- 締切済み
年齢で命に軽重はありません?
あるコロナ関連の記事を読んでいて、妙に違和感を覚えた一文がありました。 「年齢や性別、社会的地位で、命に軽重はありません。」 「性別」「社会的地位」これはその通りだと思います。残念ながら現実にはそうなっていない場面も多いですが、理論的には間違いなくその通りです。 しかし、年齢はどうでしょうか? 当事者の立場ならともかく、第三者の客観的な視点で見れば、やはり期待余命の長い若い人の命の方が優先されてしかるべきではないでしょうか? 命をお金に換算することは不可能ですが、あえて数値化し可視化するなら「残された時間」しかありません。社会的地位は生きていれば変化する可能性がありますが、時間の価値は不変ですから。
- みんなの回答 (8)
- 専門家の回答
みんなの回答
- staratras
- ベストアンサー率41% (1499/3651)
>ここはあくまで客観的に論理的に命の価値を考えてみたかったのです。命は0か1かではありません。極論するなら、生まれたばかりの赤ちゃんと予後数日の老人の命を同等の価値だと言われても、当事者でなければ到底納得出来ないでしょう。老人は限りなく0に近い命を生きているのです。 その考え方では老人に限らず、難病などで余命わずかの人は命の価値が低いことになってしまいませんか。現実には逆で、余命がわずかの人ほど「残された命の重さ」が、その人自身にとっても周囲の人々にとっても貴重なもの・大きなものなるはずです。「難病の人の余命は貴重だが老人の余命はそうではない」というのは矛盾しています。 そもそも年齢(余命)に限らず「客観的に論理的に」他人の「命の価値」を、比較できるとは思えず、少なくとも回答者は自分にその能力があるとは思えません。 「人の命に価値の軽重はない」というのは実は端折った表現で、本当は「人の命に価値の軽重を付けることはできない」(困難であり、かつ付けるべきではない)ということではないかと考えます。人の生命の価値など判断できるのは神様だけだと考える人も少なくないでしょう。 もちろん、新型コロナウイルスのパンデミックによるひっ迫した医療現場や大災害の被災地、あるいは臓器移植の対象者の選定などで、事実上「命の選択」をせざるを得ない場合があり、高齢者より若者が優先される場合が多いことは確かでしょう。ただその場合でも、「救命の可能性(臓器移植の場合はこれに加えて移植を受けた人が得られる生存期間)を最大限にするために行なうのである」と考えることによって、高齢者を含む多くの人が納得し容認できるとすれば、それは「世の中で役に立つ神話」だと考えます。 わざわざ「若者の命の価値の方が老人の命の価値より大きいから若者を優先する」と主張して世代間の対立をあおる必要がどこにあるでしょうか。回答者は若い世代を優先することに異を唱えているのではなく、「命の価値の軽重」と結びつけることは適切ではないと考えているだけです。 仏教ではすべての人が逃れられない四つの苦しみの一つとして「老いること」を挙げています。高齢者である自分自身は与えられた命を大事にして、お迎えがくるまで淡々と生きていくほかないと考えています。
- staratras
- ベストアンサー率41% (1499/3651)
世の中には、「本当にそうなのか?」と多くの人が心の中で疑っていても、「そうであるかのように信じるふりをする」ことで世の中が回っている「神話」がいくつもあります。 ご質問の「年齢や性別、社会的地位で、命に軽重はありません。」というのも代表的な「神話」の一つです。 現実の世界では、「年齢や性別、人種、社会的地位などで、命の扱いに結果として軽重の差がある」ことは言うまでもありません。例えばアメリカでは多くの人が新型コロナウイルスのために命を落としていますが、白人と黒人では死亡する割合に大きな差があります。大統領がウイルスに感染したらヘリコプターで病院に運ばれ、非常に高価で試験的な段階だった治療薬も使ってもらえて、すぐに選挙戦に復帰できましたが、一般人はそうはいきません。 ただし、このことを「何だかなー」と思う人の心の中には、「年齢や性別、人種、貧富、社会的地位で、命の扱いに軽重の差があるのはおかしい」、という気持ちがどこかに存在しているからであり、「年齢や性別、社会的地位で、命に軽重はありません。」という「神話」を(現実の社会はそうなっていないことは重々承知の上でも)信じたいからではないかと考えます。 