製塩 若狭と瀬戸内海
網野善彦著「海と列島の日本史」を読んでいます。
その中の製塩についての記述についての質問です。
(1)若狭について
「若狭は律令の時代には「調」として塩を貢納する国と定められていました。
・・・・・
若狭はこの時点では『律令国家の中で塩を調として貢納する、都に最も近い国』という規定が与えられていたと言えるでしょう。」(p73)
(2)瀬戸内海について
「しかし平安時代以降になると都(京都)に貢納される塩の大半が瀬戸内海で生産されたものになり、若狭の塩の占める割合は低くなってきます。」(p77)
飛鳥に都のあったときには若狭の製塩が主であり、京都に都があった時には瀬戸内海が主であるという事になった理由はどういうものなんでしょう。
瀬戸内海はなぜ遅れたのでしょうか。または、若狭はなぜそれだけ早く製塩業が進んだのでしょうか。
地理的な位置関係だけではないようです。京都に都が移れば若狭からは近くなっています。近くなったにもかかわらず遠いほうからの貢納が主になっています。
小浜-(陸路)-今津-(水路)-大津-(陸路)-京都と進むと60~70km程です。
播州-(海路)-摂津-(淀川)-京都 と進めば120~130kmほどです。(大阪湾からであればもっと近いですが。)
製塩技術の違いがあるのでしょうか。
瀬戸内海は律令国家の勢力圏外だったのでしょうか。
飛鳥、奈良の時代に若狭の方が瀬戸内海よりも都との結びつきが強かったと言う理由はどういうものなんでしょうか。
東大寺の2月堂のお水取りも若狭の遠敷と繋がりがあることは有名ですので奈良と若狭の特別な結びつきがあるようです。
お礼
なるほど、人力で漕いでいたのですね。「充分」とはいえ、かなりの重労働だったでしょうね。 昔の人はすごいです。 ご回答ありがとうございました。