• 締切済み

なんというか・・。どうして自分は自分なのか

一人になったりすると余計なことを考えないので、ふとあることを考えてしまいます。 「どうして自分は自分なのか?」とそこから深く考えようとすると頭が痛くなり答えが出ません。 「自分は自分」容姿、性格、性別などのことではありません。言葉では、表せないこのもやもやが嫌なので質問してみました。感じ的には、FPSゲームみたいな感じですかね・・・。違うか?w 今も書きながらボーとしてると考えてしまいます。この変な感じは嫌いではないですけど、答えが出ない事に苛立ちみたいなものが沸いてきて落ち着きません 文がまとまらなくて意味不明ですけどよろしくお願いします。

みんなの回答

noname#155689
noname#155689
回答No.18

私たちの身体を守るために さまざまな病原体病やがん細胞を認識して殺滅するシステムが 免疫系ですよね。 言い換えれば、免疫系とは 「自分(自己)」と「自分でないもの(非自己)」を分別して 非自己を追い出すシステムです。 自己(生体自身の健常細胞や組織)と非自己をうまく分別できないと 存在自体が危なくなるわけです。 要するに、生きるということ自体が ある意味、自己と非自己の物理的な分別から始まっている と考えてイイと思います。 > どうして自分は自分なのか それは「あなたという生体が誕生し生き続けている」からです。 なぜ?という「理由」の前に 生きているという「事実」が先にあるのだと思いませんか。 > 深く考えようとすると頭が痛くなり答えが出ません。 答がないのは、理由が後だからです。 要するに、答は「後付け」なんです。 > 言葉では、表せないこのもやもやが嫌 だけど、例えば なぜ免疫系は「自己」と「非自己」を分別するのか?を考えて 答が出るでしょうか? そうではなく、高度な免疫系を獲得できた生物が 結果として生きているのではないでしょうか? われわれは「自分」と「自分でないもの」を分別するシステムを持っています。 そういうプログラムなんです。 そういうプログラムを得たから今の形で生きることが出来ています。 自分が自分であるのは「原因」ではなく「結果」です。 この世には、理由があって存在するものもありますが 存在が先にあって、理由がないものもたくさんあります。 理由がないと不安になる人の多くは 例えば「神さま」に理由を求めて安心しようとします。 どうして自分は自分なのか?は誰でも一度は通る悩みだと思います。 そして「どうして自分なのか?」という悩みは 「どんな自分になるべきか?」「どう生きていくべきか?」という意思決めへと ステップアップしていく筈です。 http://okwave.jp/qa4291837.html

kentoman09
質問者

お礼

予想以上にたくさんの回答が・・・・。 全部にお礼を書いていこうと思いましたがとても大変なのでこの場を借りてみなさまにお礼申し上げます^-^ 一人ひとり思っていること、考えていることが違ってとてもためになりました。 哲学関連の書籍などあさってみたいと思います^-^

noname#161636
noname#161636
回答No.17

我思うゆえに我あり…この言葉の歴史的背景は方法的懐疑により「すべてを疑ってみよう」としたときに、それでも思考している私の存在そのものは疑い得ないではないか…したがって、この疑いようもない私の存在から世界現象を考察してみよう…という存在論の第一原理としての意義がありました。 さて、質問者さんの「どうして自分は自分なのか」という問題意識は、少しニュアンスが異なってくると思います。 >「自分がほかの誰かではなくて自分である理由」 この文章から私は、存在論ではなく宿命論とでも言いましょうか、…何故、私はこの21世紀初頭の現在に誕生し私という個性と属性を備えて存在することとなったのか…まるで肉体と精神(魂)とが別の次元の存在であり、精神(魂)が仮の宿主としての肉体をあたえられているがごとくのニュアンスを感じてしまいました(心身二元論のニュアンス)。 この命題(と仮にしましょう)からは、その反語として…「私はこの私でなくてもよかったのではないか」…というルサンチマンようなの響きすらも聞こえてきます。 存在論ではなく宿命論。宿命論に関する守備範囲は宗教になるのでしょうね。宗派によって神の意思、縁起、輪廻、魂の意思などのさまざまな超越的説明が示されていると思います。 この問題の答えのありかには、私たちがこの世界に生を受けて存在していることの目的とか意義とか意味とかという難問の答えも横たわっているのかもしれません。 如何せん、サイは投げられた状態から始まるのが多くの人の人生であり、物心がつくのはさらに後のこと。 生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く 死に死に死に死んで死の終わりに冥し  空海 質問者さんの言い方によく似た言葉を思い出しました。 「ああロミオ、何故にあなたはロミオなの。」ロミオとジュリエット 宿命の問題に似て恋愛のこの世ならぬ超越性、このような問題に対しては言葉による明晰な答えを求めるのはかなわぬことだと思います。 言葉を超えた問題だと思います。 ちょっと焦点がぼやけてしまいましたね。まあ、あせらずゆっくりいきましょうよ、お互いに。