なお、限られた医療資源の使用を選択せざるを得ない場合の「トリアージ」を「年齢で命に軽重はありません」ということの反例に挙げるのは少し論点が違うかもしれません。「この限られた装置を快復の可能性が高い若者に使用する選択は、救命の確率が高くなるからであって、年齢で命に軽重の差があるからではない」という反論も容易にできるからです。 「命そのものには年齢による軽重の差がないからこそ、社会全体で少しでも多くの命を救った方がよい」という考え方の方が、「命そのものに年齢による軽重の差があるから扱いに差があっても当然」という考え方よりは、同程度に重症なら若い世代の方に限られた医療資源を使用するという結論は同じでも、人々に受け入れられやすいと考えます。やはり「神話」は生きているのです。
お礼
神話も結構ですが、ここはあくまで客観的に論理的に命の価値を考えてみたかったのです。命は0か1かではありません。極論するなら、生まれたばかりの赤ちゃんと予後数日の老人の命を同等の価値だと言われても、当事者でなければ到底納得出来ないでしょう。老人は限りなく0に近い命を生きているのです。 命は与えられた80年なりその人なりの寿命までの時間だと思います。それを皆が同じ速さで消耗しながら死に向かって少しずつ命を減らしています。言葉は悪いかも知れませんが、少しずつ命が軽くなっていると言い換えることも出来ます。決してその人が生きてきた人生の重みを言っているのではありません。「残りの命の重さ」の話です。命を天秤にかけざるを得ない場面では嫌でも意識しなければならない重さです。目を逸らすべきではないのではないでしょうか?
>命をお金に換算することは不可能ですが 命をお金に換算することは可能です。 一億円で私の命をくれと言われたら、そうするかもしれません。
お礼
それはあなたの価値観であって普遍的なものではないでしょう。製造物なら原価から価格を計算することは出来ますが、命の原価はいくらなのでしょうか? 本題からは逸れますが、保険金目当ての殺人はまだ理解出来ますが自殺はどういう心境なのでしょうかね?命を犠牲にしてまで守る物が存在するこの世界は、あなたとはもう二度と縁のない世界になるんですよ。神も宗教も生きている人間は救えるかも知れませんが死者は救えません。
- nagata2017
- ベストアンサー率33% (6891/20374)
普段 なにごともなければそれが基本ですけど なにかあると変わってきます。 沈没する客船から救命ボートにのる順番 「女性と子供を優先します」というセリフはよくあるみたいですね。 実際の場面にでくわすことはめったにありませんが 映画やドラマでは見かけるセリフです。
- tetsumyi
- ベストアンサー率25% (1948/7539)
年齢で命に軽重はあるでしょう。 年取って何もできなくなって社会的にも家族的にも負担となっている人の命は軽くなり、死んだとしても仕方ないとしてそれほど悲しむこともなくなります。 さらにこれから医療崩壊状態となって、エクモを誰に付けるか選択を余儀なくされるなら当然若い人を生き延びるように助けます。 政府そのもの結局は経済第一で自殺者が出ないようにGotoを続けるのも、年寄りが死んでも若い人が楽しむようにしてるのでしょう。
お礼
そのような本音をこの1億総マスク社会は覆い隠したまま窮屈に生きているような気がします。この国の善良な国民は物理的なマスクだけではなく心にもマスクをしますからね。 コロナに関係なく余命幾ばくもない高齢者を守るために国民総自粛生活など本末転倒も良いところではないでしょうか?
- rokutaro36
- ベストアンサー率55% (5458/9820)
質問者様のおっしゃることは分かります。 その論理で行けば、高齢になられた上皇様には、万一の時、治療を施す必要はないということになります。 また、70歳で分けるとしたら、69歳11ヶ月と70歳0ヶ月を分ける理論的根拠は何か? という問題に直面します。 そんな理論的な根拠があるはずがなく、結局、分けられないのですよ。 残された時間という考え方も、一見、正しいように見えますが、 Aさんが、あと50年生きるのか、5年しか生きられないのか、神のみぞ知る、ですよ。 年齢で切るならば、20歳で重病を患っている余命数年の人を助け、70歳で健康な人を切るということです。 それが、正しい基準でしょうか?
