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戦国時代の結婚式について

当時の結婚式は3日がかりだったと聞きますが 1日目の身内での飲み会は ・両家の親族が出席 ・婿方の親族のみ出席 どちらだったんでしょう?

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>戦国時代の結婚式について う~ん、一言では言い表せない。 幾つかに区切って話てみましょう。 大名同士の場合: (1)戦国時代は、あなたもご存知かとは思いますが、ほとんどの場合「同盟関係」か「人質」でした。 (2)結婚式の前夜、まず、新婦側では「おいとま請(ご)いの式」と呼ばれるものが行われます。 これは、家長を上座に据えて、新婦と対面しながら、「かわらけ(素焼きの杯)」で、1~2度酒を酌み交わします。 この時は、新婦の家族、親戚、一門などが揃っての宴会となります。 (3)「出立の儀」。 翌日の早朝、新郎側より「お迎え役」が数名到着します。 しかし、新婦は中々姿を現しません。 これには、「当家ではこれほど大事にしているのだ」と、いう「もったいぶり」を見せるものです。 お迎え役も、新婦の城で用意された酒食をチビリチビリとやりながら、じっと待ちます。酒に強いからと言って、大々的な酒盛りは「厳禁」でした。 やがて、昼頃になって、やっと、 新婦側の家長から「お迎え役」にお呼びがかかり、「お迎え役」が家長の前に座すると、 「役目大儀、先様にはよしなにお伝え願いたい」 などと、声がかかり、はじめて新婦が姿を見せ、いよいよ出立です。 まず、「お迎え役」の隊長が先頭に立ち案内役をする・・・と、いっても、馬に乗って。 そして、「お迎え役」の武士、新婦側からの「送り役」の隊長、新婦の乗った籠(または、御簾・みす)、その周辺を送り役の武士が数人で警護。続いて、女房(侍女)たち。祝儀品や新婦の衣装、お気に入りなどを担ぐ小者、そして、しんがりは、再び、お迎え役側の武士2~3人。 しかし、大名の中でも大小、「同盟」か「人質」かによって、人数は大差がありました。 (4)こうして、行列は進み、新郎の城に着くと、その日は、「ご休息」と称して、新婦に与えられた部屋で新婦は一夜を過ごします。 (5)翌日より、新郎新婦を上座に据えての「結婚の儀」が執り行われます。 なお、現代では、新郎新婦を正面から見ると、新郎が向かって「左」。新婦が向かって「右」が多いようですが、昔は、新郎が向かって「右」、新婦が向かって「左」に座りました。 これは、左大臣、右大臣などと宮中などでは、「左」が一つ格上であること、そして、武士は太刀を左に差していて、婚儀の最中といえども、もし、戦いになったら刀が素早く抜けるためでした。 (6)三々九度は、平安時代中期頃から行われたようですが、三々九度をするかしないかは、その大名家の「慣わし(習慣)」があり、行わない場合もありました。 しかし、「固めの儀」として、新郎と新婦が朱塗りの杯で微量の酒は酌み交わしました。 (7)さて、それからは、いよいよ「宴」に入りますが、新郎側の家族、親族、一門などだけで、新婦側からは、「送り役」の隊長だけが、一番下座に座り「見届け役」となりました。 (8)この宴会が終わって、初めて「お床入りの儀」として、その夜、夫婦の契りを結びました。 (9)3日目には、今度は「御披露目の儀」として、大広間に重臣たちを集め、新郎新婦が上座に座ります。筆頭家老などから、 「この度は、つつがなくご結婚の儀が執り行われた由、まことにお目出度く、これにて、当家の繁栄もますますもってゆるぎなく、まことに、執着至極に存知たてまつり候」 などとの祝いの言葉が代表して述べられます。 しかし、新婦も、そして、出席を許された重臣たちも、深々と腰を折っているため、実際には、新婦の顔が拝めない状態でした。 (10)こうして、4日目にして、はじめて自由になれる。 これが、あなたのおっしゃる「3日がかり」ではないかと思われます。 武士同士の場合: これもピンキリですが、中流階級を例に取りましょう。 (1)武士の場合は、大概が「許婚(いいなずけ)制度」でした。 (2)式の当日の早朝、「お迎え役」が新婦の家に入ります。 (3)やはり、ここでも、昼頃まで、出された酒食で刻限を待ちます。 (4)やっと、「出立の儀」となりますが、「お迎え役」が先頭に立ち、続いて、家格の違いにもよりますが、「送り役」の隊長、馬に片腰掛をした新婦。その周辺を数人の家臣たち、侍女はなく、祝儀品や衣類などを担いだ小者、そして、新婦側の親族。 (5)新婦の屋敷に着くと、一旦、休息。 (6)そして、広間などに用意された酒食の宴会へと続きます。夜を徹して行われることもめずらしくはなく、呑めば呑むほどに両家の結びつきは強くなる、と、考えられていました。2日位続くこともありました。 (7)その翌日には、今度は家中の者に対しての「御披露目の儀」と、小宴会。草履取りや庭番、勝手方の女たちにも勝手方(台所)で酒が振舞われました。 (8)なお、新婦の実家が遠国の場合は、新郎側の親戚を「仮親宅」として提供し、前日までに新婦は「仮親宅」に入って準備をしました。 庶民の場合: これもピンキリ。中流階級を例に取ります。 (1)「許婚」も多かったが、「自由恋愛」もまあまあ許された。 (2)地方などによっても違いはありますが、「足入れ婚」という制度?もありました。これは、昭和の初期頃まで続いた地方もありました。 まず、気に入った娘がいると、まず、男の家に寝泊りをさせて、もちろん、相手方にも了承を取った上で・・・。 そして、家族と一緒に家業をしたり、勝手仕事をしたりします。 約3ケ月から半年、長い時は1年余りも生活を共にして「相性」を確かめます。まあ、この間に子どもができたりする場合もありました。 そして、「やって行けそうだ」と、なると、いよいよ「婚儀」になります。 (3)「式」の数日前には娘は実家に帰され、準備を整えます。 (4)「式」の当日になると、仲人が新婦の家に朝早くに出向きます。 この時、「迎え女房」という若い未婚女性を連れていきます。これには、勝手方でも「喜んで迎えます」という意思表示の役目です。 (5)やはり、仲人も新婦の家で酒食の接待を受けて数刻待たされます。 これは、先にも述べたように、「我が家では、これほど大事にしているのだ」という意味合いです。 やっと、「出立」となると、仲人夫婦、迎え女房、新婦、小者、新婦側の家族や親族と続きます。 (6)新郎の家に着くと、まずは、両家のご対面。 玄関に近い広間で、両家が向き合い、自己紹介が行われます。 この時の自己紹介も面白い、例えば、 「我は、源氏の血をひき、5代目**左衛門が**の戦により勝利をした家系をひく、**太郎兵衛**と申す」 などと、自分の血筋の良いことを自慢する「自慢大会」なのです。 これらの自己紹介が長々と続く間に、新郎の家の手伝いに集まった近所の、特に、女連中は、新婦が持参した、衣装だとかを勝手に開いて、品定めに余念がない。これを「詰め開き(つめびらき)」と呼ぶ。 (7)その後、やや休息があり、この間に、大広間などに酒食の膳が並べられる。そして、三々九度の「固めの儀」。それが終わると、新郎側の長老が「松」の盆栽をうやうやしく掲げて入場。その後ろにも長老が続き、こちらは、「高砂」などの謡曲を謡う。これを「蓬莱盆の儀(ほうらいぼんのぎ)」と呼ぶ。そして、宴会へと続きます。また、宴会の当初は、新郎新婦が上座に座っていますが、やがては、新郎新婦がお酌する側にまわっての接待。 これも、夜を徹したり、2日間くらい続くこともザラでした。 (8)この「宴」の終わった翌日からは、近所の手伝いなどに混じって新婦も朱塗りの膳の片付けなどをし、まあ、平穏な暮らしに戻るのは、5~7日後位になることもありました。 あまり裕福でない庶民: これは、現代でもそうですが、いわゆる「同棲」で、事実婚でした。 ここに、述べたことは、地方によっても大きく違いますので、これが「本当だ」というものではありません。 あくまでも、一例を出したに過ぎませんので、その点を考慮してお読みください。