  • reki4649
  • ベストアンサー率21% (116/539)
回答No.16

No6です。 >ふと思ったんですけど、他人がいるから自分がいるわけで無意識のうちに自分は自分と思っているわけで >他人というものが存在しない場合また何も無い無のところに自分というものがあった場合は、それは自分 >なのでしょうか?他人がいるから自分がいるという極論もあるわけなのでなにもない広くて白くて閉鎖され >た空間に閉じ込めらたら他人が存在しなくなるわけで自分が自分であると証明できなくなりどうかなってし >まうんでしょうかね?wちとアホですかねwwww いやいやいやいやいや・・・・アホどころか非常に鋭いですね。 正直びっくりしましたよ。 それは色即是空の「空」に近い考え方です。 「空」とは縁によって結ばれたあらゆる出来事や存在を言います。 それをなぜ「空」と呼ぶのか私にとって長年の謎でしたが あらゆる存在が一つになればまさにあなたの考えた 「他人が存在しない何もなくて広い空間にただあるもの」になりますよね。 あなたは私であり私はまた他の誰か、誰でもなくて何物でもないとしたら それは「空」としか呼びようがなかったのだと気が付きました。 そんな考えの入り口の近くにすっと来れたのですから是非もっと色んな本を読んで色々考えてみてください。 こういうことを考えるのはとても楽しいし面白いですよ。

回答No.15

数あるマルチ対戦ゲームの中から弊社のものをお選び頂き誠にありがとうございます。 さて、お問い合わせ頂きました件についてでございますが、このFPSゲームは、そういう風にプログラムされているため、その構造範囲で固定されており、視点の変更や人物の転換は出来ないようになっておりますのでご寛容賜りますようお願い申し上げます。このゲームの中で自分が自分であることもプログラムのなせる技でございますれば、HPゼロまで充分ご堪能頂ければ幸いです。

  • h1g2h1g2
  • ベストアンサー率10% (2/19)
回答No.14

あなたの自我が自分を自分だと思わせているんです。 観念です、ただあなたが存在しているだけなのに色々と考えてしまう。 赤ん坊は自分を自分だと思わない、観念がまだないからです。 観念をできるだけ捨て去れば解決していくんじゃないですかね。

noname#80116
noname#80116
回答No.13

 No.5です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  リンク先拝見しました。やっぱりこう考えるのは自分だけじゃないんですね~やはり自分が自分であることは当たり前であり、ゆえに考えても答えがでない、なぜなら自分が自分だから。  少し強引ですけど極論でいうとこんなかんじでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そのお考えで やがて ひとのことについても 考えることができるようになり 自分だけではなく それらの存在どうしの関係までをも 引き受けることができるようになるでしょう。  《引き受ける》というのが 鍵語だと思います。  《なぜ》は 《なぞ》のままでいいのではないでしょうか。そのほうが自由です。しかも 仮りに分かっても やはり自由であるでしょう。

noname#82286
noname#82286
回答No.12

ようはなぜ自分の細胞に自分の魂がのかっているのか?という話ですよね 他人の細胞と混合しているわけでもなくなぜか自分の細胞と自分の魂が混合しているので大いに不思議だという話ですよね なんででしょうね? こう考えてみてはどうでしょうか 魂は魂の次元で法則性がある、物質では物質の法則があるなので魂の法則と物質の法則のある種の現象 なぜAさんが今外にいるのにそれがBさんには認識できないのか? なぜBさんはBさんでなければならないのか? 神のお定めです。

