- 締切済み
時間イコール存在
哲学される皆さんへ。関心がありますでしょうか。思索する上での大前提?となるのではないかと思うので、提案(思いつき?)してみます。 この世界の現象は‘時間’というものがあるから。‘時間’がなかったら‘現象’しない。現象は時間の継続が生み出すもの。一瞬という概念も時間のある世界。時間がないということは真の無。何もない世界は論じられません。 哲学する対象は時間のある‘有’の世界。 我々は時間と共に、あるいは時間に依って、存在する(表現が適切かどうか不安ですが)。 とりあえずは思いついたことを述べてみました。 深みのある思索など出来る頭脳ではないので、分かりやすい意見など、聞かせていただけると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。
- みんなの回答 (16)
- 専門家の回答
みんなの回答
- tyr134
- ベストアンサー率51% (851/1656)
横から失礼します。 面白そうなので参加させてください。 >この世界の現象は‘時間’というものがあるから。‘時間’がなかったら‘現象’しない。現象は時間の継続が生み出すもの。一瞬という概念も時間のある世界。時間がないということは真の無。何もない世界は論じられません。 個人的には、逆であろうと思います。 「時間とは運動を計る計器である」という論に賛同します。 つまり、「現象」があるから「時間」があるのです。 例えば、ボールがAという地点にあり、しかも物質として変化しないなら、時間はありません。 しかし、ボールがAという地点からBという地点に移動した場合、時間が発生します。(そして、ボールaからボールbに変化したら、時間が発生する) そして、今まさにAからBに移動中のボールだとすると、 A=過去にボールがあった場所 A-Bの間=現在、ボールが移動してるところ B=未来、ボールがあるであろう場所 となると思います。 ほら、「過去・現在・未来」という、我々が普段考えている「時間の概念」が生まれませんか? ・・・と、ここまできてネタばらしすると、実はこれは私のオリジナルの理論じゃありません。(そんな頭はありませんので・笑) これは、「アリストテレスの時間論」の借用です。 アリストテレスは、自著『自然学 第4巻』の第10章から14章までにかけて時間について考察しています。 まず、幾つかのパラドックスを展開して、時間の「非存在性」を明らかにしようとしています。 アリストテレスはあらゆるモノを「存在するモノ」と「存在しないモノ」に分けましたが、「時間」は「存在しないモノ」に入ると結論付けています。 まず、我々が時間を考えたとき、「過去」「現在」「未来」と分けられます。 1)「過去」は存在するが、既に過ぎ去ったモノで(今は)存在していない。 2)「未来」は存在すると予測できるが、後から来るモノで(今は)存在していない。 3)「現在」は(存在するものは全体と部分に分けられるので)「時間の部分」であると考えられるが、1)2)より、「存在していない」と考えられ、「現在」は「部分」では無いと言える。 つまり、「過去」と「未来」は存在していないので「現在」もその存在は否定される。 よって、時間は「存在しないモノ」という事になる。 存在しないのだから、「現在」の連続と捉えることも出来ない。 そこで、彼は「時間は一つの動きであり,変化である」と捉え論を展開していきます。 「時間」はあらゆる所に存在するし、運動や変化の速さ・遅さは時間によって計られる。 よって、「時間は運動そのものではない」が、「運動や変化のあるところには時間がある」のだから、「時間とは運動や変化を示す尺度」であると捉える事が出来る。 つまり、「今」を起点にして、「過去は○○だった」とか「未来は××になる」と言うことが出来る。 よって、「時間は運動や変化と相関的なものである」と結論付けることが出来るのです。 そして、「現象」とは「モノが変化すること」であるから、「現象」のあるところに「時間が在る」のです。 >現象も時間も分離できない関係にある。 その通りです。 なぜなら、「現象の経過」を計るのが「時間」だからです。 ソレと同じく、「空間」も「現象」があって初めて存在が明らかにされるのだと思います。 「現象(運動)」が起こるためには、つまりボールがA地点からB地点に移動するためにはA-B間の空間が無ければなりません。 言い換えれば、ボールがAからBに移動したらAーB間の空間は在るという事になると思います。 結論を言うと、まず「モノ」が存在しており、その「モノ」が移動することで「空間の存在」と「時間の存在」が生まれるのだろうと思います。 参考になれば幸いです。
