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「かなしい」と書かないで「かなしみを書き」「かなしみを詠う」には?

ものの本で「かなしい」と書かないで「かなしみを書け」とか「かなしみを詠え」ということを教えているのをよく目にするのですが、そのアドヴァイスを受けて、即、書けてたり、歌ができたり、それに成功する人は既に然るべき才のある人か訓練を積んでいる人で、普通は無理だと思うのです。 私は人材育成の場で、必ず新鮮な実例を大量にレジュメで見せることを心掛けて参りました。で、《「かなしい」と書かないで「かなしみを書け」「かなしみを詠え」》と説くより、そういう作品例や改作例・添削例を数多く集めて見せた方が文学の場でも効果があるのではないか、と思います。それで、そのような事例がございましたら、お教えいただければ幸甚であります。

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noname#2850
noname#2850
回答No.4

駄流コピーライターの意見なんで、あまりアテにはならないかもしれませんが。 「かなしい」を直接「かなしい」と書かないように努力するのは、表現力を高める上でもいい勉強になりますよね。 では、「かなしい」という表現のあり方について考えてみたいと思います。これには大まかに考えて2通りあると言えます。1つは、客観的なかなしさ。もう1つは主観的なかなしさです。簡単に例を挙げてみましょう。 <客観的なかなしさ> ・今はもうその時計は動かない。 <主観的なかなしさ> ・大事にしていたクラリネットを壊してしまった。 客観的なかなしさというのは、事象に対して被害であるとか喪失感を感じることはないのに、なぜかしんみりしてしまうもの。主観的なかなしさというのは、事象によって被害や喪失感を感じる人物に対して感情移入することによって、その人物とかなしみを共有するもの、です。主観的な方は、笑いの要素になることも多々あります。感情移入しないで、被害者に対して優越感を抱く形で笑うというケースです。「クラリネットをこわしちゃった」は有名な歌ですが、これが長調で楽しげに歌っていることで、こわしてしまった本人の感情などを無視し、それを客観的な価値観で見直して、笑いのフォルムに持っていったものと考えられます。 ついでですから、童謡からいくつか拾ってみましょうか。 ・誰かさんが小さい秋を見つけた。 これは<客観的なかなしさ>ですね。ここでは、「誰かさん」という無主語性がかなしさを醸し出す潤滑油となっています。これが「田中君が小さい秋を見つけた」とやると、情緒が出ません(「誰かさんと誰かさんが麦畑で」もそう)。そしてもう1点。適さない形容詞の使用です。「秋」に「小さい」という形容詞は普通は使いません。もともと「秋」という季節名には形容詞の飾りは似合わないものです(「まっかな秋」などもそう)。そこをあえて使うことで非日常感を出すことができます。しかも「小さい」という形容詞はかなしさの方向に持っていきやすいものです。ちなみに「小さい」があるならば「大きい」もあるという類推ができますが、「大きい秋」というものは想像力をたくましくすることができないのが不思議なところです。 ・さっちゃんは小さいからバナナを半分しか食べられない。 これは「かわいそう」に分類されるものですが、これのかなしさは<主観的なかなしさ>です。ここにも出てきた「小さい」という形容詞、そして「半分」という欠落感を表す語、さらに「しか」という限界を示す語、「食べられない」という不可能を表す語。これらによってかなしさが表現されています。ちなみに、これを「かわいそう」と思うのはなぜかというと、普通の人は小さくもないからバナナの半分くらい軽く食べられるという前提があってのことです。さっちゃんの心理を考えれば、自分はもっと食べたいのだけれども物理的に食べられないというもどかしさ、はがゆさ、くやしさがあって、それがかなしさにつながっているのだと言えるでしょう。かわいそう、という言葉は全く客観的に見た場合はそう言えるということです。 このようにして見てみると、そのかなしさが主観的なものか客観的なものかがわかってきます。どちらのかなしさを描出することも難しいのですが、客観的な方が割と簡単なようです。「いつもここから」というお笑いの2人組がいますが、彼らが「かなしい時」として表現しているのは、たいてい客観的な悲しさです。主観的なものと言えば大抵最後に来る「かなしい時、夕日が沈んだ時」というものだけではないかと思います。しかし、彼らの表現には納得させられることが多々ありますから、一見の価値はあると言えます。 今までのものは、表現するためのかなしさですが、表現しても仕方のないかなしさというものもありますので、参考として書いておきます。例えば、茶柱が立っているのを見て、かなしく感じる人もいるでしょう。茶柱にまつわる思い出で亡父のことをふと考えてしまったり、茶柱が浮いていることから連想して、湖に浮子を投げたはいいが何時間待っても魚がかからなかった自分の体験談を連想してしまったりとかいうケースがあります。こうしたものは、相手に背景から説明しないといけないので、表現するには適さないと言えるでしょう。 こんなものでよければ。

noname#8885
質問者

お礼

ありがとうございました。 ネットの利点を活かして、参照して理解を深めていただくことができるようにするのが質問の目的の一つですので助かります。 なお、コピー・ライター推薦の「文章の書き方」類がございましたらお教えくださいませ。 短歌などでの事例は、特に、初心の人たちの改作例や添削例が集まればと希っております。

その他の回答 (5)