回答No.11

 類似のご質問はこの“聞きたい”に参加してから何度か出会いまして、私も回答を書いたことがあります。  敗戦時小二、浅草生まれ・育ち。あの軍国の中。あわただしく、規律と規格が万事の中、虚弱な私は小学校上がる前に、同じ感懐を数度経験し、その後も、何かの折に、不図そういう思いに為りました。  自分がどうしてここにいるのかな?ここは何だろう?この手、この足って?不思議だな、という疑問や質問ではなく、思いになるのでした。  それで今、老人という時期になって、やはり思わないことはないのです。ただ自由にそんな思いにもなれるし、そのままの気持ちで日常も送れるのです。  たくさんのすばらしいご回答が寄せられました。中には私の考えたこともあり、難しいこともあります。でも私の思いや感じ、或いは感懐の不思議に対しての、正面からの扱いはされてはいないようでした。  私の理解の仕方が浅いのかも知れません。どうも違うことだな、とか皆さんご経験がないのだな。とか思いました。  私のこの不思議な思いについては、ずぅっと抱懐してきただけでした。  でも、50年くらい前、長時間の勉強のための心身調整を目的として、ハタ・ヨガというもの相当本格的にやりました。  これはストレッチ体操に似ては居ますが、私の予想に反して、本格的なものはもっと理論性があるものであり、意識の問題も扱います。  そういう者から更に、本格的なヒンドゥの思考の勉強をしようとして、進んだのか、横にいったのか知りませんが、ラージャのヨガに没入して、今日に到っております。偶々自分の性分にも、考えにも合致しまして、40年以上でしょうか。  私たちは意識、魂、自分というものの、理論とそして自分の、本来になるという理論と実際の呼吸の仕方、自分の持ち方を教えます。  ここでの結論を、今書いてしまっても、それは言葉にしかすぎませんから、書きませんが、私は幼児からの自分の思いを、今納得しております。  人は誰かにあなたはこうだよ、私もそんな経験があったがねぇ、などといわれると、いやそれとは違うのだが、と思うしいうものですから、私の思いがあなたと同じだとはいいません。ご参考までに書きました。  なおご参考にAtmanでみると、http://en.wikipedia.org/wiki/Atman_(Hinduism)というのも出てきます。魂(Soul)をSelfというのもありますので、それらで検索してもいいでしょう。  私の修行中の会のアドレスを書くと、削除に為りますから、ご自分でSelfとかを入れて検索してみてください。  Self-Realizationの仲間(Fellowship)というのも出てくると存じます。どうぞご参考になさってください。なお著書(講和集)の日本語訳も出ております。http://search.goo.ne.jp/web.jsp?MT=%BF%CD%B4%D6%A4%CE%B1%CA%B1%F3%A4%CE%C3%B5%B5%E1&from=dict&PT=dict&JP=0&CK=1  出版社としては、森北出版がよく扱っております。http://search.goo.ne.jp/web.jsp?JP=0&SGT=0&PT=dict&from=query&MT=%BF%B9%CB%CC%BD%D0%C8%C7&DC=10&web.x=28&web.y=13ご参考になるものもあるかもしれません。  日本にもたくさんの会員がおりますが、そして会合もありますが、事業とされたり、オリジナル性をゆがめられたりしないように、本部を通して、その哲学の範囲の交際しかしておりません。禁止です。

noname#194289
noname#194289
回答No.10

自分というものがあるとすれば自分でないものではないものとしてだろうと思います。これはほかの人という意味ではなく、もっと広い意味です。物質のレベルではどこまでが自分であるということが決められない(細胞を構成している物質は絶えず入れ替わっていますし、タンパク質は別にしてもナトリウムやカリウム、あるいは酸素や炭酸ガスだって自分の一部とも言えます)にもかかわらず、人間もまたこれらの物質と切り離して存在できるものではありません。物質の組合わされ方で人間の思考能力も規定されているはずですが、せいぜい自分というのは状態であってもののエベルで固定できるものではないと思います。これは{自分}に限らず多くの言葉が持っている限界だろうと思います。言い換えれば自分というのは言葉(単語)としてしか存在しないものだろうということです。もちろんそういうことを考える生物としての自分も存在しないという意味ではありません。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.9

#7です。 >他人というものが存在しない場合また何も無い無のところに自分というものがあった場合は、 私は物理学者ですが、物理学では物の本質を理解するために、その研究者から見てその現象を理解するのに余り本質的でないと考えられるものを現象のなから落として、なるべく単純で理想化した仮想的な状況を考えます。これを思考実験と言います。質問者さんの上の文章も思考実験の一つですね。ところが、どういう状況を仮想的に考えるかのセンスでその物理学者の能力が決まってしまいます。余りいろんなことを落とし過ぎると本質まで落としてしまい、その結果この宇宙とは何の関係もない世界の分析になってしまうからです。 何故そんな在りもしない無意味なことでも人間は考えることができるのかと言うと、人間の頭が想像できることは、現実のありのままの世界よりもっと広いからです。新幹線では全ての物の中で最も速いはずの「ひかり」よりももっと速く移動する「のぞみ」がありますね。このように我々の頭は現実では起こらないはずのことまで想像できてしまうのです。これが学問をやるにあたって危険なくせ者なのです。貴方の思考実験では、自分とは何かを考えるときにその危険な落とし穴にはまっているようです。頭の中でいろいろなことを想像して遊び回るのは構いませんが、そのことから現実の世界の中の「自分」を探り出すのに必要な本質まで捨ててしまって、その仮想的な世界の中の論理のゲームの整合性だけをいじくり回していると、貴方の問題の解答に対して余り意味の無いことで納得してしまうこともありえます。このような場合物理学者の間では、物理的センスの無い奴だ、と言われるようなことになってしまいます。 我々の世界は余りに複雑なので、どんなに無意味なことでもそれに一生恍惚としていられるようなことが無限に在ります。その中から、意味のある問いを見つけ出して、無意味な問題に関わらないと言うのも、その方の才能の一つなのです。でも、何が無意味で何が意味がある問いかと言うことは、しばしばその答えを出すまでは分からないことですので、科学も哲学も、芸術と同じような神懸かりが要求されるわけです。 蛇足:もちろん「自分とは何か」と言う質問を無意味な質問だと言っているでは在りません。上のような思考実験を無意味だと言っているのです。

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