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喜撰法師とお茶の関係
六歌仙の1人である喜撰法師は わが庵は都の辰巳しかぞ住む世を宇治山と人はいふなり という歌を詠んでいます。 この歌の中に「宇治山」とあるところから 宇治茶の銘柄になり、またお茶の隠語ともなったそうです。 単に歌に「宇治山」とあるからというだけでなく 喜撰法師とお茶にはなにか関係があったのか、と思わされます。 考えすぎでしょうか。 またなぜお茶に隠語が必要なのでしょう?
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ちょっとずれちゃっているという指摘、確かにずれちゃっている。 主点は、江戸時代に茶に関わっていた人間は、栄西以降の茶の歴史しか知らないので、喜撰法師が具体的にどう茶に関わっていたかなどは全くあずかり知らないことだったと言うことです。 江戸時代のお茶の名産地宇治と六歌仙の歌を適当に関係づけましたということです。なんせ知り得ないのですから。 No2で蒸気船の話が出ていますが、これは江戸時代に宇治茶を将軍への献上品として葉茶壺道中があったように、宇治茶がNo1ブランドだった。そしてその中のブランドとして喜撰があったわけです。江戸時代のネーミングです。そして江戸時代の茶に関わる人間の知識レベルは、空海とかその辺は知らなかったのです。せいぜいが山上宗二記が千家の古典でして、山上宗二記では、村田珠光しか話が戻らない。それで、十分権威付けができた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/山上宗二記 あるいは、現在では偽書説も高い南方録でも茶の話は室町期よりは歴史を遡らない http://ja.wikipedia.org/wiki/南方録 日本後記のご指摘もありますが、塙保己一の弟子が「発見」したわけで、その前の江戸前期ではだれも知らない資料。 http://ja.wikipedia.org/wiki/日本後紀 現在の日本人は、古事記でも日本書紀でも日本後記でも刊行物として読むことができますが、江戸時代では、極特殊な人間しか存在すら知らないものが多かったわけです。 裏千家のURLをはらせていただいたことの補足を言えば、千家では、山上宗二記とか南方録あるいは、君台観左右帳記あたりの室町から江戸初期の書籍を一種の「聖書」みたいな扱いをしております。塙保己一らの文献学の成果はまったく関係ない世界で世界観ができています。 なので、歴史学の成果により「実は、茶は平安初期からありました」という話は、ちょっと都合が悪い。しかし歴史学の成果として無視できないので、「薬と考えていたにすぎませんでした」→今のお茶とは関係ないですよというような書き方をしています。 http://www.urasenke.or.jp/textb/spirit/spirit3.html
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- Pinhole-09
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No.4です。 秋篠永忠(えいちゅう、ようちゅう)京出身の僧侶。 743年~816年 宝亀4年 (770) 遣唐使と共に入唐し、仏法を学び延暦24年 (805) 空海、最澄と入れ替わり帰国。 梵釈寺の初代寺主となる。 のち大僧都。 帰国時茶の種子を持ち帰り、栽培したと考えられています。 「日本後記」に弘仁6年 (815) 畿内、近江、丹波、播磨に茶の植樹を命じたとありますが、どれだけ根付いたか。 唐では、絹の繭、蚕と同様茶の樹木、種子とも国外持ち出しは禁止でしたが、後期になり検閲もゆるんだのでしょうか。
お礼
質問にお答えくださってありがとうございます。 お茶は禁を犯してでも持ち帰りたいほどの 魅力があったものだったのでしょうね。 また記録にはなくても他にこっそり日本に持ち帰った人も いたかもしれませんね。
- Pinhole-09
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日本で初めて茶の木を育てたのは800年頃の僧永忠といわれています。 遣唐使が茶葉を中国土産として持ち帰り、飲んだのはもう少し古いようです。 菅原道真の詩に「煩懣結胸腸 起飲茶一椀」があります。 ただ宮廷人に限られていました。 一般化はたしかに鎌倉時代です。 喜撰法師が茶を味わったのは確かでしょう。 その頃宇治に茶栽培があったかどうかは、専門家にお任せします。 隠語というのは江戸文人は洒落が大好きで、そいう言い方をして楽しんだだけです。
お礼
ありがとうござます。 永忠というお坊様はどのような人なのでしょう? 調べてみましたがわからないのでよろしければ教えてください。 宇治茶の創始者はtanuki4u様がおっしゃる明恵だそうです。 ですから鎌倉時代に栽培が始まったようです。 明恵は栄西が中国から持ち帰った茶の種子を、栂尾深瀬に播き それを宇治に移植したそうです。 しかし、宇治茶の栽培が始まったのが鎌倉時代であるからといって 関係ないとは言い切れないと思うのです。 なぜなら栄西は 吉備津宮の権禰宜賀陽貞遠の子であるといいますが 「紀氏系図」では紀季重の子・重源の弟としています。 一般には史実ではないとされていますが、 なにやら紀氏との関係があったのでは、と思えます。 すると喜撰法師は紀名虎か有常だという説が、ひっかかります。 また「元亨釈書」には「窺仙」なる僧が宇治山に住んで長生を求めて仙薬を服し、 あるとき雲に乗って去って行った」と書かれています。 一方、唐代の詩人・廬仝が詠んだ「七椀詩」によれば、 「一杯目のお茶で、喉や唇の渇きが潤う。二杯目で孤独が消える。 三杯目で腸に染み渡る。四杯目で軽く汗をかく。 五杯目で皮膚から骨まで清らかになる。六杯目で仙人のようになる。 七杯目はもう飲む必要がないくらいだ」とあり 仙人というキーワードでお茶と喜撰法師は繋がっているように思えます。 まあ、気のせいかもしれませんけどね。
