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存在の密度
☆存在そのものに、濃淡はあるのでしょうか? ☆現代物理学ではどのように考えられていますか? 物質の最小単位は点滅していると考えています。そして、その連続ワープである点滅が波であると。 それで、存在そのものに濃淡、密度があるのではないかと思うわけです。 グラビトンは薄いので見つけにくく、光子はその次に薄い。弱い力はちょっと濃くて、強い力は非常に濃い。濃いければ濃いほど、点滅が超高速で、この宇宙に相対論的に時間を多く持っている。だから力も強い。 点滅というのは、反物質と対になって回転していると考えます。裏返ったり、表返ったりしているのです。点滅とは、回転であり振動(波)です。 それは、相対的な時間の密度であり、この密度が薄いと、 「少年老いやすく、光陰矢のごとし」 と、いうような人生の空虚感につながるのではないでしょうか? いいたいほうだいしましたが、憂慮してください。 最初の星マークが、質問です。よろしくお願いします。
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質問者が選んだベストアンサー
[☆存在そのものに、濃淡はあるのでしょうか?] ですね。 参考程度の考えまで 存在そのものに濃淡はありません。 「ある。」か「ない。」かの二通りです。存在が濃淡として観測される場合はあります。どちらかが運動している場合は観測系によって、存在を時間的「過去と未来の狭間の現在」に観ることになりますので濃淡として観測される場合があります。 質問者のayamatiさんのご指摘の「点滅」は観測系で言えば、「有」と「無」 の時間連続ですね。 クリスマス用のランプを無限に配置して連続的に点滅させますと光のようなものになります。「光陰矢のごとし」になりますね。 確かにそのような考えも出来ます。 参考まで
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>☆存在そのものに、濃淡はあるのでしょうか? ありません。あらゆる観測において、原理的にはyes-no実験に帰着できます。濃淡があるのなら、それはすなわち最小単位ではなく、集団であるということにしたほうが自然でしょう。 実際の測定の際には量子効果が残るところでは確率的にしか現れてこないので、一見すると濃淡があるように見えるかもしれませんが。 >☆現代物理学ではどのように考えられていますか? 素粒子論を勉強してください。あいにく僕は専門ではないので詳しいことを正確に伝えることはできません。 ただ、アドバイスとして、観測にかからない部分についてはどのような考え方も可能だと言っておきましょう。 しかし、ある考え方を導入する場合、なぜその考えでなければならないのかという強い動機が必要になります。また、その新しい考え方を導入することで、過去のすでに証明された内容に対して矛盾を引き起こしてはいけません(厳密に言うと少し違いますが)。つまり、「過去のこの問題はおかしくなるけど今までわかってなかったこの問題は解決できた」ではダメなのです。さらに、仮定がいくつも連鎖してはいけません。 たとえばあなたの主張の場合は、力の強弱についてはそれで見た目上は説明できていますが、「濃度が濃い→点滅が高速→相対論的に時間が多い→力が強い」と、既知の範囲では一度も示されてないことが連鎖して出てきています。さらに、定義の曖昧な奇妙な言葉が多すぎます。そして、仮に力の強弱の仮定は認めたとしても、それではなぜ核力やクーロン力が近距離でしか働かず、力の弱い重力が遠くまで届くのか説明されていません。 これでは残念ですが、確実にこう言われるでしょう。 「今までの考え方ではなぜいけないのか?」と。 もちろん、あなたが自分の中で考えているだけで、人に主張してまわらないのであればどのように考えても勝手なのですが。。。
お礼
>また、・・・起こしてはいけません。つまり・・・・ではダメなのです。さらに、・・・してはいけません。 「いけません」はイケてません。禁止するのは禁止です(笑。 冗談ですよ。 >それではなぜ核力やクーロン力が近距離でしか働かず、力の弱い重力が遠くまで届くのか説明されていません。 重力が遠くまで働くのは、裏の裏まで行っているからです。表の表から裏の裏まで行くので、「表」にいる間は短い→存在の密度が薄い。力が弱い。 強い力および弱い力は、裏表ぐらいですんでいるのです。だから、存在度が高い→力が強いが届かない。 >「今までの考え方ではなぜいけないのか?」と。 人類が成長するからです。今までの考えでは窮屈で、人類全体ではやっていけないからです。今までの考え方は、進化して今までの考え方になってきたています。これからも、展望とともに進化します。 >ありません。あらゆる観測において、原理的にはyes-no実験に帰着できます。 科学者が原理を探しているというのに、原理的にはYES、NOで決まるとは。 YES、NO、その両方、どちらでもない。これぐらいは誰でも考えます。 YES、YES、NO。NO、NO、NO。なども考えれます。世界は広いのです。科学の歩みは遅いのです。だけれども、楽しいのです。NONONOは、楽しくない。 この質問は、展望であり、現代科学はその展望をどう見るのか?という話です。一見は百聞にしかず。だけれども、人の視野は狭く、瞬間の今しか見えません。だから、未来を語るのです。展望として。 展望鏡を覘きましょう。不確定な要素がたくさん、きらきらとめまぐるしく、ちらついています。それゆえに、無限の可能性をも秘めているのです。 科学は限定するものではない。無限の広がりを自認するものです。
補足
だけれども、あなたの意見は大人びており、二度読むと、よくなりました。ありがとうございました。一聞も、一度では聞き取れませんでしたが、ご容赦ください。
お礼
>「過去と未来の狭間の現在」に観ることになりますので濃淡として観測される場合があります。 なるほど。あるのですか。 しかし、懐の広い回答、ありがとうございます。
補足
皆さんへのお礼を総じてここに書きたいと思います。この質問は有効ではあったが、強引で、解答がつきにくいとおもい、ここで締め切らせていただきます。 百聞は一見にしかずなど、御礼に使われている言葉も間違いが多くあり、らんぶんでありました。 回答者皆さん、ありがとうございました。