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美人というものについて

私は男なので、男の観点から質問します。 私にとって、「美人」というものが、そうでない人に比べて、圧倒的な存在感を放っています。人間の中身は美人も不美人も優位な差はあるのかないのか分かりません。美人に性格不美人は少ないと感じている程度です。なのでやはり人間的にひきつけられている訳ではないと思うのです。 つまり、かなり純粋に視覚的感覚的評価によって、その存在感が圧倒的に大きい。ほかなんてどうでもいいと思うくらいに私の心の中で突出してしまっています。 こういう、ただ偶然に見目形が美しいというだけで圧倒されてしまうという私の感性、あるいは世の中の価値観というもの、その状況というものは、人間不平等という観点からも軽視できない問題であると思います。 「美人」の問題に対して、どう考えていけばよいのでしょうか?

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  • anatman
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回答No.7

「美人」と「美人ではない人」に平等性が感じられないということですが、それはそうかもしれません。しかし、「美人ではない人」は不幸であるとは私は思いません。「美人ではない人」は、美人ではないことの「苦しみ」を知っています。 「苦しみ」と聞くと、どうしても避けてしまうのが人間ですが、しかし、「苦しみ」が無ければ、私たちは成長しません。「美人ではない人」は社会生活において、何らかの差別を経験することと思います。「他人は認められるのに、自分は認められない。」そのような思いに、何度心を痛めることでしょう。「自分は負け組に入ってしまった」と思い悩むかもしれません。 しかし、「負けること」がなぜ悪いのでしょうか。そもそも、この欲望社会において、「勝つこと」とは、「他人から奪うこと」を意味します。異性だけでなく、権力や名誉なども、他人との比較によって成り立つものであり、他人から奪わなければ自分は得ることができません。果たして、他人から奪うことに、喜びを感じていいものでしょうか。「自分が苦しんでいるからこそ、他人が幸福を感じることができるんだ」と考えることが出来たならば、その人の「苦しみ」は「喜び」に変わります。 また、自分がその「苦しみ」を乗り越えることが出来れば、同じ苦しみに心を悩ませている人を助けることができるかもしれません。一見「苦しみ」に見えることでも、見方を変えるならば、「喜び」とすることが出来ると思います。 一方、「美人」には苦しみが無いかといったら、そうではないと思います。欲望には際限が無いものですから、十分に美人であると客観的に見えたとしても、さらに整形手術を繰り返す人だっています。何かの事故で、顔に怪我でもしてしまったならば、その苦しみは「美人ではない人」の比ではないと思いますし、年をとれば勝手に顔は崩れてきます。いままで、もてはやされていた自分が、今度は見向きもされなくなる。衰えていく自分にもどかしさを感じるかもしれません。 大切なのは、美人であろうとなかろうと、そのことから何かを学ぶことだと思います。そして、その学んだことを多くの人に還元できれば、幸福は自ずとおとずれます。ですから、「美人」と「美人ではない人」が不平等であっても、私はよいと考えています。

garcon2000
質問者

お礼

人間社会全体を考えると、美人と不美人がいるという理不尽なる事実、その効用というものが判る気がします。回答者さんのお考えに賛成です。世の中「落差」がないと動きませんからね。いろいろな価値観人生観が作られていくその要因のひとつの問題です。 しかし、これは世の中に備わっている「悲劇」です。なぜ世の中はこんなにひどいのか、つらいのか、苦しいのか。そういう問題になっていくはずです。 私も、自分が苦しんでいることで始めて人の苦しみが実感できると考える次第です。いわば「苦」の課題が世の中に与えられているのでしょうかね。

その他の回答 (18)

  • mijinco
  • ベストアンサー率25% (87/346)
回答No.9

みごとな自己洞察だと思います。 ただ、自分の中の何か?が成長していくにつれて、 「ただ偶然に見目形が美しいというだけで圧倒されてしまうという私の感性」 は、変わらなくても、 何が美しい(美人)と感じるかは微妙に変化していくように思います。 その微妙な変化が、本質的にな部分に影響をしていくかどうかは分かりませんが、、「人間不平等という観点からも軽視できない問題」は、私たち自身の内面の成長と大きく関連していると思います。 「美人」の問題は、私たち自身の内面の成長(それが何なのかと言われても困りますが(^_^;))の問題でもありそうです。

garcon2000
質問者

お礼

たしかにそうですね。なにか大いなる矛盾という名の課題でしょうか。宇宙にはいろいろ考慮すべき実態がありますね。それは価値観道徳観を生むます。たとえば、隕石衝突は破壊と金属鉱山を同時に生み出すとか。物事の循環と光と影そういう不変的な法則性をしめしています。 この美人不美人もこの種の問題の臭いがします。

  • usupita
  • ベストアンサー率3% (1/27)
回答No.8

>圧倒されてしまうという私の感性、あるいは世の中の価値観というもの、その状況というものは、人間不平等という観点からも軽視できない問題であると思います。 軽視するしないではなく、別に特に考えるに値することではないと思う。 圧倒されるなら、それはそれでいいと思う。 なにか、難しく考えすぎでは? 美しいものは美しく、醜いものは醜い。 世の中の、普遍の原理ではないですか?

garcon2000
質問者

お礼

その世の中の「残酷さ」に対する耐性が多分私にはないのです。子供のときから変わりません。ドライになれないのです。

  • neoemmma
  • ベストアンサー率0% (0/4)
回答No.6

美人はいい。と私は考えます 美人の基準は確かに十人十色ですが美人はいいと思います なにより美人は自分自身の美を磨くために努力をしているので 努力しない不美人より人間的にも好感が持てます garcon2000さんが美人に惹かれてしまうのは わかるような気がします

garcon2000
質問者

お礼

美人はやっぱり、その心にも「気高さ」というものが植えつけられるというか、そういう作用を促します。だから、美人であまり荒れた性格とか怠け者とかいないですね。ここが「美人」効果のもっとも最たるものかもしれません。

