No.4です。
yukkinn66さん このご質問は 日本の哲学思想をすべて 濾過してやろうというきわめて豪胆でうつくしい魂胆のもとに始められたと推し測られます。考えてみれば 五年十年ほども遅かった企画です。(わたしは 五年前までの十年ほどは 仕事にかかりきりで 余暇にも 勉強せずに 空白の期間を過ごしました)。
このようなご魂胆を上回る大誤解も大誤解でキザもキザ 百乗してもまだ足りないキザでおおばかものからの その後の投稿です。
(ω) 自己認識――《〈わたし〉とは何か》――の問題
☆ が まづ 横たわっていると言わねばならないようですね。
★ (No.10お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「自己認識」と言うか、「他者に対する自己の確認」と言った感覚です。
これを女性は「他者と自己の間/或は他者そのもの」に置き、
男性は、「自己の内部」に置く、そんな気がしたのです。
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☆ わたしは 男であるのに この男性の例に漏れてしまうのですが
単純に
(α) あやまつなら 〔その気づきにおいて〕 われあり。If I err, I am. Si fallor, sum.( Augustinus )
☆ です。普段は 能天気です。つまりは 自慢じゃないですが 天然ぼけです。
▼ (No.11回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
自己認識の感覚は量の問題なのかです。枠や容器にそれ(* 量としての感覚)を満たすならば 〔* その感覚量としての自己認識は〕 全ての形(* =表象)〔*や〕表現の根源を纏める〔* 主体存在〕以前なものであり、何の集まりもない場だけのもの。核=エネルギーの源泉として「質」を考えると、きっと「憧れ」がそのようなものだと思う。
★ (No.11お礼欄) 容器と内容物(量)と源泉(核)でしょうか。。。。
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☆ この文章の読みは ややこしく思います。
(1) まづ 《存在=わたし》が います。(α)を言いかえるなら 《〈わたし〉と名乗って 言葉で 交通する存在どうしの内のひとり》です。
(2) これを 《源泉(核)》と言ってよいのでしょうが おそらく 《容器》であることを超えています。《内容物(量)を容れる能力存在》であることに間違いありませんが それだけでは 《自己表現をすべてまとめ統括する核(たましい?)》ではないでしょう。
(3) しかも ところが このわたしは 《そのように 何やかやを集めて管理する》一方で それと同時に
▼ 何の集まりもない場だけのもの
☆ であるように感じます。逆に そうです。
(4) そのときには
▼ 核=エネルギーの源泉として「質」を考えると、きっと「憧れ」がそのようなものだと思う。
☆ というごとく この《あこがれ》が 鍵語になると思いました。
(β) あこがれ←―あくがれ←―《あく(処・事)‐かれ(離れ))》
:《心身が何かにひかれて もともと居るべき所を離れてさまよう意。後には 対象にひかれる心持を強調するようになり 現在のアコガレに転じる》(大野晋)
☆ 《わたし》たちが何にひかれるかは ここでは言わずもがなとしておきますが このわたしの場であるアクから離れるというのは 西欧哲学では言わずと知れた
▼ (No.12回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・現象学だと思います。・・・「白紙撤回」とは「思索」を成り立たしめている大前提、根本条件それ自体を見つめることですよね。〔* いわゆる《エポケー》ですね〕。
ハイデガーの「そもそも、われわれは何かがあることを自明の前提にして思索を始めたがるのか、本当は何もないことを前提にすべきではないのか」という発想も、一種の「白紙撤回」だと思います。
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☆ そのあとには そのためにも《ニヒリズム》のそれとしての効用が触れられています。ただし 後半には 異見を添えます。
▲ 《本当は何もないことを前提にすべきではないのか》
☆ というように 《何もない》というふうにも 規定する(もしくは 予見を持つ)ことも ふさわしくないと言うべきでしょうね。《あくがれ》の思想は もっと奥が深いと言うべきではないでしょうか。軍配は 後者に挙がるような気がします。
