動機付けは行われないということです。 このように、我々動物の行動や身体反応といいますのは、 「本能行動の無条件反射」か、 「大脳辺縁系の情動反応」 その全てがこの何れかによって選択されています。 注:ここでは大脳皮質には意思決定の機能はないと主張しています。ご質問の内容からは外れますが、質問者さんはご専門でいらっしゃいますので、例えば心理学の学会などでいきなりこのような表現を用いますと未だ誤解を招く恐れがありますのでちょっと気を付けて下さい。 症例をひとつご紹介しますと、大脳辺縁系の情動機能を損傷してしまったという例なんですが、この患者さんは言語も記憶も正常なのですが、行動に対する意欲というものがまるでなくなってしまいました。それがネクタイや靴であることは理解できるのですが、自分が何をしたら良いのかが全く分からないというのです。気の毒なことに、この患者さんはその後事業に失敗して破産してしまったそうです。 上記で述べました三系統の行動様式といいますのは、P.D.マクリーが論じました「脳の三位一体説」に基づくものであり、何故このような病症が現れたのかといいますと、それは我々の脳内では行動選択における解剖学的構造が三層に機能分離しているからです。そして、この患者さんの場合は大脳辺縁系の情動機能に損傷のあることが判明しています。つまり、それは神経症ではなく、明らかな器質性障害なのであります。 大脳皮質といいますのは脳内では最高次機能であり、ましてや我々人間の行動を人間たらしめるのもこれが発達しているからに他なりません。ですが、少なくとも「大脳皮質至上主義」といいますのはもはや時代遅れです。果たして、爬虫類以降の哺乳類・鳥類を含む高等動物の脳といいますのは、その進化の過程で三層構造にはっきりと機能分化しています。このため、我々動物の行動選択には大脳辺縁系に発生する「心の動き」が必要不可欠であり、大脳皮質の高次機能がそれを司るといった従来の観測的評価ばかりをこれ以上引き継ぐことはできないというわけです。 かつて古典心理学ではこのような解釈が用いられることはありませんでした。ですが、近年では脳科学を中心に解剖学や生理学に基づく新たな知見がめまぐるしく展開されています。そして、そこには今後質問者さんがご自分の研究を進める上で必ずや通じるものがあると確信をするしだいであります。 話が横道に反れましたが、ここでようやく本題になりますが、大脳辺縁系(偏桃体)が利益・不利益の判定を下すための学習結果は大脳皮質に獲得されるものではありません。偏桃体は入力された知覚情報に対し、過去の判定と同じ結果を情動反応として再生するわけですが、これに用いられる学習結果を「情動記憶」と言います。 特定の入力信号に対して選択的反応を発生させるためには、そのためには実際に偏桃体の神経組織そのものに対応する可塑的変化が記録されなければなりません。ところが、情動学習というのはそれだけでいいのかと言いますと、ここでまた話しがややこしくなります。 今回は「報酬系回路」というものを取り上げていますので、その構造を大雑把に挙げてみますと、 「偏桃体・海馬(大脳辺縁系)」 「即坐核・腹側皮蓋野(中脳)」 「眼腔前頭野(大脳皮質)」 といった構成になり、辺縁系への入力はその大半が大脳皮質知覚野を経由しています。 眼腔前頭野を通るということは、これは報酬回路は大脳機能を使っているということです。ですが、ここでは報酬学習の強化が行われるのではないかと考えられているのですが、果たしてその生理学的な根拠はまだ説明されていないです。また、情動反応の中核であります偏桃体が大脳記憶の形成に関わる海馬とどのような情報をやり取りしているのかというのもほとんど分かっていません。少々頼りない説明で申し訳ないのですが、やはりこのような状況では、情動記憶の正体が解明されていると申し上げることはちょっとできないです。 ですが、ただひとつはっきりとしていることは、それは大脳記憶といいますのは意識の中に再現することができるのに対しまして、我々は自分の脳内にどのような情動判定が学習されているのかというのを思い出すことはできないということです。果たして、意識の中に再生することができないということは、それは言うまでもなく情動行動といいますのは本質的には無意識行動であるということです。 