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「抜け駆け」について
日本史上「抜け駆け」は結構あるようです。 島原の乱の幕府軍が総攻撃時に一日早く抜け駆けしたらそれにしたがって予定より一日早く総攻撃に移ってしまったとか。 こういうのって、総大将にしてみれば (1)命令どおりに動いてもらいたい (2)戦闘意欲旺盛なのがよく伝わるので、本音を言うと抜け駆けは歓迎だ (3)命令出しても動かないよりいいから「抜け駆け」でも「命令通り突撃」でもどっちでもいい というような気持ちはあると思うのですが、どう考えているものなのでしょうか?
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抜け駆けは厳禁であるのが普通で、 抜け駆けの場合は「先駆け」の功績は与えないことになっていました。 これは統制が崩れるのを未然に防ぐための一般的な方法で、 常識的処置です。 実際、島原の乱でも、抜け駆けによって無駄に犠牲を出してしまいました。 抜け駆けは、功をあせった行為で、言わば、ズルです。 ズルして出世しようということですから、 抜け駆けはよくあることだったわけですが、だからこそ、 それを禁じて軍の統制をとることが総大将としては重要なのです。 だいたい結果オーライで済ます軍というのは、後々に大敗北を喫したり、 家臣の増徴、反逆を招いたりします。 孫子の兵法を初めとして、古今東西のあらゆる軍学が統制の重要性を論じています。 統制がなければ軍隊は機能しません。 戦闘意欲が旺盛というだけでは、ただの烏合の衆にすぎないわけです。 命令どうり動かないというは、論外です。 命令どおりに死んでくれるような軍でなければ、統制が存在するとはいえません。 孫子は、王の命令で後宮の女官たちを兵に見立てて訓練し、 命令どうりに動かなかったために、隊長であった王の寵姫の首をはね、 命令どおりに女官たちを動かして見せました。 これが軍事組織の基本となります。 抜け駆けは、一見すると勇敢な行為ですが、全体の統制を乱すという点で、 敵前逃亡と同じです。優秀な総大将ならば厳罰にしたでしょう。 島原の乱では、総大将が軽格の板倉重昌で、西国の諸大名が従わなかった。 これが緒戦でつまづいた大きな理由です。 また結果オーライだった旧日本軍の体たらくは、言うに及びません。 15年戦争の勃発やその後のさまざまの失態は、ある意味で、 結果オーライの精神のせいであり、数多くの無能の人物を無罪放免にしました。 統制と責任がいかに重要か、ということです。
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- komes
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no4の回答者です。 抜け駆けにも色々あるのは個人ないし数人による場合は全体行動への影響が少ないのでどちらかといえば奨励される場合がありました。 たとえば、一番槍、一番首、一番乗りなど味方の戦意を高める行為は感状ものです。 しかし部隊単位での行動となるとケースバイケースのようでした。 おそらく結果次第だったのでしょう。 関ヶ原合戦で西軍の宇喜多軍に対し家康の子息が井伊とともに行った抜け駆け攻撃は戦い開始の狼煙となりました。 これは宇喜多勢と対峙していた福島勢が相手が主君筋にあたるため攻撃をためらっていたのを踏み切らせるためで、結果は大勝利でした。 抜け駆けの失敗例は賎が岳合戦での柴田軍の突出でしょう。 佐久間玄蕃が緒戦の勝利に慢心し主将の撤退命令に従わず、秀吉軍の急速な引き返しに狼狽し退却し全軍の狼狽を招き、潰走しました。 島原の乱では寄せ手に相手を見くびった誤算と戦費の節約を考慮した配慮が抜け駆けを招いたふしがあります。 農民の一揆に宇喜多浪人など歴戦の武士が合流していることに気づかなかったため成功しなかったといえましょう。
お礼
組織的行動が問題になってくる場面であれば当然忌避されるべき方向ではないでしょうか。関が原にそういう思惑があったのは知りませんでした。
- komes
