- 締切済み
なんというか・・。どうして自分は自分なのか
一人になったりすると余計なことを考えないので、ふとあることを考えてしまいます。 「どうして自分は自分なのか?」とそこから深く考えようとすると頭が痛くなり答えが出ません。 「自分は自分」容姿、性格、性別などのことではありません。言葉では、表せないこのもやもやが嫌なので質問してみました。感じ的には、FPSゲームみたいな感じですかね・・・。違うか?w 今も書きながらボーとしてると考えてしまいます。この変な感じは嫌いではないですけど、答えが出ない事に苛立ちみたいなものが沸いてきて落ち着きません 文がまとまらなくて意味不明ですけどよろしくお願いします。
- みんなの回答 (18)
- 専門家の回答
みんなの回答
- hosiboshi
- ベストアンサー率9% (15/158)
自分はなぜ居るのか? とも違いますか? 自分という存在が存在するということですね。 例えば、物なら、それがそこに配置してあるから、そこにあるのです。 それはなんらかの有益な使い道があり、またあまり使用されない場合もあります。 学問なども役に立つと認められて存在していると考えます。 虫、動物なら更に、命や心があります。 さて人間となると、それらを含み、更に高等複雑な益や、使用方法が考えられます。 愛や友情を生み出すことも出来れば、本を書いたり、歌も作れます。 それには他者という役割が必要になり、自分も、人にとって他者である場合があるため、他者の役に立つという事は、高等技術であるため、其の度合いにより、非常にありがたく受け止められ、認められたりもします。 自分という存在を考えることは、哲学的であり、高等な思考までたどりつける思考でもあり、自分を考えるというのは、内向的で、反省や、批評を伴い、苦痛である行為と酷似しています。 それらを除外して、自分は何故自分なのか、だけを布団の中で考えてみると 自分の場合は極論、自分は無であるという心境にもなり、 自分はどこまで言っても存在している、限りない有であるとも考えることができました。 また宇宙の中の一部なので、自分そのものが宇宙の一部であり、宇宙そのものと同質の存在ではないのかとも思えます。 歴史においても、係ることができる、1であるはずです。 これについては、心が大きく影響していて、スポーツをしている時などは、それをする役割があるので、それをこなすことに神経の大部分を使っているはずです。 自分は何故自分なのか。 これを考えるのは自分について大きく神経を使っています。 仏教では個と全は同じであるという考え方もあります。 さて自分は何故自分なのか。 これは感じることが出来る存在が居る、それが自分であるということです。 感じるということが自分ということの全てであり(これは狭い視点にもなりますが。もっと複雑な他者を含んだ視点もありえますが、この質問のばあいはこの視点だと思います)、自分の存在を感じているから、また周りを感じることも出来る存在もまた、自分なのだと思いますよ。 自分のポジションに対しての思考ならごめんなさい。 それは他者から見て(天や神、人)、あなたに適役のポジションに、あなたがいるのだと思います。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
質問者さんが今まで経験して来たいろいろなことから、貴方の心の中に何が善くて何が悪いか、何が好きで何が嫌いかという感覚や物の見方が出来てきていますよね。そう言う物の見方の基準のことを「価値観」と言います。この世の中に存在してきた全ての人は皆、時代、生い立ち、貧富、親、家族、友人、恋人、住んでいる町、言葉等々の違った環境と出来事を経験してきたのですから、この世に決しておなじ価値観を持っている人はいません。貴方の中に在るこの宇宙の中のこのたった一つの価値観の総体が「自分」なのです。この価値観の総体は完全ではないが、それなりの整合性や合理性を持っているようですね。多分その整合性は生物の進化の過程での自然淘汰によって手に入れたのだと思います。 もう一つ、他の側面から自分とは何かについて参考になることに触れてみます。私はある著名なインドの物理学者の方から、インドのヒンドゥー教の僧侶の講義を聴きに行かないかと誘われたことがあります。その講義の中心テーマは「自分の発見」でした。その僧侶に言わせると「自分を発見することが幸せになることだ」と言うことでした。私は彼の意見に全面的に賛成したわけでは在りませんが、なるほどそう言う見方も在るのかなと思いました。