• ベストアンサー

存在

 先ほど哲学の本を読んでいてよく分からない事があったので質問します。  世界中のいろいろな物って、あるから見えたりさわれたりするのかな?それとも見えたりさわれたりするからあるのかな?という問いです。  僕はもちろん、あるから見えたりさわれたりするのだと思っていました。でも登場人物はあるから見えたりさわれたりするんだってこと自体は、見えたりさわれたりするからこそ言える事なんじゃないかな?見えもさわれもしなかったらあるなんてわかるわけないからね。と言っています。  みなさんは、この事についてどう思われますか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.4

NO3のものです。 ちょっと付け足しです。 木星がある、とします。望遠鏡で見た人でもない限り直接見た人はいません。 天文学者でも、目の前に行ってみたわけでもありませんし。 目の前にあっても、その前のものが本当にあると証明するのは無理です。他の人に、「ほらここにあるでしょ?」と言って同意を求めるのが関の山です。 そんな見方をするなら、すべての存在は疑わしいです。 でも同時に、前に書いたように、ある、と認める契約を交わしたのですから、やはり存在します。 この2つはどうなっているのかというと、それはプラス思考とマイナス思考の関係のようなものです。 プラス思考では、すべてある。夢の中のものも、ドラゴンも天使も、何でもある、となりますし、逆にマイナス思考で疑えば、実際にすべてのものは不確かで本当にあるものなど無いことになります。 この2つは、相補的ーお互いに補い合う性質があります。 2つは足して、現実世界を作っています。(と考えてます) あるかないか、ではなく、全体の仕組み、認識のメカニズムが存在する、といえるんじゃないでしょうか? ベタな言い方をすれば、あると言えばある、ないといえばない、というので正解だと思います。

hikaru0705
質問者

補足

回答ありがとうございます sheep67の在る無いは、その人の考え方に影響されるというのは、いいえてみょうだと思いました。僕は唯物論者なので、物の存在は観察者の有無に関わらずあると思っていましたが、観察者の視点があって始めて成立する事なのですね。

その他の回答 (15)

noname#161636
noname#161636
回答No.6

わたしの「こころ」は見えますか。 見えないですよね。 でもあります。 私自身にも見ることができない、触ることも出来ないのに確かにあることは解る。 「神様」は見えますか。 さやかに見ることはできませんよね。 それでも信じている人がいます。 見えないけれどあるんだよ…という詩がありました。 それでも地球は回っているといったガリレイ。 りんごの落下に万有引力を発見したニュートン。 …普通の人には見えない存在を(存在の様態を)見つけ出しました。 虹の色はいくつありますか。 日本人の私は七色に数えますが、アフリカのある部族では三色と数えるらしいのです。 存在やその様態は文化や言語的背景によって変わるようです。 「うざい」という言葉があります。 元は多摩地方の方言でしたが、否定的な使われ方で全国に広まった現在ではこのニュアンスを他の一言で言い表すことが難しいくらいです。 「胡散臭い」ともちょっと違うニュアンスです。 そのような心象や現象は確かにあったけれども、言葉が生まれることによって初めて市民権を得るといった感じのものごとがあります。 存在は言葉によって定位される側面もあるのではないでしょうか。 眼耳鼻舌身意のどれかに感じるものによって存在が明らかになりますが、そのどれにも感じなくとも存在するものはあると思います。 そして実はそれらは一切合切存在しない…というのが仏教で言う空。 そこまでいかなくても、見えなくても触れなくても存在するらしいとは言えると思っています。

hikaru0705
質問者

補足

回答ありがとうございます >存在やその様態は文化や言語的背景によって変わるようです。 なるほど、存在や様態は文化や言語の影響を受けるのですね。 回答を見ていると、僕達の物を認識しているのが、かなり主観的な事がわかりました。