お礼
天皇のような特殊人物の話はこの際置いといてください。触れるだけでも発狂される方もいらっしゃいますから^^ 免許返納の件でもそうですが、何歳までとはっきり区切る根拠は確かに乏しいです。事情は人によりますからね。ただし緊急避難のようにどちらか一方の選択を迫られた場合は、相対的に若い方を選択する合理性はあると思います。 何歳まで生きるかは誰にも分かりません。ですから平均寿命に基づいた期待余命を判断基準にせざるを得ないのです。期待余命はその人の健康状態も加味して医者が判断すべきだと思います。
- g27anato
- ベストアンサー率29% (1166/3945)
その論には疑問が生じる。 年齢比較だけで極論するなら、 「40歳より10歳、20歳より1歳を優先」で良いのか?…という事になる。 なぜ、大多数の集団社会において「長老≒指導者」的な価値観が存在するのか?…という疑問が湧いてくる。 最終的な命の選択の段階では「残されている命の時間の長さ」も価値比較の一つとして選択肢に入って来るが、それと年齢とは別の捉え方。 …性急に結論するには、何かが不足してないか? 「○○、△△だけで、命の軽重は判断できない。」とするのが正しいのではないだろうか。
お礼
確かに仰るとおりで、年齢以外にも人格面や社会的重要度など多面的に判断する必要はあると思います。 ただそうした基準は多分に主観的な評価になりやすいので、客観的に可視化可能な年齢を優先的な判断基準にすべきではないかと思った次第です。 時間は命の一部ですから、多くの人にとって最も重要な価値基準であるというのは共感を得やすいと思います。
- mink6137
- ベストアンサー率23% (595/2500)
>第三者の客観的な視点で見れば、やはり期待余命の長い若い人の命の方が優先されてしかるべきではないでしょうか? 心情的には全くその通りだと思います。 為政者はもちろん、多くのお年寄りもそのように思っていると思います。 しかし、為政者は口が裂けてもそれは言えないですよね! 従って、為政者の発言は >「年齢や性別、社会的地位で、命に軽重はありません。」 と建前の発言ぬなる訳です…。
お礼
言い忘れましたが、為政者ではなく、あるシンクタンクの研究者の記事でした。まあ為政者に近い立場ではありますが、やはりマスコミ向けにはそのような言い方にならざるを得ないでしょうね。 普段から日本は自由で民主主義の国だなどとしたり顔で仰っている御仁が、今のような非常事態となると手の平を返したように不気味なマスクで本音を覆い隠し行儀の良い善人に徹する。全くもって気持ち悪い世界です。そのような「善良な意見」が若い人を追い込み苦しめている現実にもマスクをかけて見えなくしていることに気付かないのでしょうか?
お礼
仰るとおりで「命の価値」というのをことさらに言い過ぎたかも知れません。命の価値はもちろんこの世で最も重いものです。どちらが重い軽いなどとそれこそ軽々しく言うべきではありません。 言いたかったのは命の絶対的な軽重ではなく、他者と比較した場合に、その人の存在が社会全体に与える価値の相対的な軽重です。命を天秤にかけざるを得ない状況で、いかに合理的かつ民主的に選択するかを迫られた場合、たとえ助かっても数年で寿命を迎える人よりは、確率は低くても残りの長い人を優先するのは、期待値(期待余命×救命確率)最大化の観点からも合理性はあるのではないでしょうか? そもそも高齢者は十分生きてきたから高齢者なんですよね?体の自由が利かない、体力がなく病気になりやすいのはつまり死が近付いている証拠です。そろそろ寿命が近いよという体からのメッセージだと思います。それに目を背けてアンチエイジングなどのシルバービジネスの餌食に・・・もとい、話が逸れました^^ 感情を優先していてはいつまでも物事は決まりません。冷徹ではありますが、緊急時においては期待値や統計的確率といった客観的な指標に頼らざるを得ないと思った次第です。