(γ) エポケー(判断中止・白紙還元)≦あくがれ
☆ 唯一神を想定した人びとの間では 《まぼろし》を見ると言ったかと思います。ちなみに 《目・滅〔ぼ〕し》の意味だそうですから 同じ意義とするには 解釈をあいだに容れる必要があります。《肉眼の視力を超えよ》といった介在です。
(5)《わたしとは何か》は その問いを 同じように問う存在どうしの関係を とうぜん 同時に 持つと言われます。
★ (No.12お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
他者(の自己認識)との中和域が存在するように思います。
でもその「他者の自己認識」は、自分の想像のでっち上げでしかない、ようにも思えますし。。。
もしかしたら、人間はその「でっち上げ」に惑わされて、他者と不要な距離を置いている、なんて事はないかしら?と今ふと思いました。
>本当の意味での「自己」とは、他者と交わったとき、その交点においてはじめて発生するのではないか
「自己認識」に囚われて、大事な点を見落としていました。汗
人間の思考は常に「化学反応」なのですね。。。
自分以外の何者(何物)かとの中間に発生するもの、なのですね。
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☆ たぶん――もはや すべてを端折ってまいりますが――
(δ) 《いま・ここ(つまり アク)》なる《わたし》たちは アクからなぞの何ものかに引かれていき アクから離れたやはり《わたし》どうしとして 《化学反応以上の化学反応》をしている。
☆ のでしょうね。
★ (No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>私が自分と異なった考えを辿る際には、
>そのストックから、対象物とリンクしそうな「触媒」を探す
:只の「触媒」、効果的な「触媒」。。。それでいいのですね。
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☆ これは 細かくげんみつに――例によって 心の底までいぢわるな bragelone が――言うとすれば 《対象物とリンクしそうな――効果的な――「触媒」を探す》のは 知識としての《内容物(量)》の問題でしょうね。(*^-^)b もし それをも超えるとなれば
(ε) わたしそのものが 触媒になる。
☆ といったところでしょうか。(*^^*)v (あれっ 絵文字 まちがえてます? 気座野寄挫之進でぇーす!)
(6)《関係性》には 実際には どろどろした側面がありますね。
★ (No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
只「何かをしつこく考える時」、何故かドキドキします。
全く「先に何があるのか見えない」のです。
怖くてドキドキするのでしょうか、何故かいけない事をしているような気持ちになります。
★ (No.5お礼欄) 自分に囚われ過ぎている、とも感じます。
★ (No.5お礼欄) 人がやらない事とか、難しいと言われる事とか、これは大変そうだなあと思う事とか、そんなことばっかりに闘志が沸いてしまう面倒な性格です。汗
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☆ つまりは 端的に言って
(ζ) 社会における慣習・禁忌・黙契・それとしての常識(非常識?)に挑戦するといった気になると 起こるふつうの・あるべき気持ちと姿である。
☆ ということではないでしょうか。全部が全部 そうではないかも知れませんが そう言えば このわたしも それでも 厚かましさを躊躇する場面を持ったことがありました。そう言えば ちょっとは 奥ゆかしさがまだ残っているのかと 思ったことがありました。
つまりは すべては えらいえらい人たちの内の不心得者たちが ふつうの市民たちに挑戦的なのだと分析し見通してください。これを むろん われわれ か弱き哲学の徒は 粉砕してまいります。
(7) さらに具体的な自他の関係ないし識別の問題 あるいは 接点はどこかなどなど。
★ (No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「誰かの考え」を辿っているつもりなのに、気付けば「自分を潜っている」気がします。これはつまり「道を間違えて」いるのか?、それとも「誰か」と自分が「重なっている状態」なのか?