脳科学の文献では、情動記憶を基に偏桃体で行われる選択的反応に対し、しばしば「認知的作業」という言い回しが用いられます。これは、それが大脳皮質での記憶検索で行われる認知作業とは性質が明らかに異なるためです。このように、まだその正体ははっきりとしませんが、辺縁系が利益・不利益を判定するための情動記憶といいますのは偏桃体で形成・再生されるものであり、少なくともここでは、それは我々が一般に良く知る大脳皮質の学習記憶とは構造的に別物である、という解釈を執るべきだと思います。 >(2)「快」も「不快」も、それぞれ脳で認知した感情は、確か大脳辺縁系につながっているというのを聞いた事がありますが、 これはちょっと話が逆様のように思います。 まず、「快・不快の判定」といいますのは辺縁系に発生する情動反応ですから、それが辺縁系に入力されるというのは、これは何かの間違いですね。では、辺縁系が扱う情報といいますのは、その全てが判定を下すために入力されるものであり、快・不快といいますのは入力ではなく、それは「辺縁系の出力結果」です。 大脳辺縁系への入力は身体内外のあらゆる感覚器官に及び、その中にはお腹が空いた、Hがしたいといった本能的な欲求から大脳皮質の認知結果までが含まれます。ですから、大脳皮質が知覚・認知を行うだけではまだ感情というものは発生しません。では、この情報が辺縁系に入力されることにより、ここで初めその認知結果に対して利益・不利益の判定が下され、情動反応が発生します。 ちょっとくどいようですが、ここで一応「情動の原因帰結」に就いてご説明致します。ご存知ならば結構ですが、もしご存知なければ知っておいて損はないです。 環境の変化に対して「快・不快」の判定を下し情動反応を発生させているのは辺縁系です。ですから、ここで「感情の自覚」ということになりますと、まず最初に発生しなければならないのは大脳皮質の認知ではなく、大脳辺縁系の情動反応の方ということになります。 何故かといいますと、反応といいますのは発生するまで知覚することができないからです。このため、我々の脳内で辺縁系の情動反応は大脳皮質の認知よりも必ず先ということになります。果たして、我々が自分の意志でもって情動の発生を阻止することができないのはこのためです。 で、我々の身体ではこの判定に従って自律系や運動系に「顔の表情」や「心拍の上昇」などといった様々な行動や生理反応が発生するわけですが、これをひっくるめて「情動性身体反応」と言います。そして、このような情動性身体反応の表出結果が喜怒哀楽など特定のパターンに「分類の可能となった状態」を我々は「感情」と呼んでいます。 分類の可能な状態にならなければそれが何の感情なのか認知・分類することはできませんよね。自分に発生した身体反応の結果は内臓感覚などを介して知覚入力されるわけですが、大脳皮質はここで初めてそれを基に状況判断を行いうことができるようになります。そしてこれにより、我々は「自分は今、何に対してどのような感情を発生させているのか」というのを自覚するわけですが、これを大脳皮質における「情動の原因帰結」と言います。 >もしそうだとしたら、個人差はあっても「快→気持ち良い気分」「不快→ストレス」というような仕組みになっているのでしょうか? 只今ご説明致しましたように「快・不快」といいますのは刺激入力ではなく大脳辺縁系の「出力結果」です。 我々動物は、 「報酬刺激:接近行動」 「嫌悪刺激:回避行動」 環境からの入力に対応した行動を選択するわけでが、この判定を下しているのが生命中枢や大脳辺縁系といった「中継中枢」です。 生命中枢の判定基準といいますのは全人類に共通ですが、辺縁系の情動反応には学習結果が用いられますので、その判定結果には生後体験の違いにより必ずや個人差というものが反映されます。そして、この体験学習の積み重ねが即ち我々の「性格・個性」ということになります。 このように「快・不快」といいますのは中継中枢の出力結果でありますから、これが大脳皮質に上行して認知の対象となることはありません。全ての判定結果はそのまま自律系や運動系に出力され、ここでは環境から与えられた情報に対応した適切な行動や自律反応が即時に自動選択されるようになっています。 判定の結果によって出力先が変わりますので、情動反応の場合、感情の表出パターンとしてはかなり複雑に分岐します。