- ベストアンサー
自分を好きになるということ
自分を好きになることについていろいろと考えました。自分を好きになろうと思い、自分の性格の嫌いな部分を好きになろうと努力しましたがダメでした。嫌いな部分をどんなに頑張って好きになろうと思っても無理でした。所詮、コンプレックスはコンプレックスでした。嫌いな部分は嫌いな部分として自覚するしかないのかなあと思いました。そして、置いておく。 自分を好きになるということは、嫌いな部分はあるけど、全体的には自分を肯定していることなのかなと思いました。嫌いな部分もあると認識しているがそこばかりに目を向けず、自分の良い面に目を向け、その自分の良さを好きになっていくことかなと思いました。 今の自分の価値観で、自分のことを好きになるというのはこんな感じなのですが、皆さんはどう考えておられますか? 自分を好きになるということについて教えてください。
- みんなの回答 (9)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
自分の嫌いな部分をスキになる、すごく難しいことですよね。 私は、あなたが自分のどんな部分が嫌いなのか解らないので曖昧なことしか言えないんですが、私はスキって言う感情は「なる」んじゃなく、「なってた」とかそういうものかなって思ってます。 私は自分のことがスキって堂々と言えるワケじゃないんですが、なんか「なる」って言ったら、強制的とか「なろうとしてる」ってイメージが強いんです。 だけど、「なってた」っていうのは自分のこと以外のも共通することが出来ると思ってるんです。例えば、スキな人がいます。スキになるっていうことは、「スキになりたい」っていう想いでその感情が出来たわけじゃないと思います。個人差はあるとして。 本当に好きな人なら、いつのまにか「好きだな」と感じちゃうんだと思います。 上記のものと一緒かな、って思います。 自分のこういうところがスキだと思える、ってことでしょうか? キライな部分はスキになる必要は無いと思います。ただ認めればそれでよいと思うし、キライな部分伸ばさず、そのままの長さで保っておくことが大切かなって思います。 質問とハズれたかも、なんですがお役に立てれば嬉しいです。
その他の回答 (8)
内省的なひとは、自分を客観的にクールにみる傾向があり、どうしてもウツ的になりがち。客観的なのは、健全に生きていくためには大して価値のあるものでもなく、それよりも自分に下駄を履かせて、等身大の自分より大きめの自分にして、生きるほうが元気に生きられる。というような意味のことが、<すがの たいぞう>というカウンセラーの書いた<こころがホッとする考え方>に書かれていました。うぬぼれにも効用があると解釈していいのでしょうか。うぬぼれを、かげろうのようなものと捉えれば、「根拠なしに好きになる」というのも、かげろうのようなもので、「そーれーでえ、いいのだ」という歌声が聞こえてくる気がします。 (arikitariladyさん。お気を悪くなさらないでください。異を唱えるようなかたちなので、躊躇したのですが、客観的ということについてのべつの見方を提示して、それですこしでも her she さんのお役に立てれば何よりと判断した結果です。おっしゃっていることは、私個人の問題には、おおいに参考になりました。お礼を申し上げます)
お礼
回答ありがとうございます。内省的とは内向的なという意味ですね。そうでうすね。内向的な人はうつっぽくなり気味ですね。私自身とても内気で、うつうつとした日々になってしまったと思います。 >それよりも自分に下駄を履かせて、等身大の自分より大きめの自分にして、生きるほうが元気に生きられる これすごく同意できます。何か自分に自信を持たせるような。何か根拠は無いけど、自分はすごいっていいきかせるような。 >「根拠なしに好きになる」というのも、かげろうのようなもので、「そーれーでえ、いいのだ」という歌声が聞こえてくる気がします。 これもすごく同意できます。昔はそんな自分でした。そして、そういう自分が大好きでした。 きっと昔のような自分に戻れたら、うつな日々も終わるんだろうなと思います。 何か健康だったころを思い出すようです。参考になりました。
- arikitarilady
- ベストアンサー率62% (34/54)