回答No.5

なんだか大げさに哲学ぶって語っていますが、要するに あなたは、メンクイというだけでしょ。 そうでない人もいますよ。私は美人は鼻につきますので あまり好きではありません。

garcon2000
質問者

お礼

そうですか。それは大変人格者的だと思いますよ。でも私が面食いなのは確かです。それも重度です。だから、女性との付き合いの可能性が低くなってしまいますね。 なかには、回答者さんのような珍しい方もいるのですが、やっぱり世の一般的感覚風潮として、多数の美人支持というのは問題がある気がします。

  • tappara
  • ベストアンサー率37% (260/694)
回答No.4

いいんじゃないですか。美人が好きなのはあたりまえでしょう。 というか、美人の定義自体が人によって違うわけで、質問者さんの美人が僕の美人と一緒ってわけじゃないんですよね。 であれば質問者さんの美人は自分が視覚的に好きな容姿ってことでしょ。好きなものは好きなんだからあたりまえでしょうと。 人は中身だって言うは人は見た目だって言う人と一緒だと思いますよ。 どっちも偏ってる。結局その人がいいってのは全部ひっくるめていいなってことでしょ。 他なんてどうでもいいって書いてますけど本当に見た目だけで他は気になりませんか? 見た目はやはり足きり点的にはありますよね。そこで興味なかったら進みませんし。でもこの見た目の判断は人それぞれですからね。統一的な美ってのが定義されてるわけじゃないです。(一般的な美人が特ってことはあるでしょうね) 人間不平等ってことですが、まあ多分不平等なんですよ。でも、僕と質問者さんの美人の見方が違ってるわけだし、そうなら全体ではそんなに偏らなかったりするんじゃないかな。 (僕がピーマン嫌いでも好きな人は存在する。)

garcon2000
質問者

お礼

人類共通の文句なしの「美人」というものが存在すると思いもいますね。あるいは、3割の人が美人と投票する人と8割の人が美人と投票する人、おなじ「美人」という言葉でくくっていいのか疑問です。回答者さんと私が共通認識できる「美人」も大いに存在するでしょう。 人は「中身」だというけど、本来「中身」だって肉体との総合物ですからね。肉体と精神なんて交わってしまって2文なんてできません。だから、「総合」体を考えれば当然「美人」は好ましいものです。 他なんてどうでもいいというのは、もし「美人」とそうでない人が固まっていた場合、その特定の一人の美人だけが突出してしまって他はどうでもいいという意味です。もちろん美人の中身は気になります。

noname#91529
noname#91529
回答No.3

美人という言葉は、男性が、「区別」と称して、 全ての女性をそれなりに「差別」する為に 作った言葉です。

garcon2000
質問者

お礼

昔「美人画」とかいう一般名詞がありましたね。これはほとんど「美というのが意味を持たない装飾的便宜的なものだったような気がしますが、元はといえば「かくあれかし」という心情から習慣化したものでしょう。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.2

美貌と礼儀は初対面のときにだけ役に立つ。 フランスのある有名な哲学実践家の言葉です。私もこのことに賛成です。 昔から言いますね、「美人は三日見ると飽きるが、ブスは三日見ると慣れる」と。これも心髄を突いた言葉です。毛利元就の次男吉川元春が、またとない不美人で有名だった熊谷信直の娘を娶り、彼女をこよなく愛した話は有名ですね。 蛇足:新婚さんには何か特別なホルモンが3年程出ているのだそうです。そのホルモンは人間を馬鹿者にしてしまうのだそうです。3年経つと二人とも我に返るのだそうです。だから夫婦が本当に相手の人格を認められる仲になるには、最低3年は掛かるそうです。若い方が美人に憧れるのも、その類いのホルモンのせいなんでしょうね。そのホルモンが出なくなるか、あるいは克服したときにはじめて、動物としてのレベルでなく、人間としてのレベルで哲学が語れるようになるのでしょうね。吉川元春の場合は、勿論そのホルモンを克服した方ですね。

garcon2000
質問者

お礼

かなかな春元というのはできた男のようですね。結婚し長期生活に入ると、おっしゃるように美醜というものはだんだん価値観を失っていくのかも知れません。 しかし、一方初対面や、恋愛段階やら、就職やら何やらかんやらで感じられる不平等感(本人にも他人にも感じられる)そういう軽薄なる心情というものに対して、どう考えるだろうと思います。

  • umach
  • ベストアンサー率35% (600/1691)
回答No.1

美人=遺伝子が整っている女性? 見栄えの良い女性が美人と定義するとそうなります。(性格は無視) その遺伝子を残そうとする欲求が人気なのかな。 見た目が良いと存在感が大きいというのは、主観ですよね。 盲人がそう感じるとは思えません。 更に言えば、その美人は数十年後でも存在感は変わりませんか? 生物の生存欲求が、惑わせる原因みたいですね。 その程度の認識しか持っていませんが、糸口ぐらいにはなりますか?

garcon2000
質問者

お礼

私もそれを考えました。 しかし、 生物的にたくましい=美形である というのは必ずしも成り立たないような気がします。もちろん不利ではないのでしょうが、必ずしも頑強であり強健康体であるここと、美形は結びつかない。ゆえに、生物的に強いものをということではないらしいようです?

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