基本的には、報酬刺激として判定された場合は「即坐核」を経由して報酬系回路に「DA(ドーパミン)」の分泌を促し、期待や満足感と共に対象に対しては接近行動が選択されます。これに対しまして、嫌悪刺激の場合は「青班核」や「中脳中心灰白質」などが活性化され、「NA(ノルアドレナリン)」の一斉投射によるストレス対処反応や、回避行動、逃走行動が選択されます。こちらの系統には名前が付いていませんので「嫌悪系回路」とでもしておけば分かりやすいと思うのですが、実際には報酬系のようにはっきりとした回路にはなっていないんですね。 >(3)ネズミの一例は、依存症の心理に似ているのではないかと私は思いましたが、ruehas様はどう思われますか? はい、質問者さんのご指摘は事実であり、現在では報酬系回路で可能となる自己刺激は「ギャンブル依存症」などの原因ではないかと考えられています。 ここで、 「ネズミのレバー」 「人間の知的好奇心」 「ギャンブル依存症」 この三つは何れもみな報酬系回路によってもたらされる能動的行為であり、その生理学的構造には何の違いもありません。 では、何処からが依存症なのかといいますと、これには日常生活に支障をきたす病的現象といった線引きしかありません。生活を棒に振ってもギャンブルが止められない、これはどう考えても異常です。ですが、脳が病気なのかと言いますとそんなことは一切ないのです。報酬反応を発生させることによって接近行動を選択するという本来の機能が、そこでも全く正常に働いているんです。 質問者さんはご存知だと思いますが、これは「うつ病」や「PTSD」でも同じことが言えます。大脳辺縁系の情動機能が損傷しているわけではないのに、本人はどうしても不安やうつ状態から解放されません。 これってかなり不思議なんですよ。何故かと言いますと、今はきっぱりと足を洗いましたが、実は私はパチンコ依存症の経験者なのであります。幸い、お金がなくなってしまったので止められました。
お礼
再度の御回答、ありがとうございます。 他の回答者様にも申し上げた事ですが、私は心理学を専攻していても、まだまだ素人に過ぎません。(社会・組織・産業の各心理学が主です) どうやら、大脳皮質・大脳辺縁系の仕組みについては、私が誤解していたようです。 ・大脳皮質⇒外部からの情報を認知。但し、それが良いか悪いかは判別不可能(感情は生まれていない)。 ・大脳辺縁系⇒その情報は、本人にとって「快感(利益)」か「不快感(不利益)」かを判別し、そこから出た出力結果を大脳皮質に送信している。そこで初めて、表情が顔や言葉に出たり、身体にも影響が出てくる。それと同時に「感情」も生まれる。 というような感じでよろしいでしょうか。
われわれは曖昧な世界に生きています。その中で、法則性を見出しパターン化できれば安全度は増すでしょう。 人間の脳は呼吸や睡眠などの生命維持をつかさどる脳幹、別名「爬虫類脳」、それを取り巻く大脳辺縁系、別名「中間的脳」とか「情動脳」、そして一番外側の高度な知的活動をつかさどる「大脳新皮質」という三層構造に進化してきました。また、脳は左右にも分かれていて、右脳と左脳の2つをつないでいるのが脳梁(のうりょう)です。エルコノン・ゴールドバーグ(神経心理学者)によると右脳は“新奇性”を扱い、左脳は“慣例”を扱うと言います(従来は右脳は感性・非言語を、左脳は理論・言語を扱うと表現されていました)。新しい課題を最初は右脳が扱いますが、慣れてくると左脳が扱うようになります。 恐怖や不安などの感情は、我々の祖先がむかし森の中で棲んでいた頃、毒をもった動物や危険な場所に近付かないための一種の判断システムとして機能しました。進化の順序として、その外側に大脳新皮質ができました。過去のデータと照合するのが左脳、感情を察知するのは右脳です。このふたつが相互に作用し合って、なるべく正しい判断を下さなければなりません。そのために、相互に作用しあった時に褒美として快感物質(ドーパミン)を分泌させる報酬系という仕組みを脳は備えました。英国ケンブリッジ大学のシュルツ博士のサルの実験によると、合図(光)と餌が出るかどうかの確率が50%の時に「ドーパミンニュートロン」の活動は最大になったそうです。光ったあと確実に餌がもらえる100%の時よりも、餌がもらえるかどうかが50%の時の方がサルは快感だったということです。人がギャンブルにはまるのも解りますよね。 進化の過程で、半分は安全な慣例の世界に身を置き、半分は未知の新規な世界に進出するという半々スタンスが生命持続にとって有利だったからでしょう。ただ、人間の脳が進化しすぎて不必要な知識をも得ようとするのです。知識そのものに価値があるのではなく、知識を得る過程そのものが快感だからです。