ANo.5です。追加のご質問にお答えします。 >私としては、自分を全体的に肯定し、いいなぁと思うことで自尊感情を高めることができ、そして >自分を受け入れられると思います。回答者様の解釈では自分のことをいいなぁと思う必要は無いと >いうことでしょうか? 必要ないという事はありません。 ただ、その感情に囚われてしまうのは、「自分を嫌いだ」と思う事に囚われるのと同じ事です。 人間は、生物として生まれた以上、自己を大切にします。一般の動物では自己防衛の本能としてもって います。自己愛、自尊心といっていいと思います。 人間も本能としての部分もありますが、同時に人間は知性があるので、自分を愛する事の理由を求めます。 それが見つからない時、自己愛や自尊心の根拠のない事に不安を感じてしまいます。 そういう時、多くの人間は「他人」の承認や賞賛を求め、それによって自己愛や自尊心の裏付けをとろう とします。自己愛や自尊心に拘りがあるからです。 わたしの回答では、もう一人の自分は客観的な観察者であって、承認者でもなく支持者でもありません。 ですから、もう一人の自分から、自己愛や自尊心の根拠は得られません。 ただ、自己を客観的に見てくれる「もう一人の自分」がいて、 自分自身:「わたしは、自分のここが嫌い!」 もう一人の自分:「そうなの、あなたはそこが嫌なんだね。ちゃんと知ってるよ。」 自分自身:「わたしは、自分の事を好きになりたいの」 もう一人の自分:「そうなの、自分の事が好きになりたいんだね。ちゃんと知ってるよ。」 といった心の中の会話を実行すると、なにかに囚われてしまっている心が明確になってきて一歩距離が おけるようになります。客観視というのはそういう事です。 >自分を受け入れるということについてはこれと同意見なんですが、さらに自分をいいなぁという >肯定的な感情を持つことって必要だと思いませんか? >そうじゃないと元気が出ないんです。何か自分に対し、不確かさや頼りなさを感じてしまいます。 客観視がより完全になる、もう一人の自分がちゃんと成長してくれると、様々なネガティブな感情に 囚われないようになります。それだけ自分自身がしっかりしてきます。 そして、いつも自分自身の側に「もう一人の自分」がいる事で、不安感はなくなり安心できると 思います。 その時には、そうなった自分を、違和感なく自然と好きになれ、肯定的に捉えられると思います。 禅問答みたいになってしまいますが、「自分を好きになりたい」と思っている内は、その心に囚われて いる事です。その気持ちに囚われなくなった時には「自分を好きになっている」と思います。 (なんだか、偶然、ANo.4さんの回答に似てきてしまいました。)
お礼
補足の欄を間違いました。失礼しました。再度回答ありがとうございます。 回答者様のご意見はとても難しいと思いました。何度も読んで、理解したいと思います。 私なりに解釈したのですが、好きという感情ばかりに囚われそうになると、反対の嫌いの感情も出てきてしまう。そんなような感覚だと思いました。好きになることを努力すると、反発心が働いてそれで本当に大丈夫かとか迷いが生じたり、嫌いな部分が出てきたりするような感覚ですね。そうならないためにも好きになるということに執着しすぎないということですね。 >もう一人の自分は客観的な観察者であって、承認者でもなく支持者でもありません。 ですから、もう一人の自分から、自己愛や自尊心の根拠は得られま… この辺の考え方がすごいと思いました。このアドバイスを読んで、上に書いてあるような対話を自分の中していました。たしかに効果があります。何か客観視できて落ち着く感じがします。 もう一人の自分が成長してくれると…というのはすごいですね。二重人格を連想しますが。 そういう自分がいると、本当の自分はどれだ?って思ってしましそうです。 でも、つまり客観視できる自分を成長させて、いつも自分の統合性を保つということですよね。 No.4さんと同じようになってきますね。囚われずに、好きになってたという自然な形で肯定するのがいいのかもしれないですね。
補足
よくわからないのですが、No.8さんとまったく同じ回答ですよね。何かのバグでしょうか。お礼はNo.8さんの欄に書こうと思います。
- tadare
- ベストアンサー率61% (53/86)
ANo.5です。追加のご質問にお答えします。 >私としては、自分を全体的に肯定し、いいなぁと思うことで自尊感情を高めることができ、そして >自分を受け入れられると思います。回答者様の解釈では自分のことをいいなぁと思う必要は無いと >いうことでしょうか? 必要ないという事はありません。 ただ、その感情に囚われてしまうのは、「自分を嫌いだ」と思う事に囚われるのと同じ事です。 人間は、生物として生まれた以上、自己を大切にします。一般の動物では自己防衛の本能としてもって います。自己愛、自尊心といっていいと思います。 人間も本能としての部分もありますが、同時に人間は知性があるので、自分を愛する事の理由を求めます。 