暮らしの少数派と多数派
暮らしの少数派と多数派ということについてですが
例えば、若い頃の家庭環境や、多忙な環境を過ごしてきた場合は、
その忙しさや張り詰めたスケジュールなどが沈静化すれば、それが幸せで、そこには問題が無いと思いがちになる気がします。
逆に、落ち着いた環境などを過ごしてきた場合は、そこに潜む問題も知っていることから、忙しさの中に達成という幸せを見いだしていくということがある気がするのですが、その働きには、
こうした落ち着いた環境とは反対の、多忙な環境で過ごしてきた人々の、「幸せを求める働き」が、
物事を達成しようとする、落ち着いた環境からの「達成しようとする働き」の人々とは逆行する働きになっているということなのではないでしょうか。
タイトルの暮らしの少数派と多数派というのは、多忙な環境からの意見は、幸福を得るために問題を沈静化させるという幸福の概念。
落ち着いた環境からの意見は、幸福を得るために、ではなく、幸福を得るために「は」沈静化ではなく、解決のための達成を求めるという多忙を求めていくのではないかという感じです。
暮らしの少数派と多数派、少数派は、弱いという印象がありますが、問題の解決を求めていることを多数(多忙)派からは中々わかりずらいのかもしれません。
何故なら、問題を知識や勢力などのそれこそ多数派で沈静化させることが解決だと思っていることに対し、
大人になっても問題は出てくるのに、問題を解決しようとせず、誤魔化しや上辺で沈静化をはかる人々を見て、多数派がおさめたい事態を少数派が解決を望む事は、多数派には事を「荒立てている」ように見えるのだと思います。
要するに、日常的にある問題でも、解決と誤魔化しでは過程が違ってきます。
その誤魔化しが、多数派となっているようにも思います。
誤魔化しは、物事のバランスや折り合いというものからはかけ離れ、結局は表面上で解決を装って、事態の沈静化を図っているのです。
長文になってしまいましたが、
暮らしの少数派(平常)と多数派(多忙)、問題の解決と沈静化の衝突。
皆様はこれらに対し、どのような印象、意見を持たれますか?
お礼
便秘続きに爽快な一本糞ひねり出した気分です。 そんな回答です。 ありがとうございました。