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思索する時。。。空っぽの私

いつもお世話になっております。 少し病的な範囲の質問かも知れませんが、お気軽に回答下さると嬉しいです。 「思索」等と言うと高尚な感じで恥ずかしいのですが。。。 *思索する時、皆様は「どんな感覚」でしょうか? (私は只ひたすらに「自分の心に潜って行く」感覚です) 思索する時「前提を疑って掛かる(=白紙撤回の限界に挑戦?)」と思うのですが、 (そうではない場合がありましたら、ご教授下さい) *自己の内部(?)に反発/拒絶を感じる事はありますか? (私は磁石が反発し合うような感触で「近付く事も許されない」と言った感覚を感じる事があります) 曖昧な表現になりますが「自己認識の感覚」は、 *枠でしょうか? *核でしょうか? (私は「枠」と感じます。あまり自分の内部に「中身」を感じません。 言わば「空っぽの容器」の感覚です。以前(二十歳前迄)はとにかく「中身を見つける(無い気がしていたから)」事に必死だったように思います。ひと事件ありまして「今は内容量を増やす受容の時期」かも知れない、と考えてからは「容器の感覚」が強いです。自己暗示の成果でしょうか。汗) 単に表現に固執しているだけかも知れませんし、 個々人の感覚/言語化の違いもあるかも知れませんが、 出来ればこんな感覚に「実感」がある方にお答え頂けたら、と思います。 よろしくお願い致します!

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回答No.14

「自己認識の感覚」を、核とか枠とか言った概念で捉えようとしておられるのは、興味深いことです。とくに「枠」といった概念ですが、私は「境界」といった言葉をもちいています。別の所に投稿したものを一部改変して下記に書いておきます。ご参考になれば幸いです。 === 「この私のこの心」が、「今・ここにいる」私によって考えられるとき、「今・ここにいる」私を離れて「この私のこの心」は存在し得ない。「心」の定義がどうであれ、「今・ここにいる」私が思い・考えるということを離れては存在し得ない。 それがいつ始まり、いつ終わるのか、どこから来て、どこに行くのかということは「今・ここにいる」私を離れることができない故に、想像の域を出ることができない。 そうして、「この私のこの心」が、生命活動を行っている実体としての私(特に脳)と密接な関連を持っていることと離れては存在し得ない。私とは、そのようなものである。   観念論的に「この私のこの私のこの...心」を自己言及という点にまで相対的に極限化することは比較的難しくはない。 一方、「この私のこの」心に境界を設定することは不可能であることも事実である。すなわち、「全宇宙」に「この私」が広がっているという概念すら否定されえない。 「この私のこの」心は、周囲の環境と密接な関係を保っており、「切り離す」ことは不可能なのである。それでいて個々に存在している。 すなわち、「この」わたしを突き詰めようとするときに、私と(全宇宙というよりも、概念的にもっと広い)総体との境界問題が発生するといってもいい。 では、「この」わたしとして「認識」している「もの」は一体何なのであろうか。。。? 私が私を私として認識するとき、時間の流れと記憶との問題が取りざたされうる。すなわち、「自己同一性」である。 「この」わたしが、それを考えているこの一瞬にあると思ってしまうのは、まさに総体から私を切り離しうるという知的に切断された面(以降、知的切断面)そのものであり、切り出された断面に張り付いた私を眺めているに過ぎない。 では、眺めているのは誰か? それこそが「総体から切り離し不可能な私」であろう。。。 すなわち、逆説的に言えば、「総体」とは、空間的にも時間的にも切断されうるものであるがゆえ、時空間を含み、相互関連しうる、ありとあらゆる「全て」である。 なおかつ、眺めている主体は、知的切断面(境界)にて周囲から区分可能な存在でもあるわけである。 ===

noname#122427
質問者

お礼

k_jinen様、回答ありがとうございます。 返信が遅れまして申し訳ありません!! 長くなってしまいまして、補足欄に書き込みました。 よろしくお願いします! 読み違い/考え違い等ありましたら、ご指摘頂けますでしょうか。。。