それが見つからない時、自己愛や自尊心の根拠のない事に不安を感じてしまいます。 そういう時、多くの人間は「他人」の承認や賞賛を求め、それによって自己愛や自尊心の裏付けをとろう とします。自己愛や自尊心に拘りがあるからです。 わたしの回答では、もう一人の自分は客観的な観察者であって、承認者でもなく支持者でもありません。 ですから、もう一人の自分から、自己愛や自尊心の根拠は得られません。 ただ、自己を客観的に見てくれる「もう一人の自分」がいて、 自分自身:「わたしは、自分のここが嫌い!」 もう一人の自分:「そうなの、あなたはそこが嫌なんだね。ちゃんと知ってるよ。」 自分自身:「わたしは、自分の事を好きになりたいの」 もう一人の自分:「そうなの、自分の事が好きになりたいんだね。ちゃんと知ってるよ。」 といった心の中の会話を実行すると、なにかに囚われてしまっている心が明確になってきて一歩距離が おけるようになります。客観視というのはそういう事です。 >自分を受け入れるということについてはこれと同意見なんですが、さらに自分をいいなぁという >肯定的な感情を持つことって必要だと思いませんか? >そうじゃないと元気が出ないんです。何か自分に対し、不確かさや頼りなさを感じてしまいます。 客観視がより完全になる、もう一人の自分がちゃんと成長してくれると、様々なネガティブな感情に 囚われないようになります。それだけ自分自身がしっかりしてきます。 そして、いつも自分自身の側に「もう一人の自分」がいる事で、不安感はなくなり安心できると 思います。 その時には、そうなった自分を、違和感なく自然と好きになれ、肯定的に捉えられると思います。 禅問答みたいになってしまいますが、「自分を好きになりたい」と思っている内は、その心に囚われて いる事です。その気持ちに囚われなくなった時には「自分を好きになっている」と思います。 (なんだか、偶然、ANo.4さんの回答に似てきてしまいました。)
お礼
皆さんすいません。お礼のポイントをつけるときに、手元がくるって適当なつけ方になってしまいました。ちょっと焦ってパソコンを操作してしまいました。 全ての回答が参考になったので、今回全ての方にポイントを出したい気分でした。そういうことでお許しください。
補足
間違いました。補足を書こうとしたら、間違えてNo.8さんの補足欄に書いてしまいました。失礼しました。
- hamakkotarou
- ベストアンサー率24% (222/908)
回答へのお礼、ありがとうございます。 自分の中に嫌いな分が完全になくならないと、満足できないと思っていませんか。 嫌いな部分とは誰が感じたのでしょうか。 もちろん自分ですよね。 だからいくら嫌いな部分をなくしたところで、新しい嫌いな部分を作り出す自分がいるのですから、いつまでたっても堂堂巡りです。 だから自分とはそういうものなのだと認識することが大切だと思います。 嫌いな部分がある自分を好きになることには、何の問題はないのです。 問題があると自分が勝手に思っているだけ。 もっというならば、嫌いな部分について考えているから嫌いなのです。 嫌いな部分のことを一切考えなくなれば、あっという間に自分の中から嫌いな部分はなくなるのです。 無条件で自分を好きになるということは、今ここにいる自分を何も考えずに好きになること。 何かを体験したり感じたり出来るのは、自分が存在しているからです。 もちろん嫌なことを体験したり辛いことを感じたりすることもあるでしょう。 それでも、そんな自分を好きになることに問題はないと思います。 『こんな自分は嫌だ』ではなく『こんな自分でもいい』ですね。
お礼
ありがとうございます。嫌いな部分がある自分を好きになるのは問題ないんですね。 >嫌いな部分のことを一切考えなくなれば、あっという間に自分の中から嫌いな部分はなくなるのです。 これはよくわかります。嫌いな部分をずっと考えていると、すごくイヤな気分になります。一切考えなくなるというのは不可能ですが、可能な限り嫌いな部分を否定せずにそのまま置いておくという形にしたいと思います。 >無条件で自分を好きになるということは、今ここにいる自分を何も考えずに好きになること。 何かを体験したり感じたり出来るのは、自分が存在しているからです。 これもなんとなくわかります。少し哲学的な考え方ですが、自分が存在するからこそ様々なことを体験できる。そんな自分がすばらしいと思えることですかね。おっしゃることよくわかります。 こんな自分でもいいという感覚を忘れないようにしたいです。
- arikitarilady
- ベストアンサー率62% (34/54)