お礼
御回答ありがとうございます。 やはり脳に関わりがある事は、間違いないようですね。 言われてみれは確かに、私達人間の世界は曖昧だと思います。 特に、アナログの時代→デジタルの時代になってからは、なおさらでしょう。 併せて、ドーパミンも関わっているということは、知りませんでした。
未来力という考え方ができます、アドラー心理学の影響をもろに受けて回答するのですがアルフレット(アルフレート)アドラーは人間は未来への意思という心的エネルギーを見出し見解を出しました、なので未来のための下準備というのがおそらく無用な知識を得たがるものであるという見方が一つできます、未来への下準備というのはその裏側に感情が潜んでおり新しい物を見たときの刺激による興奮と快感が元になっているのではないだろうかと思います、知らなかったものを知るということで準備ができますよね、そうすることで安心でき快感となるのではないかと思います
お礼
御回答ありがとうございます。 私もそうなのですが、確かに知らなかった事を知っておくと、ホッとした気分になれますよね。 回答を拝見させて頂いて思ったのは、人間は前に目があるからかもしれませんが、常に前進したい・未来に向けて自分なりに成長したいという欲求があり、それが達成されて初めて「快感」というような感じではないかと思いました。
- noname002
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No.3さまの御回答、お相伴で拝見させていただき、私などにも分かりやすくて、とても参考になりました。ありがとうございます。 >…通常、報酬反応といいますのは餌が与えられなければ発生することはありませんが、ひとたびそれが学習されますと「自己刺激」が可能となり、ネズミは自分の脳内に快感を発生させるためにレバーを押すようになります。 このように、まだ結果が判明していないにも拘わらず報酬反応を発生させることができるのは、それは過去に快感を学習することにより、次も利益であるという「未来報酬」を予測することが可能となるからです。… そうしますと、餌が与えられない、つまり報酬が見込めないにもかかわらず、あるいは、そもそも報酬を考慮に入れず「レバーを押し続ける」かのような行動には、快感を発生させる以外の目的があるのではということになりますか。まるで一種の中毒的行動のように見えなくもないですが、単なる習慣化しているだけとか? >無駄や危険というリスクを押して尚、「生き残りの可能性」という生物学的意義が成立 最終的には、生き残れるか否か、というレベルの問題になってくるわけなのでしょうか。 「大脳辺縁系」というのは確か、情動面に関係する部位なのでしたっけ。 実に興味深く思いました。。。
お礼
再度の御回答、ありがとうございます。 おそらく、全ての方がこの心理的な仕組みを一度は「どのように出来ているのだろう?」と考えたいたことではないかと思います。
- ruehas
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こんにちは。 これは五感とは関係ないですよ。 例えば、 「美しい響き(快):耳障り音(不快)」 「あまい香り(快):臭い匂い(不快)」 「優しい感触(快):強い刺激(不快)」 このような五感(感覚入力)に対する判定といいますのは遺伝情報として生まれたときから備わっている「生得的な反応」です。 これに対しまして、「知ることの快感」といいますのは入力された情報の内容や結果に対して下される判定でありますから、これはどう見ても五感の反応とは関係がないわけですね。ここでは目で見たか耳で聞いたかに拘わらず、飽くまで「与えられた状況」に対して利益・不利益の価値判定が下されています。 生得的な感覚反応とは異なり、このような情報の内容に対する判定基準といいますのは遺伝情報の中には書き込まれていません。