彼に言わせると、趣味や享楽に没頭しているときは自分を忘れている状態であり、そんな中に幸せは無いと言っていました。さて、彼はその講義の中で次のように言ったのです。しばらくいろいろな話をした後、「皆さん目をつぶって静かに瞑想して下さい」と言いました。30秒ほど経過したあと瞑想したまま彼は、「これから私は大変重要なことを言います」と静かに言いました。そしてまた5秒ほどの静寂です。皆まだ目をつぶっています。そして「皆さん、私が『これから重要なことを言います』といったとき、あなた方は耳を澄ませ『何を言うのだろう』と心を集中させましたね。そのときに意識された貴方自身が「自分」なのです」と言ったのです。これも「自分」とは何かを考える一つの切り口ですね。 ご参考までに。
- reki4649
- ベストアンサー率21% (116/539)
我思うゆえに我あり。デカルト 正確には 私が居るのか?と考えている所に「私」という思いがある。 「自分」とは思いそのものと他の事象を区別する言葉です。 他から入る情報は確実ではありません。 夢なら死んだ人や存在しない人とも話ができるし痛みの感覚すらあることがあります。 また、バーチャルリアルティが進歩し続ければ映画「マトリックス」の世界みたいに眠りながら現実世界を生活しているようになるでしょう。 でも、絶対確実に存在しているのがそういう世界を考えている「考えているところのもの」なのです。 今この字を読んで考えている「もの」があなたそのものなのです。 それを自我と呼んでも魂と呼んでもかまいませんがあなたはあなたの体があなたではなく あなたの考えがあなたそのものだと言う事に気づき始めているのじゃないでしょうか。 ぜひ池田晶子さんの「14歳からの哲学」を読んでみてください。 あなたの答えがあるかはわかりませんが一歩前に進める事は確かです。
お礼
回答ありがとうございます。 「14歳からの哲学」読んでみたいと思います。 ふと思ったんですけど、他人がいるから自分がいるわけで無意識のうちに自分は自分と思っているわけで、他人というものが存在しない場合また何も無い無のところに自分というものがあった場合は、それは自分なのでしょうか?他人がいるから自分がいるという極論もあるわけなのでなにもない広くて白くて閉鎖された空間に閉じ込めらたら他人が存在しなくなるわけで自分が自分であると証明できなくなりどうかなってしまうんでしょうかね?wちとアホですかねwwww
今朝のBS《日めくり万葉集》に 次のうたが紹介されていました。 うらさぶる 心さまねし ひさかたの 天のしぐれの 流れあふ見れば 長田王 (巻1・82) http://www.nhk.or.jp/manyoushuu/housou/index.html * さ は接頭語で まねし は《遍在するかのように満ちる》だそうです。 * さぶる は さびの意として 中西進によると 《裸になる》ことだとか。 天空に――さびしくもあるのですが その孤独にあって―― わが心が ひろがっているというのだそうな。 その作者も ★ 「どうして自分は自分なのか?」 ☆ と考えたのでしょうね。考えあぐねたか。考え尽し 考え切ったか。 答えにならなくて ごめんなさい。
お礼
回答ありがとうございます。 リンク先拝見しました。やっぱりこう考えるのは自分だけじゃないんですね~やはり自分が自分であることは当たり前であり、ゆえに考えても答えがでない、なぜなら自分が自分だから。 少し強引ですけど極論でいうとこんなかんじでしょうか? 自分は、ここに質問して答えを求めようとしているわけではありませんのでお気になさらず^-^ 今の自分の知識ではうまく言語化できないのでここで質問することによりさまざまな方の意見を聞き入れて参考にして考える材料にしているだけですのでw まだ答えがはっきり出たわけではありません 空いた時間にでも深く考え楽しむことにします。
- matsuboku
- ベストアンサー率28% (16/57)
コギトエルゴスム・・・
お礼
回答ありがとうございます。 コギトエリゴスム・・・調べてみました。 cogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito - 私は思う、ergo - それ故に、sum - 私は在る)・・・何が存在するか、何が存在しないか、わからなくなってきて、すべてを疑い始めたとき、疑っている自分は確実に存在する。 という意味らしいのですが、要するに今自分が「自分はどうして自分なのか」と考えている時点で自分であることが証明されたということなんでしょうか? 自分の存在があやふやになり、自分が自分と思えなくなり、自分はどうして自分なのか?と考え始めて自分であることが証明される・・・・これは、逆に言うと自分が自分であることが証明できないまたは答えが出ない場合は・・・・。怖いですねw