>自分を好きになるということについて教えてください。 なぜ、自分を好きにならなくてはいけないのですか? まず、その疑問から始めてみます。 自分を好きになるとなにか得られますか? 嫌いな部分もあると認識しているがそこばかりに目を向けず、自分の良い面に目を向け、その自分 の良さを好きになっていく事で得られるものはなんですか?心の安定? でも、それでは嫌いな部分を押し殺しているだけで、「これでいいんだ!」という気持ちの反面、 「これでいいの?」っていう気持ちがどこかに残っています。 その押し殺した嫌いな部分が、いつも心のどこかにひっかかっていて、時には暴れます。 だから、好き/嫌いの基準ではないんです。肯定/否定の基準でもないんです。 好きなところも、嫌いなところも全て自分の一部です。 なので、本当に自分を受け入れるというのは、この対立する要素をもった心を、そのままに良いとか 悪いとかの価値判断無しに認識してあげることです。 言い方を変えると、自分の良い部分も悪い部分もそのままにして、それらを、もうひとりの自分が 客観視、もしくは目をかけてあげることです。 今までは嫌な部分として否定的に嫌っていたものをそのままに受容してあげる事で、その嫌な部分 は抑うつされる事から開放され、ひねくれて暴走する事がなくなります。 そういう風にして、自分の色々な面を自分で制御していく事が必要です。 好きな部分を「いい子扱い」してはいけませんし、嫌いな部分を「悪い子あつかい」してもいけません。 みんな自分の一部です。同じ様に目をかけてあげる。そういう(もう一人の)自分をもつ事が大切です。
お礼
ありがとうございます。回答者様の言うことはよくわかります。自分を受け入れるために、良い悪いの価値判断なしに認識する。客観的な自分が自分を見て、それを認識することでずいぶん自己統制がとれました。 そうですね。たしかに悪い部分もそのままにして、もう一人の自分が客観的に目をかけることによって、嫌いな部分を受け入れることになると思います。その嫌いな部分が抑圧されることがなくなるので、感情的にひねくれたり暴走したりすることがなくなります。その辺の対処の仕方がわかったおかげで、感情が爆発しそうになることが少なくなりました。もう一人の自分が冷静に自分を見てるような感じです。 ずいぶん冷静になれた気がします。 ただそれだと、自分を好きになるというとこまで行かないんです。何か漠然と自分という人間が存在しているだけという気がします。自分の良さを感じないような気がします。好きな部分を「いい子扱い」してはいけないということですが、それだと自分を褒めることができずに、何か元気が出てこないんです。自分っていいなぁという肯定的な感情が芽生えないんです。それだと、何か生きてても楽しくないような気がします。自分の良さをいいなぁと思うことを大事だと思ってたのですが、回答者様はそういう解釈ではなく、単純に自分を客観的に見るということしょうか? 私としては、自分を全体的に肯定し、いいなぁと思うことで自尊感情を高めることができ、そして自分を受け入れられると思います。回答者様の解釈では自分のことをいいなぁと思う必要は無いということでしょうか? >言い方を変えると、自分の良い部分も悪い部分もそのままにして、それらを、もうひとりの自分が 客観視、もしくは目をかけてあげることです。 自分を受け入れるということについてはこれと同意見なんですが、さらに自分をいいなぁという肯定的な感情を持つことって必要だと思いませんか? そうじゃないと元気が出ないんです。何か自分に対し、不確かさや頼りなさを感じてしまいます。 この回答に対する私の解釈が間違っているのでしょうか? よろしければ、もうすこしアドバイスお願いします。
>全体的には自分を肯定していることなのかなと思いました。 おっしゃるとおりです。 「自分のことを好きになれ」なんて意味のない言葉です。 性格をねじ曲げろと言っているのと同じです。 自分は自分で良いではないのでしょうか。後は他人に迷惑をかけないように注意すれば、社会の健全な一員として大手を振って歩くべきだと思います。 一生懸命生きましょう。自分の思うとおりで良いのだと思います。
お礼
ありがとうございます。「自分を好きになれ」って意味の無い言葉ですか。たしかにそうかもしれないですね。なれって言うと、何か強制的な感じがします。無理矢理のような感じがして、抵抗しますね。強制するわけではなく、気がついたら自分ってまんざら悪くない、と思うことがいいのかもしれないですね。 自分は自分で良いというのは、本当にいつも自分に言い聞かせています。でも、コンプレックスを持っていると、こんな自分ではダメだってすぐになってしまうんですよね。自分は自分というのと、こんな自分ではというのが平行して心の中で揺れ動くんですよね。それにはやはり、自分を肯定する気持ちを強くすることが大事なのかもしれないと思いました。