  • Ryo_ss
  • ベストアンサー率36% (35/95)
回答No.5

私なりに例をいくつか挙げたいと思います。 想像してみてください。 貴方は視覚がありません。 この時,貴方の恋人のルックスが好いかどうか…判断できますか? 貴方は聴覚がありません。 この時,貴方はどの音楽が好きか言えますか? 貴方は触覚がありません。 この時,抱きしめられた時の温もりを伝えることができますか? 私個人の意見ですが, 私達の知覚(五感)がそれを“ある”と認識しない限り,その物は私達に存在を主張できません。 例えば,“パソコン”。 見えも触れもしなかったら…そもそも地球上に存在してませんね。科学の進歩の証ですから。 例えば,“洋服(もしくは布)”。 見えも触れもしなかったら…そもそもだれも裸でいることを恥ずかしいと感じません(これは自分が裸であることを知らないということも言えるのですが…)。 重要なのは“一番はじめ”です。 自分の理性(あたま・脳)がその存在を認めるために何をするかです。 貴方の言う“あるから見えたりさわれたり…”という考えは先にそれを“ある”と知っていて(例えば,見てしまって)からの考えになると思います。 その本は知覚に対することを問うていると推測し回答しました。 少しは解決の手助けになっていればよいのですが…。 私も自信はないですけど…。 挙げられた例には他意はありませんので,あしからず…。 個人的興味で聞きます。何という本ですか?(回答に無理強いはしません)

hikaru0705
質問者

補足

回答ありがとうございます。 なんとなく伝わってきました。 本の名前は「子どものための哲学対話」です。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.3

こんばんは。 難しくて、僕もわかりませんが、知ってる範囲で。 相手を人間に限っていうと、 相手が人間がいる、と分かるのは、相手と人間関係がある、ということと同じです。単純に人がいる、と分かることですら、その相手と人間関係を結んでます。 人においては、なので、人の存在=人との関係、です。 これを延長すると、ものがある=ものとの関係、といえます(かな?) 言い換えると、関係とは、観察する人と観察されるもの、2つが存在してはじめて成立します。 そして、ものがある、という事実は、この関係が、自分とものとの間に成立した、一種の契約みたいなもの、とも言えます。 契約が成り立ったから、僕らは、ものがある、と感じます。 この契約(関係性)を、言い換えると、僕から見てあなたがいる、あなたから見て僕が居る、となります。 ・・・まあ、そんな感じですが、よくわからないですね、すみません・・・ やはり理屈だけではちょっと無理があります。テレパシーでもあって、実感を直接伝えられたらいいんですが。

hikaru0705
質問者

補足

回答ありがとうございます。 なるほど物があると私たちが認識できるのは、単にものがそこにあるからだけでなく、私たちと物との関係があって始めて成立する事柄なのですね。

noname#76141
noname#76141
回答No.2

 「物」つまり「物質」に限れば、人間の五感の内、視覚と触覚で知覚できない物の存在を認識するのは困難でしょうから、そのような物があるかどうかはわかりません。  ちなみに、動物が人間の五感を超えたものを認識できる感覚を有していることはあります(例えば夜行性動物の目等々)が、これもそのことを結局は人間が認識できるから言えることではあるでしょう。  ただし、「物」つまり「物質」でなければ、見えなくても「ある」ものはあると言えると思います。  例えば ・電波…テレビを(1)つける(2)消す(3)つける、場合、(2)の時に五感ではその存在を知覚できませんが、存在していることは事実です。ただし、その存在がわかるのは、結局は録画等の視覚による証明が必要で、あとはせいぜい(3)で再度つけた際に(1)の続きを放映していることから(2)でも存在していたことを類推するという形等が限界になるのかもしれません。

hikaru0705
質問者

補足

回答ありがとうございます。 電波やX線などの電磁波は確かに見えも触れもしませんね。でも誰もが存在を認めている。でも電波はテレビやラジオによって、X線はレントゲン写真などによって間接的に視覚や聴覚に訴える事ができるから、あると言えるんじゃあないかなー・・・。

  • milk01
  • ベストアンサー率0% (0/3)
回答No.1

馬鹿な自分の考えは。 触れるのだから触れる、見えるのだから見える、それでいいじゃん。 で終わってしまいました。 なので、あるとか無いとかを題材に考えて見たんですが、 無いものを否定するのは、そこにあるものを否定するより理不尽な物だと思います。 見たことも無い、触った事も無い、だから存在しない、 なんて事はないですからね。 わかるわけないって言うのは、そういうことなのではないですかね?

hikaru0705
質問者

補足

milk01さんの回答を見ていて思ったのは神様です。 神を見た人も触った人もいませんが、存在を認める人は大勢いますね。 見えも触れもしないから存在しないなんていえないのですね。

関連するQ&A