- AmatsuMina
- ベストアンサー率32% (122/373)
だって、ココに実際に存在しているのが自分だから、じゃダメですか? 「自分は自分であり、他人とは違う存在」なのではなくて、 「自分は他人と違うと思わないと自分が自分ではなく他人と同じになってしまう」こと、つまり自分の消滅に恐怖を覚えるのです。 だから質問者様は無意識のうちに問題をすりかえて、「自分=自分」という前提を作っていませんか? 自分とは今ココにいる自分の存在そのものであり、ほかの誰かの存在は関係ないんです。存在するからココに自分が証明されるんです。
お礼
回答ありがとうございます。 AmatsuMinaさんの言うとおりです。たしかに無意識のうちにそう考えているのかもしれません たしかに「自分とは今ココにいる自分の存在そのものであり、ほかの誰かの存在は関係ないんです。存在するからココに自分が証明されるんです」こういう考えたかもできるってすごいですよねぇ ですけど、自分の頭で考えると「?」ってかんじで確かにそうなのかもしれませんけどしっくりこないというか、やっぱり一人ひとりに答えがあると自分はそう思いたくもなってきました。 矛盾していますけど自分の答えが出るときが待ち遠しくも思えてそれはそれで楽しくかんじてきました。 こやっていろんな人の考えかたを見たり聞いたりするのは、とても刺激的でいいと思えるのでまたの機会がありましたらよろしくお願いします・
どうして自分なのか?は分かりませんが・・ 自分を詰める・自分を見つめる・自分を探すための取っ掛かりはあるでしょう。 それには、自分とはとか、人とかを辞書で調べる事でしょう。 まあ、簡単に答えが出るのか、出ないのか・・ 簡単にでるなら、その程度なのでしょうし・・ 簡単でないのなら、探検のし甲斐もあると言うものでしょう。
お礼
回答ありがとうございます^-^ 自分はまだ高校生なんですけどやっぱりそんなことを考えたりする時期なんでしょうか? 実はこの「自分はどうして自分なのか」ということを考え始めたのは小学校入ったころぐらいからなんです汗 昔は言葉足らずでただ言葉にできないだけと思っていましたが高校生になっても未だに答えが出なくて もしかしたら人はそんなことを考える必要はないと諭されているみたいで腹がたって考えまくっているんですけど毎回痛くなって終了・・・。 確かにこんなことを考えなくても「自分は自分」というのは当たり前なんですけどね たまに思うんですよね・・世界が自分のもの見たいな感じに・・何でもできそうで何もできないこの無力感というかなんというか だけど頭を切り替えたら「世界が自分のもの?ふっ馬鹿じゃないのか?」と自問自答w 簡単に答えが出る人もいるのかもしれません、この世からいなくなる間には、答えを見つけたいものですw
- aper50
- ベストアンサー率29% (105/361)
難しいですね・・・(汗) 貴方が貴方なのは人生の中で色んな方との「縁」があっての事で、 周りの方も貴方との「縁」があって成り立っている部分があるのではないでしょうか? なんか私も頭が痛くなってきました・・・(笑)
お礼
回答ありがとうございます^-^ 確かにaper50さんの言うとおりなんですけどね・・・・。なんというかもっと深いといいますか・・・。 たしかに何億という確率から自分というものが生まれてきたわけですけど、確かにそれも縁かもしれませんね 少し調べていたんですけど今自分が考えていることに最も近い言葉がありましたので載せておきます。 「自分がほかの誰かではなくて自分である理由」・・・・人によって捉え方は違いますが・・・。
- 1
- 2
お礼
回答ありがとうございます。 7件ほどの回答を読んだ今確かに自分が自分であることが嫌ってほどわかるようになったような気がします。 なんというか僕はそんなことじゃなくてといいますか、え~とですね「今こうして画面を見てキーボードを叩いて文字を打っているのがなぜ自分なのか」といいますかwあぁwむずかしい~頭ではもう少し考えられるんですけど言葉にはうまくできません><