- hamakkotarou
- ベストアンサー率24% (222/908)
自分を好きになるために必要なものは自分だけです。 何かがあるからとかないからとか、何かが出来るからとか出来ないからとか を考えることはやめましょう。 今ここに存在している自分を感じるだけでいいと思います。 楽しいことも辛いことも、ここにいるからこそ体験できるのです。 そんな自分を好きにならなくてどうするのでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 そうですね。何かがあるからとか、何かできるからではないですよね。条件無しで自分を好きになるというか。 ここに存在してる自分で十分充実するというか。 自分のここを見てではなくて、なんとなく自分であるだけでいいなぁと思えるような。 そういった感じでしょうか。 でも、条件無しで自分が好きって不思議ですね。何を見て自分を好きになってるんだろうと思います。明確な「コレ」というのがないが、自分が好きって何でしょうか?自分の長所とかっていうのは不要なんでしょうか? なんとなくわかるのですが、ここに存在してるだけでいいと感じるというのは何も根拠がないですよね。「自分を好き」というのに根拠が無いってどういうことなんでしょうか? ちょっと支離滅裂ですが、教えてください。
- lookfor
- ベストアンサー率25% (52/205)
こんにちわ。質問者さまは、大変、健全な精神をお持ちだと思いました。 そんなものです。欠点は欠点として置いておく。そして、長所を見て 伸ばしていく。それで良いのだと思います。 うつとかになると、自分の全てが嫌いになってしまいます。 100%自分が好きというのは、ないと思います。よっぽどのナルシストだと思いますよ。
お礼
回答ありがとうございます。回答者様も好きになるということをそういう解釈でされてるんですね。私は自分嫌いがたたって、重度のうつ病になってしまいました。そこからなんとか回復しようとして、最終的に自分を好きになるというとこに行き着きました。 >100%自分が好きというのは、ないと思います。よっぽどのナルシストだと思いますよ。 そうですよね。誰しも自分に嫌いな部分はありますよね。でも、自分の良さもある。それが人間の本来の姿なのかもしれないですね。
お礼
ありがとうございます。回答者様の「なる」というのではなく、「なってた」という言葉がすごく自分にしっくり来ました。「なる」っていうと、何か無理やりな感じがして、強制的になりますよね。だから、心の中でそれでいいのかっていう反発が生まれる。それよりももっとソフトに「なってた」というぐらいがいいのかもしれないです。 なんとなく根拠は無いけど、自分ていいなあと思えることって大事ですよね。そんなに悪くないじゃん、と思えると心がスーっと楽になります。 人に対しても同じですね。この人を好きになるというふうにしたら、何か違和感がありますね。それよりも気づいたら好きになってたという方がしっくりきます。 好き嫌いというのは、あまり理屈で考えずに感情(emotion)で考えた方がいいのかもしれないですね。 >キライな部分はスキになる必要は無いと思います。ただ認めればそれでよいと思うし、キライな部分伸ばさず、そのままの長さで保っておくことが大切かなって思います。 やはりそうですよね。嫌いな部分はそのままにしておく。そして、嫌いな部分ばかり見ないようにすることがいいかなと思いました。 自己イメージの中で80%が嫌いな部分だと生きるのが辛くなります。でも、自己イメージの中の嫌いな部分が20%くらいなら、うまく生きていけそうな気がします。 もう一つ聞きたいのですが、好きに「なってた」というのは根拠無しですよね。条件無しで好きに「なってた」ということですよね。自分の「コレ」を見て好きに「なる」というのではなく、なんとなく自分っていいなあと思えたことですよね。 根拠無しに自分を好きになるってどういうことだと思いますか?好きに「なってた」というのは、何をどう考えたらそうなるものでしょうか? 理屈ではなく、なんとなくでしょうか? 質問の意味が分かりにくかった申し訳ないのですが、よろしければ回答者様の考えを教えてください。
補足
すいません。お礼のところが誤字でした。 >質問の意味が分かりにくかった申し訳ないのですが 正しくは、質問の意味が分かりにくかったら申し訳ないのですが。でした。