kaitara1です。再度書かせていただきます。木村敏さんの「時間と自己」を読んでいると、時間がなくても存在するのはモノでコトの方は時間がないと存在できないということと考えさせられます。コトというのは時間そのものである認識主体によって生み出されているかのように思われます。要するにモノが時間を生み時間がコトを生む、すなわち存在させるということなのかと思っています。
お礼
存在とは継続(あるいは持続)。継続は時の流れ(時間) この考えがわたしの頭の中で固まりつつあります。 brageloneさんの回答から引用します。 「宇宙の存在は時空間と共にある」 ですからモノもコトも同時進行であると思えます。 回答ありがとうございました。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
>それでは精神と時間の違いについて、一緒に‘哲学’しませんか。 します。 >精神=形がなければ大きさもなく温度も(たぶん)ない。もちろん重さも。 そうですね。空間を占有することがないということですね。 ところが、脳細胞(物質)無しには成立しないんですね。 それに関係するのですが、「変化」がないと決して成り立たないのが精神ですね。 ここで「変化」というのは、イメージとしては情報の流れのことで、 如何なる精神もこの流れ無しには手も足もでません。 愛とか、快感、苦悩など長く続くと思われる心も必ず変化を 必要としています。絵に描いた精神、彫刻できる精神はありません。 >物質=形がある。大きさ、容積がある。温度がある。重さがある。 本当に形があるのでしょうか。大きさ?形は精神が作っていると思いますよ。 温度・・まぁ 熱ですね。これは、原子、分子が様々な形でエネルギーを獲得して、分子自身が運動している量のことですね。 重さ・・重力のことで、これは、空間の歪みですね。重さなんてないのです。歪みによる、重力加速度を感じているのです。 そして、時間ですね。 物質も、素粒子、電子が絶えず変化して成り立っています。 これらが変化するからこそ存在するのであって、 存在するから変化するのではないでしょうね。 同じように、過去から、未来に向かう時間なるものがあるから そこに、変化ができる自由が素粒子に与えられたのではなく その変化の軌跡を精神が追うから時間が生まれるんですね。 だからこそ、この いわゆる 時間というのは精神側にあるのであって 物質側にはないと思うんですね。 物質側は、変化することだけなのであって、それが故に存在している ように捉えられ、時間が経過しているように感じられる訳ですね。 >そして時間はというと‥‥精神とにているように思えますね。 そうですね。時間は、精神の必須要素ですね。 時間を表すのにいい言葉がないんですよね。 過去から未来へ向かう時計が刻むいわゆる時間という概念と、 実質的変化の差分をもって時間とするという概念ですが これらは似て否なるものなんですよね。 いわゆる 時間が流れているなんて幻想だと思いませんか。
お礼
bananasandさん、再々の回答ありがとうございます。頭が弱いせいか皆さんの回答に接していると、頭が混乱してしまいます。 この回答についても、どう受け止めてよいのか迷っています。 考えて見ましょうとわたしが誘った精神と時間について述べていただきました。 精神については、生物に備わっている心、という観点から述べられていますが、宗教的には(哲学的と言ってみたくもありますが)宇宙における精神、というように生物から離れて精神の存在を認めるような考えもありますので、その立場で言うならば、脳細胞なしには成立しない、とはいえなくなってしまいます。 物質については、大きさ?形は精神が作っているのでは、と言っていますが、これも人間の側の主観、といったことになるかと思います。 温度や重さについては、失礼かと思いますがとりあえず割愛させていただきます。 そして時間。変化の軌跡を精神が追うから時間が生まれる。となると人の精神がなければ時間はない、ということになってしまいます。 真剣に回答を下さったので、疑問に思うところを述べさせてもらいました。 わたしの表現、時間と存在(あるいは現象)との関係についての言い回しが、適格でなく、さまざまに解釈されてしまうことになりました。 いま感じていることを、たとえて云うならば、映画などで時間を止めた、といった設定で、人や車が動いていた状態、その格好のまま止まっているシーンがあります。見たことがあるかと思いますが、あのような画面を見るとまさに時間が止まっているように思えます。 ですが、あの状態が‘継続している’、というところに‘時間’を感じるのです。その現象が継続しているという状態を我々は‘時間’と認識してもよいのではないでしょうか。 不十分なご返事になってしまっていますが、勘弁してください。
