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思索する時。。。空っぽの私
いつもお世話になっております。 少し病的な範囲の質問かも知れませんが、お気軽に回答下さると嬉しいです。 「思索」等と言うと高尚な感じで恥ずかしいのですが。。。 *思索する時、皆様は「どんな感覚」でしょうか? (私は只ひたすらに「自分の心に潜って行く」感覚です) 思索する時「前提を疑って掛かる(=白紙撤回の限界に挑戦?)」と思うのですが、 (そうではない場合がありましたら、ご教授下さい) *自己の内部(?)に反発/拒絶を感じる事はありますか? (私は磁石が反発し合うような感触で「近付く事も許されない」と言った感覚を感じる事があります) 曖昧な表現になりますが「自己認識の感覚」は、 *枠でしょうか? *核でしょうか? (私は「枠」と感じます。あまり自分の内部に「中身」を感じません。 言わば「空っぽの容器」の感覚です。以前(二十歳前迄)はとにかく「中身を見つける(無い気がしていたから)」事に必死だったように思います。ひと事件ありまして「今は内容量を増やす受容の時期」かも知れない、と考えてからは「容器の感覚」が強いです。自己暗示の成果でしょうか。汗) 単に表現に固執しているだけかも知れませんし、 個々人の感覚/言語化の違いもあるかも知れませんが、 出来ればこんな感覚に「実感」がある方にお答え頂けたら、と思います。 よろしくお願い致します!
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お礼
k_jinen様、回答ありがとうございます。 返信が遅れまして申し訳ありません!! 長くなってしまいまして、補足欄に書き込みました。 よろしくお願いします! 読み違い/考え違い等ありましたら、ご指摘頂けますでしょうか。。。
補足
k_jinen様、回答ありがとうございます。 返信が遅れまして申し訳ありません!! なかなかに論点/気付きが豊富で、あまり整理整頓が上手とは言えない私の頭は様々な情報が飛び交ってしまい、さっぱり収拾がつかずに困っております。大汗 k_jinen様が上げてくださった、 >私 =眺めている主体 >(全宇宙というよりも、概念的にもっと広い)総体 =「全て」 そして、その「私と総体」は >知的に切断された面(以降、知的切断面) を「境界」とする、と言う判り易い筈の(!!汗)ご回答、とても有意義な回答を頂き感謝申し上げます。 ところで、何が「判り易い筈!!(=判り難い)」となってしまっているかと言うと、この三者を私が以前行った「実験」で得た感覚に当てはめる場合、どれがどれに対応するのだろうか?と考えているからなのです。 (決して、k_jinen様の回答に不足を申し立てているのでは有りません、足りないのは私の思考力ですので、誤解なさらぬようお願いします。) 私が実験で得たもの、は、 (同一の事象に対する思い/心/考えとして) 1)(私の中に)複数の同列同等の人間の存在 2)(彼らを観察/選別/表出する)主体 なのですが、 これは「同一の事象に対して反応」と言う条件でしたので、k_jinen様のおっしゃる >空間的にも時間的にも切断され と言う言葉に対応するのではないか?と考えたのです。 私の「実験」は主に自分を知る為のものであり、かなり狭く独善的に行いましたので、 >ありとあらゆる「全て」 と言う感覚とは程遠いものでした。しかし、今になって思い返すと、 *1)は >「知的切断面」と同じものではなかろうか? *2)は >私(=眺めている主体)と同じものではなかろうか? と頂いた回答を拝読して考えているのです。 >(全宇宙というよりも、概念的にもっと広い)総体 =「全て」 に思考が及ばなかったのは「何か確固たるもの」を欲しがる未熟な若さ故の視野の狭さであり、臆病さであったと考えています。 その「確固たるもの」を、時間的空間的に限定し切り離した「私」と言う「全て/総体」の一部分にも満たない「断面(知的切断面)」に求めて、何の価値があると考えていたのだろう。。。とちょっと苦笑いです。 やっぱり中学生は中学生なのですね。。。思考範囲が狭過ぎる程狭い。 自分の周りを取り巻く世界とその広さに、遅まきながらですが気付けた事がとても嬉しいです。 そして、その発見を導き出してくださったk_jinen様のご回答に、心から感謝申し上げます。 ありがとうございました!!