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赤穂義士の人数
毎年おなじみの赤穂義士。 最近、四十七士は本当は47人でなく、最後の切腹人数も、と言われたんですが、その人も、本当は何人だったか知らない。 どなたか、知っていたら教えてください。
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切腹したのは46人ですが、実際に泉岳寺に眠っているのは45人(墓自体は48あります)です。 これに、毛利家に預けられていたが切腹後、親族の中堂又助に遺骸を引き取られ築地の本願寺別院に埋葬された間新六と、討ち入り後、四大名家(細川、久松、毛利、水野)にお預けとなった浪士たちにも含まれない、寺坂吉右衛門を加えた47人であると言うのが一般的な説です。 おそらくbonnnouさんの言うとおり、寺坂吉右衛門の取捨が問題かと思われます。 余談ですが寺坂吉右衛門に関して 彼は組頭であった吉田忠左衛門の部下ですが、討ち入り後、幹部達が送った手紙と、「堀内伝右衛門覚書」の中に、はっきりと討ち入りに参加していない旨が書かれています。 しかしその後吉田家縁戚である伊藤家の文献に、泉岳寺の門前で大石等幹部達に赤穂へ赴くよう説得され、播州へ行った経緯が詳細にわたり記されています。幕府の追求を避けるためにあえて逃亡と記したのが本当のところのようです。
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- bonnnou
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寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん)が、 討ち入りに参加したのか、 討ち入り後、逃走(逃げたのか)? の議論があります。 彼は、「足軽」という身分であった為、武士のように切腹するにしのびないとして、大石内蔵助が逃がしたとか、大石が、寺坂を、全国に散った、浪士の家族に討ち入りの様子を、伝えるように、逃がしたとか、いろいろ、映画や小説で、その作者の思い入れをいれて、描かれているようです。 しかし、最後の、脱落者ようです。 討ち入り、直前は、全員(46人)が、1箇所に集結せずに、吉良邸に、出発しました、つまり、それまでに、討ち入りの集合以前に、書面等々用意が完了しており、そこに、「47人」の名前が連ねられていたわけです。 その書面作製以降に、寺坂吉右衛門が、脱落したようです。 後年の、寺坂の書面が見付かり、「討ち入りに参加したかった」旨の記載が、 あったと聞いたことがあります。 従って、47士は、 47-1=46人だったとなります。