No.9です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 吾々人間が誕生する以前であってもいいのです。 地球に生物が誕生する以前であってもいいのです。宇宙の存在と時間の関係のことです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 宇宙の存在は 時空間とともにあります。それだけです。 その以前は 分かりません。 ★ 時間がないということは真の無。 ☆ ということでもなく 宇宙の始まってからの《有か無か》を超えています。《有無や時空間》は 宇宙の始まりと共にあるのですから。 前回(No.9)は ★ 我々は時間と共に、あるいは時間に依って、存在する(表現が適切かどうか不安ですが)。 ☆ の部分に対して 回答を寄せました。
お礼
「宇宙の存在は時空間と共にある」 私もこのように表現すればよかったのかもしれません。書物による知識は、はなはだ貧弱なので、表現の未熟をいつも感じています。 たぶん認識の差異はそれほどないと思います。 それにしても‘時間’という事柄は、考えるほどにどのように定義すべきなのか解らなくなります。 心=精神については科学者も解明しようと研究されているようですが、それと同じように‘時間’についても研究されているのでしょうか。 興味が湧いてきました。 回答ありがとうございました。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
>地球に生物が誕生する以前であってもいいのです。宇宙の存在と時間の関係のことです。 誤解しているつもりは全くなかったのです・・ >宇宙の存在と時間の関係のことです 単純です。宇宙の存在といわゆる時間は関係ありません。
お礼
この回答への返事がうまくいえそうになかったので、前後してしまいましたが、brageloneさんへのお礼の返事を先にしておきました。目を通していただけるとうれしいです。 たぶん認識の違いに、たいした差異はない様に思うのですが。 ちょっと気分を変えて。 心=精神、は物質と違って、対極にあるような定義を与えられているように思います。 物質=形がある。大きさ、容積がある。温度がある。重さがある。 精神=形がなければ大きさもなく温度も(たぶん)ない。もちろん重さも。 そして時間はというと‥‥精神とにているように思えますね。 それでは精神と時間の違いについて、一緒に‘哲学’しませんか。 回答ありがとうございました。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんばんは、yy8yy8azさん。 アイスコーヒー グラスから 氷を1コ取り出し 机の上に氷をおく ……1時間経過 机の上をみれば 氷は溶けて水のあと 氷から水へ へーん しーん するのには 時間を要する 時間とは別に 水の性質は…http://www.suntory.co.jp/company/mizu/jiten/know/kn_01_02.html
お礼
わたしの目の前の物質が変化してもしなくてもいいのです。 存在と時間の関係にちょっと興味を持ちました。 ありがとうございました。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
>現象も時間も分離できない関係にある。 そうなのですが・・・・ 現象を No3>人の‘認識’のあるなしにかかわらず、この宇宙は存在している とします。ここには、いわゆる時間は一切ありません。 ‘現象’する・・・というのは変化そのものであって、いわゆる時間の要素はありません。 これがご質問者様が感じていた「現象は時間の継続が生み出すもの。」の正体でしょうね。視点が逆だったのです。 そして、人の‘認識’があって、はじめて時間が生まれます。 つまり、0.1秒前の過去があるのは認識側であって 現象側ではないのです。 したがって、>現象も時間も分離できない関係にある。 というのは、分けて考えることが出来ますし、現象と時間は全く別のものなのでで、その意味の半分は正しく、半分は正しくないと思います。 時間は現象と分離できませんが、現象は時間と関係がありません。 たとえて言うなら、 現象 映画の静止画の流れそのもの 時間 動画としての認識 とでもいうような関係でしょうか。 もちろん、分離できないと言えますが、違うものなのです。