m_a_op
質問者

お礼

bungetsuさん詳細なご説明ありがとうございます! 大名同士の場合が特に参考になり面白く読ませて頂きました!! 2冊程書籍を読んだのですが固めの儀の手順(今みたいに回し飲みはしなかったらしいetc...)は詳しくのっていたのですが その他の部分は結構あっさりしていて困ってました。 こんなにきちんと教えて頂けるなんて感動しました……。 流石作家の方は博識ですね(>_<) 情景がありありと浮かんでくるようです。 ありがたく参考にさせて頂きます! 貴重なお時間と知識を割いて頂きありがとうございました!!

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回答No.2

こんにちは。 私のつたない解説をお読みいただきありがとうございます。 まず、「訂正」。 武士同士の項で、 (5)「新婦」の屋敷に着くと、一旦、休息。→「新郎」の屋敷・・・。でした。 (よもやま話) (1)花嫁の「白無垢」は、一種の「死に装束」。 つまり、一旦、この家を出たからには、死んでもこの家には戻りません。という意味合い。 (2)確かに、あなたの言われるように「婚礼の列」を取り上げた小説などは数少ないですね。 ただ、単に、信長とマムシの娘が結婚した。 と、だけ書かれるものが多いのは確かです。 私が「参考」にしたのは「儀礼典範」という本ですが、私の本棚のどこかにしまい忘れていて、その本が見つかりませんので、著者は不明です。読んだ記憶に基づいて書きました。(その内、出てくるかも知れません)。 (3)大名の項(3)で、しんがりを「お迎え役側」・・・これは、戦いにおいても「しんがり」は、本隊を逃すための重要な役目。この慣わしが、婚礼の列でも、もし、襲われたら、新郎側が盾となって、新婦たちの本隊を逃がすために、行われたものです。 (4)乗馬の乗り降りは、戦国時代の多くは、馬の「右」から乗り降りするのが一般的でした。 これも、「左」から乗り降りすると、刀が邪魔になったからです。 しかし、当然、戦国時代といえども「左効き」もいましたから「左」から乗り降りする者もいました。 現代のTVなどでは、ほとんどが「左」ですね。時たま、「右」から乗り降りする者も見られますが・・・。 (5)大名家に新婦と一緒に連れていかれた「女房(侍女)」たちは、その新婦が死ぬまで、夫の城で、妻の身の回りの世話掛として過ごし、子どもができれば、子どもの養育を手伝い、一生涯実家に帰れない者もいました。 (6)「政略結婚」でも、仲睦まじい夫婦もいれば、形だけの夫婦もありました。男女の仲というものは、中々難しいものですね。

m_a_op
質問者

お礼

追記ありがとうございました。 絵的な資料が無くて、ならば文章から 想像で起こすしかないと思ったのですが 結構あっさり終了しちゃってて(T_T) 馬の乗る方向については知りませんでした。 全然意識せずドラマとか見てました。 左から乗り降りして役者さんは刀が邪魔じゃないんでしょうかね? 質問の回答としてはもちろん読み物として凄く面白かったです! ありがとうございました(^_^)

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