  • cotiku
  • ベストアンサー率17% (38/216)
回答No.6

この質問ですぐに思い出した言葉は ★ いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ (石川啄木『一握の砂』より) かなしい時はどんな時? かなしいものはどんなもの? と考えると、案外思い出すことがあります。 でも、表現の味わいを加えるとなると おっしゃるように例文が参考になるでしょうね。 石川啄木の作品はわたしにとって「かなしい」表現のお手本です。 砂山の砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠くおもひ出づる日 東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる ★ 白鳥(しらとり)は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよう  (若山牧水) も「かなし」を使っていますが、いいですね。 牧水の作品の多くも「かなしい」を使わずにかなしいです。 しみじみと聞けば聞ゆるこほろぎは時雨るる庭に鳴きてをるなり ゆく水のとまらぬこころ持つといへどをりをり濁る貧しさゆゑに

noname#8885
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • aminouchi
  • ベストアンサー率46% (376/804)
回答No.5

「かなしい」と書かずに「かなしみ」をあらわした作品ですが、短詩形でそのような作品はすぐには思い出せません。ただ、小説でよろしければ二つほど具体例をあげさせて戴きます。 一つは芥川龍之介の「手巾」 これは全文を参考URLで読むことができます。「手巾」とはハンカチのことですが念の為。 いま一つはE・ヘミングウェイ「武器よさらば」のラストシーン。 ネット上では読めないようですが、ここでは、かなしいという言葉を一切使わずに主人公のかなしみが伝わってきます。

参考URL:
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43.html
noname#8885
質問者

お礼

ありがとうございました。 ネットの利点を活かして、参照して理解を深めていただくことができるようにするのが質問の目的の一つですので助かります。

  • sponta
  • ベストアンサー率26% (54/207)
回答No.3

ふたたびでごめんなさい。 芸術とは何か。 表現とは何か。 ということをまず考えなければならないのだけれど、そういうのは言葉の定義からはじめなければならないので難しいですよね。 芸術は人生と対の語。 表現は説明と対の語。 ところで、素晴らしい作品というのは極めて単純なはず。 鑑賞に説明が必要な作品などというものは、実は大したことはないので、 無視したってかまわない。 ☆ ということで、私が思うわかりやすい例。 さだまさしの「無縁坂」という歌の一節。 「運がいいとか悪いとか、人はときどき口にするけど、そういうことって確かにあると、あなたを見ていてそう思う」 これなどは、私のお母さんは運が悪い。 と、単純に言えばいい。 だけど、さだまさしは、こういうまどろっこしい言い方で歌にした。 このまどろっこしさが、作風というか、母子関係なども感じさせしみじみとする。 さだまさしの歌詞を芸術というのは大げさですが、 作詞上のエッセンスがあるのではないかと考えます。 蛇足で失礼しました。

  • sponta
  • ベストアンサー率26% (54/207)
回答No.2

回答ではなく、意見ということになるかとおもいますが…。 かなしいをそのまま悲しいと何故書いてはいけないのか。 そのあたりをちゃんと説明する必要があると思います。 そのあたりの説明をきちんとしないから、 かなしいとそのまま原稿に書いてはいけないという原則を教えることに価値を見出せないのだと思います。 かなしいからをかなしいとセリフを言うこと。 これは、シナリオの世界でいれば、生ゼリフといって、禁じ手です。 なぜなら、かなしいというのはその時の感情を説明するセリフだからで、 表現ではないからです。 シナリオの世界では、説明ということがもっとも忌み嫌われます。 感情の説明ばかりでなく、形容詞というのも小説の世界では禁じ手です。 質問者はどのような環境で質問をされているのか分かりませんが、 私には小学校2年生の娘がいます。 娘の小学校の国語の教科書に取り上げられている作品などを見ると、解釈の難しい素朴派の作品が多いことに驚かされます。 素朴派というと分かりずらいかもしれませんが、絵画でいれば、写実的な絵を鑑賞する前に、アンリ・ルソーの絵を鑑賞するようなもの。 質問者がおっしゃるように、沢山の美しい文章。そして、添削例に触れることがとても重要だと思います。 えらそうなことを書いて失礼しました。 世の中のドラマには、生ゼリフ、説明セリフ、説明シーンなどがあふれていますので、私の言うこともたわ言と思われても仕方の無い状況ですが…。

noname#8885
質問者

お礼

ありがとうございました。 ある伝統的短詩形のサイトでは作品を見て、指導してくださるのですが、こちらの水準を無視した教え方、熱意は伝わるのですが園児に応用数学を教えるような感じなので、参考になるデータ/資料が見つからないかなと思って質問させていただきました。 貴重なご意見ありがとうございました。

回答No.1

元小学校の教師です。10年ほど前、小学校5年生を担任していたとき、詩の授業の一環として、「悲しいという言葉を使わないで、悲しさを表しなさい」といって授業をしたことがあります。 いろいろ出ましたが、一人の女の子が、「むらさきいろの折り紙で、ツルを一羽折りました。」というのがあり、クラス全員で、感動したことを覚えています。 こういう作業は、特別の指導法があるわけではなく、数をこなすしか、方法はないような気がします。

noname#8885
質問者

お礼

ありがとうございました。 大変、参考になりました。 ただ、私の感覚では「紫」は「紫禁城」のイメージから高貴な感じが強いです。作られたイメージに影響されていることになりますね。 「色彩心理学」からは「紫」を好む人は精神が病んでいる傾向が強いそうです。……で、紫の折り鶴の子の感覚は鋭いですね。

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