お礼
bananasandさんにもbrageloneさんへのお礼の返事と同様の返事をとりあえずしておきます。 ありがとうございました。
《仕事》という媒介項をからませれば 捉えやすいのではないでしょうか。 《遊ぶ・休む・眠る・恋をする》などなど あらゆる《おこなうこと》という意味で広く《仕事》を 介在させて捉えれば 分かりやすいと思います。 ★(No.8)現象も時間も分離できない関係にある。 ★(No.7)人とその影のように切っても切れない関係。 ★(No.6)‘主観’という観点から‘時間’というものを意識する ☆ これらの考え方の中に 《仕事》をからませてみては どうでしょうか。 歯を磨くという《仕事》 その始めと終わりのあいだの時間域が それとしての《現在》です。 生まれてから死ぬまでの《仕事》 この期間が 大きく《わたし》にとっての現在であり 時間行為の過程です。 おじいさんから続く事業を 父親からも引き継ぎ わたしが引き受けたとすれば その事業に関しての《現在》は 主観が複数になりますが それとして 三代つづくかたちで 時空間の流域を構成していると思われます。 わたしたちが 戦後復興を目指したとすれば そのときからの《現在域》を 集団として《主観関係》の総合のごとくに 時間行為したということになります。 今では 新しい現在域が 始まっているかも知れませんね。 もし紛争の解決手段に軍事力を用いないという世界を 頭の中に持つとすれば たぶん一国だけで実現させていても 中途半端でしょうから その時間行為の舞台が 始まりつつあって その現在時に わたしたちは 生きている・生きていくということになるのでしょう。 時間は わたしたちの意志行為についてくると考えるとよいかと思います。
お礼
どうもわたしの質問の趣旨がよく理解されていないようです。 吾々人間が誕生する以前であってもいいのです。 地球に生物が誕生する以前であってもいいのです。宇宙の存在と時間の関係のことです。 回答ありがとうございました。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
逆でしょうね この世界は‘現象’するから‘時間’というものがある 時間は現象の継続が生み出すもの。一瞬という概念も時間のある世界。現象がないということは真の無。何もない世界は論じられません。 哲学する対象は現象のある‘有’の世界。 我々は現象と共に、あるいは現象に依って、存在する(表現が適切かどうか不安ですが)。 この時間を作っているのはあなたです。
お礼
ここまで皆さんの回答に接してきて、わたしの質問が、‘時間’を優先して捕らえているように思えました。 現象も時間も分離できない関係にある。こんな表現はどうでしょうか。 ありがとうございました。
- arayata333
- ベストアンサー率30% (35/113)
「時間」という意識は、深みのある意識の世界でありえると私も思っていますが、 またいろいろ感じていますが、 時間とは?という思索や、 存在との関係とかは、出来るだけ解りやすく明解に考えることが出来るようになればいい問題なのではと思います。 このような 整理の仕方はどこか間違っていますでしょうか? ↓ 「時間イコール存在」という言葉を、時間の定義としても存在の定義としてもともかく定義として考えると そこには時間以外は存在ではないという文の意味にもなってしまうので無理があるとおもいます 最初から何かの物質があったにせよ、意味も神も存在したにせよ、この最初からあったという地点の時間、つまり過去は無限の時間という考えは、実感としての想像力の範囲を超えていますが、 脳の意識に「そうとしか考えられない存在」の姿を理論的に考えることはできます。 つぎに実感としては解りやすいのが たぶんビックバンという時点からの物質の歴史です。 