従いまして、このためには必ずや「生後学習」というものが必要となります。我々の脳は生後体験から獲得された学習結果に基づき、身の回りに発生する様々な状況の変化に対して多彩な価値判定を行っています。 無用な数の知識を次々と獲得するのは、それは我々人間が唯一「知識に対する探索行動の可能な動物であるから」です。知識に対する快感といいますのはこのために発生するものです。 我々の脳は生後の学習結果に基づいて利益・不利益の判定を行っています。そして、人間の社会には画するともなく「知ることは利益である」という文化的価値観が定着しています。このため、我々生まれた社会からそれを教えられ、あるいは自らが体験することによってほぼ例外なく知識の獲得を利益・喜びと学習し、この判定に従って行動を選択することになります。 では、何故「唯一人間か」といいますと、それは他の動物にはこれを体験し、学習することができないからです。 通常、脳内の報酬反応といいますのは何らかの報酬が与えられることによって発生するものです。ですから、基本的にはそれが自分にとって有益な知識でない場合は快感を得ることはできないはずです。ところが、果たして我々人間は知ることそのものが利益であるという価値観を学習しています。このため、アシモフの言う「無用な数の知識」といいますのは、それは全て自らの脳内に快感を発生させる道具として使われている、ということになります。そして、このように脳内に報酬反応を発生させるため自発的に繰り返される行動を「自己刺激」と言います。 レバーを押すと餌が出てくる装置を使って報酬を体験させますと、ネズミの脳はレバーを押すことによって快感を発生させるようになります。通常、報酬反応といいますのは餌が与えられなければ発生することはありませんが、ひとたびそれが学習されますと「自己刺激」が可能となり、ネズミは自分の脳内に快感を発生させるためにレバーを押すようになります。 このように、まだ結果が判明していないにも拘わらず報酬反応を発生させることができるのは、それは過去に快感を学習することにより、次も利益であるという「未来報酬」を予測することが可能となるからです。 高等動物の脳内で「報酬系回路」といいますのは皆このような学習予測機能を持っています。ですから、我々はこれによってまだ知れぬ未来の結果に対しても行動を起こすことができます。そして、特に人間のように知ることの快感を学習することによって生み出される行動の動機を果たして「知的好奇心」と言います。 では、このように行動選択の目的が知的好奇心の充足であるならば、それはネズミがレバーを押すのと構造的には全く同じことです。このため、我々人間は自己刺激を繰り返すことによって次から次へと無用の数の知識を増やしてゆくことになります。そして、ここでは未知の報酬に対して行動が選択されているわけですから「どんな知識が得られれば良いのか」といった具体的な目的は介在しません。このため、仮にそれが不必要な知識であったとしましても基本的には事前の選別を行うことはできないわけです。知ってみるまでは分からないですからね。 ならば、それは「無目的」という点で「探索行動」と同じ性質を持っていることになります。 探索行動といいますのは如何なる動物にとっても無作為、無目的であり、結果によってはくたびれもうけ、場合によっては危険といったリスクを伴います。ですが、遭遇するのは危険ばかりとは限らず、そこには不測の事態と共に「未知の利益」が発生する可能性もあります。このため、我々動物は未知の結果に対して行動を起こさない限り未知の利益を獲得することは永遠にできないわけです。 果たして、我々動物に習性として備わる探索行動といいますのは、そこに無駄や危険というリスクを押して尚、「生き残りの可能性」という生物学的意義が成立します。そして、この未知の可能性に対して行動を選択する機能は大脳辺縁系を中心とした「報酬系回路」に備わっており、我々人間はこの報酬系回路の中に「知ることの快感」を学習しています。従いまして、脳内に快感が発生するのはこのためであり、人間といいますのはこれによって知識というものに対しても探索行動を行うことのできる唯一の動物ということになります。
補足