- tanuki4u
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お茶は鎌倉時代というのはどのような史料 → 空海云々というのは、現代の歴史学の成果であって、茶という文化が成立した室町から江戸初期においては知らないことでした。 室町期の闘茶の文化では、本非を争います。本当の茶か本当の茶でないかをテイスティングするわけです。この時本茶とは、栄西が中国から持ってきて栂尾の明恵に渡したものを言います。 ※ 蛇足ですが、御成敗式目を作った北条泰時が師としたのが明恵さん。 非茶は栂尾産でないお茶を言います。 これが、室町期から江戸初期の茶に関わる人間の認識です。 http://www.urasenke.or.jp/textb/spirit/spirit3.html このへんが裏千家の見解。
お礼
? おっしゃってる意味がわかりません。 空海云々は歴史学の成果でなく、仏隆寺に伝わっている話です。 http://www.geocities.jp/mamehiko6636/rekisi.html によりますと 『日本後記』 の815年に日本最初の喫茶の記録があり 上流階級の人に飲まれていたとあります。 喜撰法師は紀名虎もしくは有常のことであるとする説があり 紀名虎の娘は天皇の更衣となっているくらいですから 上流階級といって差し支えないと思います。 平安時代に日本に来ていないというのはまちがいですね。 お答えくださったのに申し訳ないですが、 回答が質問内容とかなりずれておられるようですが?
- kwan1234
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>単に歌に「宇治山」とあるからというだけでなく 喜撰法師とお茶にはなにか関係があったのか、と思わされます。 たぶん関係は宇治だけだと思います。根拠はありません。 今具体例を思いつかないのでどなたか、お助け下さることと思いますが、ものの名前を直接言う代わりに、それに関連する地名や人物を言うということが特に江戸時代には良く行われたようです。 >またなぜお茶に隠語が必要なのでしょう? 「隠語」という言葉の受け取り方だと思います。 別に隠しているのではなく、(とはいえ実は隠しているわけですが)しゃれているわけです。 ペリーの来航のときに有名な「太平の眠りを覚ますジョウキセンたった四杯で夜も眠れず」という落首が出てきましたが、これは「上等の喜撰」と「蒸気船」とをかけています。(お茶はカフェインを含みますので就眠を阻害しますからね)
お礼
ありがとうございます。 江戸時代になってからお茶のことを喜撰というようになったのかも しれませんね。 根拠がない、というのはびっくりしましたが。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
関係はありません。 貴撰法師が存命の頃は、まだ日本に茶が来ていません。 → 貴撰法師は平安初期、お茶は鎌倉時代 お茶の隠語というのは、隠語というよりも「だじゃれ」ですね。
お礼
ありがとうございます。 お茶は鎌倉時代というのはどのような史料によるものですか。 奈良の仏隆寺というところが大和茶発祥の地とされていて 空海が唐より持ち帰ってここに植えたというのですが。
お礼
ありがとうございます。 ただ、江戸時代に茶にかかわっていた人間は 栄西以降の茶の歴史しか知らないと言い切れるでしょうか? 紀名虎という人物、現代人にとっては知名度が低いですが 江戸時代の人には結構知られた人であったのではないかと思うんです。 なぜなら平家物語に登場していますからね。 江戸時代の人間が空海について知らない、というのも疑問があります。 千家の古典がそこまで遡らないというだけで 知らない、と言えるでしょうか? ここは質問する場であって議論する場ではないので、 このあたりでやめておきましょう。 tanuki4u様の考え方はよくわかりましたし、大変勉強になりました。 感謝しています。 tanuki4u様はお茶のことに詳しいようですが、茶道をなさっておられるのですか? もしお分かりになればお答えいただきたいのですが お茶の道具には布袋のモチーフを用いられることが多いと 聞いたことがあるのですが本当でしょうか。 それは宇治の万福寺において布袋を祭っていることに由来するのでしょうか。 それとも他に何か意味があるのでしょうか。
補足
下記のお礼の補足をここに書かせていただきます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6 にかつては栄西によってもたらされたのお茶の始まりであると考えられていたが、 最近の研究によって奈良時代に伝来していた可能性が強いというような内容が記されていました。 tanuki4u様のお考え、というよりはそれが定説となっているのですね。 そうであっても下記のような疑問は以前のこりますが。 Pinhole-09様がおっしゃっている永忠のことは 「続日本紀」に書いてあるそうです。 さすがにここまでは知らなかったかもしれませんが 大和茶のルーツは空海であると伝わっていて、ずっと生産もされていたと思うんですが 京都の人間にとって奈良のことなどあずかり知らぬことだったんでしょうか。 それとも大和茶のルーツは空海であるというのは単なる 権威づけなのでしょうか。 そのあたりの判断は難しいですね。