noname#122427
質問者

補足

k_jinen様、回答ありがとうございます。 返信が遅れまして申し訳ありません!! なかなかに論点/気付きが豊富で、あまり整理整頓が上手とは言えない私の頭は様々な情報が飛び交ってしまい、さっぱり収拾がつかずに困っております。大汗 k_jinen様が上げてくださった、 >私   =眺めている主体 >(全宇宙というよりも、概念的にもっと広い)総体    =「全て」 そして、その「私と総体」は >知的に切断された面(以降、知的切断面) を「境界」とする、と言う判り易い筈の(!!汗)ご回答、とても有意義な回答を頂き感謝申し上げます。 ところで、何が「判り易い筈!!(=判り難い)」となってしまっているかと言うと、この三者を私が以前行った「実験」で得た感覚に当てはめる場合、どれがどれに対応するのだろうか?と考えているからなのです。 (決して、k_jinen様の回答に不足を申し立てているのでは有りません、足りないのは私の思考力ですので、誤解なさらぬようお願いします。) 私が実験で得たもの、は、 (同一の事象に対する思い/心/考えとして) 1)(私の中に)複数の同列同等の人間の存在 2)(彼らを観察/選別/表出する)主体 なのですが、 これは「同一の事象に対して反応」と言う条件でしたので、k_jinen様のおっしゃる >空間的にも時間的にも切断され と言う言葉に対応するのではないか?と考えたのです。 私の「実験」は主に自分を知る為のものであり、かなり狭く独善的に行いましたので、 >ありとあらゆる「全て」 と言う感覚とは程遠いものでした。しかし、今になって思い返すと、 *1)は >「知的切断面」と同じものではなかろうか? *2)は >私(=眺めている主体)と同じものではなかろうか? と頂いた回答を拝読して考えているのです。 >(全宇宙というよりも、概念的にもっと広い)総体    =「全て」 に思考が及ばなかったのは「何か確固たるもの」を欲しがる未熟な若さ故の視野の狭さであり、臆病さであったと考えています。 その「確固たるもの」を、時間的空間的に限定し切り離した「私」と言う「全て/総体」の一部分にも満たない「断面(知的切断面)」に求めて、何の価値があると考えていたのだろう。。。とちょっと苦笑いです。 やっぱり中学生は中学生なのですね。。。思考範囲が狭過ぎる程狭い。 自分の周りを取り巻く世界とその広さに、遅まきながらですが気付けた事がとても嬉しいです。 そして、その発見を導き出してくださったk_jinen様のご回答に、心から感謝申し上げます。 ありがとうございました!!

その他の回答 (22)

noname#84922
noname#84922
回答No.2

思索というと笑われそうですが、似たような思いがありました。 これ以上考えたら、きっと自分が壊れてしまうような一線があるんです。私はそこで引き返しました。 もう充分だと感じました。 「自己認識の感覚」は、私も枠だと思います。 良き妻良き母(でもないが。。)を演じているだけなのかも知れません。

noname#122427
質問者

お礼

回答ありがとうございます! >私はそこで引き返しました。 >もう充分だと感じました。 私は頃合いを見て、息を整え、じりじりと進みます。 一度で済まそうとせず、何度でも出直します。 入り口を変え、鍵を変え、道を変え、手を尽くしてでも「その中」を知りたいと思ってしまいます。 >「自己認識の感覚」は、私も枠だと思います。 女性の方?でいらっしゃいますでしょうか? いえ、もしかしたら「自己認識」と言うか「自我の形」には「性差」が無いだろうか?と考えたのもあります。 漠然とした考えですので上手くまだ説明出来なくてこんな質問になってしまいました。 ありがとうございました。^^

noname#89274
noname#89274
回答No.1

心は呼応する 与えよ さあれば与えられん 求めよ さあれば。。。 濁った井戸からは濁った水が 自ら掘ることをしなければ死んだ言葉が 溢れ過ぎる水は両手でもすくいきれない

noname#122427
質問者

お礼

目に止めて頂き、ありがとうございます! どうにも「主語は?」「目的語は?」と言葉の外側が気になってしまうのですが。。。。汗 でも、 「言葉は心のホンのひとかけら」と言うものの、 目に見え、耳に聞こえる「言葉」の見えない部分、聴こえない部分から感じるものって、一体何なのでしょうね。。。。 頂いた文章からは、とても厳しいながらも暖かい色の空が見えます。 さて「具体的に何を言わんとしているか?」となると、雲を掴むようです。 私は雑念が多過ぎるのでしょうか。。。。がくん。。。汗 ありがとうございました。

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