とても分かりやすい回答をして下さいまして、ありがとうございます。 五感は関係なくても、脳には関わりがありましたね。 ruehas様の回答を拝見させて頂きましたが、気になった事があった為、追加質問させて下さい。 (1)「快感・不快感」を認知・判別・学習する脳の機能は、大脳皮質なのでしょうか? (2)「快」も「不快」も、それぞれ脳で認知した感情は、確か大脳辺縁系につながっているというのを聞いた事がありますが、もしそうだとしたら、個人差はあっても「快→気持ち良い気分」「不快→ストレス」というような仕組みになっているのでしょうか? (3)ネズミの一例は、依存症の心理に似ているのではないかと私は思いましたが、ruehas様はどう思われますか? 以上、御手数ですが再度御回答して頂けると有難いです。
- noname002
- ベストアンサー率36% (97/264)
しろうとの推論というか、想像に過ぎませんけど。。。 知識の内容そのものを楽しく感じるのではなく、敢えて、無用であるだろうことは承知で、数が増えることが目的みたいになっている、ということでしょうか? 貯蔵、ということで安心感を得ようとする行為に似ているのかもしれません。たくさんあったら安心する、とか。 あるいは、安心感を超えて、コレクション的な欲求。これは自慢にも繋がりますね。 用済みの空き箱等ゴチャゴチャと捨てられなくて溜めこむ人に、その理由を尋ねたら大概は「いつか使えることもあるかもしれないから」とか言うんじゃないでしょうか。 心配性の人に多いのかもしれません。 私は、すぐに使うアテもなく とっておくとしたら、よほどデザインが気に入ったとかですが、こういう場合は、いざという時でも惜しくて使えなかったりします(笑)これは、コレクション的、ということになるでしょうか。 お金は、使うことを最終目的として貯めるのが ふつうですが、使うのを惜しんで、お金そのものがコレクション対象になって貯めこむ人もいるとか(笑) スケジュール手帳が予定の書き込みで いっぱいになっていないと もの足りないとか思う人もいるみたいですね。なかには自慢する人もいるようです。 私などは逆に、予定が詰まってるとゲンナリするんですけど。。。愚痴りたくなるくらいです。 たくさん、いっぱいあったら安心する、というのが、まずは人として一般的なのだろうなと思いますが、逆に、常に身軽でいるためには、うっとうしいとか重荷に感じる人もあるでしょう。 外出時の手荷物なんかでも、もしものときを考えて、あれこれと用意周到に、こまごました品々を詰め込んだバッグを持ち歩く人もいるし(女性に多いかな?)私みたいに、できればポケットだけで済ませたい、というのもいるし、気質が影響している面もあるのかな?と思うことがあります。 貯蔵して安心という快感なのか、コレクション的満足という快感なのか、いずれにしてもヒトの知能に関係してはいるでしょうが、何にせよ、増やすということ自体に執着するのであれば、これは心理的なもののほうが大きいのかもしれません。 確か作家の故 遠藤周作氏が仰ったと記憶していますが、「便秘症の人はケチンボである」とか。周囲の人間で思い当たる者が数人おりますので、本当かも?と思ったりしました。これこそ「無用な知識」?か(笑) なぜか「百舌鳥(もず)の早贄」とか「銭ゲバ」とかも連想してしまいました。(笑)
お礼
御回答ありがとうございます。 現在、大学院で心理学を研究していますが、正直言いまして、私も心理学に関しては素人同然ですよ。
人間の脳は体の要求することを解決する以上に余分におおきくなっているようです。このような余分な部分はしなければならないことがないので、いわば暇を持て余していうのではないでしょうか。そこで無用なことでもやれれば嬉しくてしようがないのだろうと思います。
お礼
早速の御回答、ありがとうございます。 なるほど、言われてみれば確かにそうかもしれませんね。 脳を「頭の器」として考えてみると、身体からの要求に対応する機能のほかに、その器のスペースがあるのではないかと思いました。
お礼
お礼が遅くなってしまい、申し訳ございません。 再度の御回答、ありがとうございました。 こちらこそ、まだまだ理解不足だったために、わざわざ回答をして下さった事、心から感謝致します。(知覚や認知の各心理学は「素人」です) 確かに、社会や産業の各心理学は実践がメインになりますが、今回の知覚や認知においても、脳が関係している以上は学習よりも実践的になるかと思いました。