★ (No.4お礼欄) 人は誰かの考えを辿って行く時、「自分」は何処に置いているのでしょうか。
私は「自分と同じと感じる所」から入り込んでいるように思います。
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☆ アクから離れたわたしは 離れて しかも同時に アク(いま・ここ)なるわたしにあるなら そしてその姿勢が確かになればなるほど 他者〔の考えや 表層の心理〕と からむはづです。
★ (No.4お礼欄) 自分の中の「こんがらがった糸玉」と格闘している感じです。
☆ 外側にある他者から (a)ほんとうにその本人の内側にある意志ないし思想と (b)ただ表層に現われた嬉しさや怒りの心理 これら両方が わたしの内に入ろうとするでしょうが (b)は 表面にとどまるはづですよ。心理の内でも よろこびの源泉(核)なら わたしも 共有するでしょうが。
★ (No.4お礼欄) 私はイマイチな薄暗がりから闇の中で、握りしめた物の正当性を確かめる為に進んでいる、かな。
☆ 世界一きざな言葉で 締めくくりましょう。わたしは もう――と言っても とうぜん 依然として その理性は 薄暮の薄暗がりですが つまり 人間はみな そうだと考えていますが―― 《闇》は おかげさまで 卒業しました。みなさん すみません。あとの者が先になり 先の者があとになる。
(8) 最後に はじめに帰って
★ (No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
人は誰かの考えを辿って行く時、「自分」は何処に置いているのでしょうか。
私は「自分と同じと感じる所」から入り込んでいるように思います。
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☆ 何の問題もないと考えますが 別様の方法があるかと言えば たぶん 澄ました野郎の答弁としては――つまり それは わたしbragelone ではないという意味ですが―― こちらは ここに坐っていて あちらから・相手のほうから やって来ると言うでしょうね。まぁ 言わせておく必要はあるでしょうね。そのように 時には わたしたちも 振る舞っていないわけではないようです。
お礼
k_jinen様、回答ありがとうございます。 返信が遅れまして申し訳ありません!! 長くなってしまいまして、補足欄に書き込みました。 よろしくお願いします! 読み違い/考え違い等ありましたら、ご指摘頂けますでしょうか。。。
補足
k_jinen様、回答ありがとうございます。 返信が遅れまして申し訳ありません!! なかなかに論点/気付きが豊富で、あまり整理整頓が上手とは言えない私の頭は様々な情報が飛び交ってしまい、さっぱり収拾がつかずに困っております。大汗 k_jinen様が上げてくださった、 >私 =眺めている主体 >(全宇宙というよりも、概念的にもっと広い)総体 =「全て」 そして、その「私と総体」は >知的に切断された面(以降、知的切断面) を「境界」とする、と言う判り易い筈の(!!汗)ご回答、とても有意義な回答を頂き感謝申し上げます。 ところで、何が「判り易い筈!!(=判り難い)」となってしまっているかと言うと、この三者を私が以前行った「実験」で得た感覚に当てはめる場合、どれがどれに対応するのだろうか?と考えているからなのです。 (決して、k_jinen様の回答に不足を申し立てているのでは有りません、足りないのは私の思考力ですので、誤解なさらぬようお願いします。) 私が実験で得たもの、は、 (同一の事象に対する思い/心/考えとして) 1)(私の中に)複数の同列同等の人間の存在 2)(彼らを観察/選別/表出する)主体 なのですが、 これは「同一の事象に対して反応」と言う条件でしたので、k_jinen様のおっしゃる >空間的にも時間的にも切断され と言う言葉に対応するのではないか?と考えたのです。 私の「実験」は主に自分を知る為のものであり、かなり狭く独善的に行いましたので、 >ありとあらゆる「全て」 と言う感覚とは程遠いものでした。しかし、今になって思い返すと、 *1)は >「知的切断面」と同じものではなかろうか? *2)は >私(=眺めている主体)と同じものではなかろうか? と頂いた回答を拝読して考えているのです。 >(全宇宙というよりも、概念的にもっと広い)総体 =「全て」 に思考が及ばなかったのは「何か確固たるもの」を欲しがる未熟な若さ故の視野の狭さであり、臆病さであったと考えています。 その「確固たるもの」を、時間的空間的に限定し切り離した「私」と言う「全て/総体」の一部分にも満たない「断面(知的切断面)」に求めて、何の価値があると考えていたのだろう。。。とちょっと苦笑いです。 やっぱり中学生は中学生なのですね。。。思考範囲が狭過ぎる程狭い。 自分の周りを取り巻く世界とその広さに、遅まきながらですが気付けた事がとても嬉しいです。 そして、その発見を導き出してくださったk_jinen様のご回答に、心から感謝申し上げます。 ありがとうございました!!