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抜け駆けにも色々あってケースバイケースで処理されたようです。 結果よければ良しとするのはあくまで結果論で黙認という悪習慣を生んだわけで決して褒められることではありません。 凡庸な主将であれば黙認するでしょうが、軍事というのは行動に規制がなければ破たんします。 命令なしの勝手な行動は統制違反として厳罰にされるのがふつうです。 島原の乱ではまだ戦国の気風が濃厚にのこっていたのと、主将の板倉が小藩の領主で軽くみられたことが原因で、このことを恥じて彼は総攻撃を強行して戦死してしまいます。 後任の松平伊豆守は老中で厳重に抜け駆けを禁止し、力攻めを避け兵糧攻めにして乱を平定しました。 戦闘における戦術、戦略は合議制であっても最後は主将が責任をもって決断するものです。 これが出来なければ主将失格です。
お礼
軍事は皇道に規制がなければならないのでしょうね。226の大臣告示なんいうのはその伝統を侮辱した最たるものでしょう。しかし、松平も力攻めをとめることは成功しても、抜け駆けを徹底禁止することはできなかったのではないかと感じています。というか、もう攻めるほうも限界まで待たされたという感じでしょうか、あそこまで兵糧を徹底させていつまでも突撃しないのではないか?というのもやりすぎではなかったかと。 しかし、基本は大将命令が、たとえそれによって戦況が多少不利になるにせよ、徹底して守られるというほうが統率しいては作戦の成功ということに寄与するのではないでしょうか? もっとも、武家諸法度によって、幕府の命令があるまで各藩は兵を動員できないということが守られたために、乱の平定が遅れてしまったということがあり、その「抜け駆け」を認めていればという拡大解釈もできなくはないかもしれません。
補足
島原の最後の総攻撃で、抜け駆けあったと記憶してます。
- tanuki4u
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http://ja.wikipedia.org/wiki/葛西清重 たとえば、葛西の抜け駆けは、なんら責められることなく、その時の総大将 畠山重忠は http://ja.wikipedia.org/wiki/畠山重忠 引用「「先陣を賜っている以上は功績はすべて自分のものである。先登をせんと張り切っている者たちを止めるのは武略の本意ではあるまい」」 と構えています。そして畠山重忠は鎌倉武士の鑑と言われています。 === 1,2,3の選択というと、当時の通信手段のレベルを考えると、3ではないですかね。関ヶ原でも、霧が晴れたら、敵が前にいたという感じですし。
お礼
実際上、命令に従うよりも、臨機応戦しようというほうがいい場面もあるのかもしれません。つまり、ケースバイケースという感じですが、その判断は非常に難しいし、統一させることも難しいと思います。
- tanuki4u
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総大将と各部隊長との関係が近代社会とでは違うので、総大将としたら 「結果オーライ」 です。 キッチリとした上下関係があるわけではなく、「この指止まれ」で、集まってきた同輩の集まりというのが少なくとも明治以前の軍隊の基本です。 全軍としていちおう意思統一をしながらも、各部隊は、自己責任で参加して自己責任で戦闘しているというのが実態になります。関ヶ原の戦いで、○○殿は、■■に布陣していただけるだろうか?などと、命令口調でやっていないのが端的にこのことを示しています。
お礼
連合軍ではなく、それぞれ軍閥的?に集まったという感覚でしょうね。なので、抜け駆けはそれほど厳密に処分しようとか言うことにもならないのですかね。
お礼
ごもっともだと思います。 目が覚めた思いです。日本の軍隊体質だったのでしょうか。 烏合の衆が強いはずはないですからね。ましてや島原でも犠牲が増えたとすれば。 板倉は過酷な年貢を取り立てた上に、不要な城普請を強制工事させるなど、自らの矮小さをなんとか粉飾したかったのではないでしょうか。それが幕府にキリシタンに対して甘いのではとにらみを利かされると、強いものにはそれ迎合だといわんばかりに、すごい弾圧をしきました。こういうことが一揆の背景でもあります。一揆を起こさせるような支配者にはすなわち度量がないということの証明でもあります。 今回のご回答で、あらためて、抜け駆けはずるである、という至極当たり前のことを認識できました。