200億年以内の出来事としてのその時点での粒子と反粒子のあたりの「謎」の解明が ちょうど、なんと最も小さな物質の数とかから考えられていたことが実験でも証明されてノーベル賞につながったばかりですので、 この200億年前と後ということから この広大な宇宙の中の青い星の誕生のドラマの時間を考えると ここでもおもしろいのでしょう。 というふうに、「時間イコール存在」ではなく「時間も存在している」「物質とともに」あるいは「物質やそこからいつしか生まれることになった意識とともに」 というふうに考えるのが このへんの整理の仕方だと思います。 そして、その意識が その広大な宇宙(あるいは水の蒸発しきらなかったまれな星)の歴史時間の中に生まれることになり、その意識がはじめて 時間とその意味を その歴史的瞬間の時間から捕らえるようになったというふうに、まずその全体像から考えるのが 一番すっきりするところかと思います。 その意識からは、でも時間が止まったらあるいは無くなったら物質はどうなるのかを考えることはできます。 ありえないことと感じることはできます。 ほとんど、火の塊が宇宙中の星の姿でしょうし、 その裏の放射線物質とかがどうあっても その限りは 一瞬にして火が凍り付いてしまうような、 つまり宇宙中がそうなってしまうようなこともありえませんし、 意識にとってはとまってる間の時間はどうなるのか?ということになってしまうわけですからね。 つまり物質はあっても、 そこには意味は おそらく消えた宇宙になるのでしょう。 と 考えると 考えることはできますが、その意味はここで無くなるかと思います。 時間は 意識とともにある。 そして時間は意識が感じる意味とともにある。 生物がそれを意識し始めた記念すべきその「一瞬」という時間からそれはそういう存在となった。 それ以前にも時間はあったと意識は認識できるが、 それ以前には時間が無い時に意味が消えてしまうのと同じように、 意味という存在はその広大な無辺とも考えられる時間の中には存在しなかった。(あるとすれば、意味は神とともにあったとは言えますけどね。) 意識にとってその広大無辺な時間はしかして 永遠かもしれない「謎」の世界だ。 が、 もしその「謎」の世界の時間を意識が実感できるのだとすれば、その実感は存在の「謎」を知ってしまった実感だろうから 時間とはすべて「今」となり、神も宇宙も知ることになり、その時は「時間イコール存在」ということも意識できるようになる と 頭の中でこれも考えることは出来る。 しかし、私たちは有限の生物の脳でしかその時間を意識できないし意識してはいない。 つまり「時間イコール存在」と実感できるような意識は人間が生物でもあるかぎりは存在しない。 したがって、「時間とは何か」という思索に関しては ここまででいいのではないのか? むしろこれ以上複雑に考えても頭の机を散らかすだけではないか? ここから 次の考えに、つまり時間と私たちの意識(脳)との関係についての深みの方に 考えを進めてゆけるのではないでしょうか? 大手を振ってです(^^)。 時間と意識の関係 面白いですよ。 いろいろあります。 でも このあたりが整理されていないと、いまちょっと疲れているのでうまく言えませんが、 ともかく頭がどんどんごちゃごちゃになってくだけのように思えてしまいます。 あくまで 私の感想ですけど(^^)。 (( 当たり前すぎる回答かもしれませんが、 「そこの赤いハンカチとってください」と頼まれて「はい、この緑色のカバンですね」とカバンを持ち出す人は アルツハイマーでしかないあたりを考えると、 この単純なところを わざわざ複雑にしてしまったら 回答は不可能になってくるとおもいます^^。))
お礼
時間イコール存在、というわたしの表現が、適当でないのかもしれません。 存在する、あるいは此の世の‘現象’は、時間の継続とともにある。 人とその影のように切っても切れない関係。 こんな表現だとどうでしょうか。 ありがとうございました。
- 1
- 2
お礼
前半の説明はよくわかりませんでしたが、後半、それも最後の方、「現象とはモノが変化すること」あたりからは、納得できる回答でした。 ずいぶん昔から「時間」について考察されていたのですね。 それにしても、三者三様。百人いれば百の意見が出てくるのだなぁと思いました。 おかげさまで確信に近い答えを得ることが出来ました。単純な結論ではありますが。 一つ前の回答者、kaitara1さんへのお礼の返事を私の得た結論としたいと思います。 これで締め切らせていただきます。 皆様ありがとうございました。