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Hawkinsの統語解析
Hawkinsという言語学者が文の要素が文末に移動される理由は聞き手の理解を容易にするためだと言っているものを最近目にしました。でもその一方、要素が文末に移動されるのは焦点化されるためだというのも目にしました。このような言語の運用能力とチョムスキーの言う言語能力とは結び付けられるものですか?なんかとんちんかんな事を言っているかもしれないのですが、どうしてもこのような、いわゆる右方移動構文について勉強したいと思っています。でもなかなかどのようなアプローチで取り組むべきかわからなくなってきまして、困っています。詳しい方、何かアドバイスお願いします。
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具体的な例がないとお答えしにくいのですが。 一般に、左側には聞き手もよく知っている情報を置いて主題とし、右側には聞き手の知らない情報を置いて焦点とする、といわれます。たとえば、 I gave a book to Mary. I gave Mary a book. であれば、上の方は「誰に本をあげたかといえば Mary にだ」、下の方は「Mary に何を挙げたかといえば本だ」という意味になります。 ただしこれはあくまで一般論で、どちらの文でも I に強勢を置けば焦点は「私」になります。これは英語が語順によって文法関係(主語とか目的語とか)を表す言語なので、あまり自由がきかないからです。 さて、Hawkins というのは Efficiency and Complexity in Grammars John A. Hawkins でしょうかね。もしこれでしたら、私はまだ読んでいませんし、たぶんこれからも読まないでしょうから、あまり無責任なことはいいたくありませんが、目次と序文を読む限り、機能主義的形式文法という感じでしょうか。 正直に言って木に竹を接いだような印象を持ちます。機能主義とチョムスキー的な形式文法は水と油のような関係だからです。Newmeyer のように、互いに補い合う関係にあるという人もいますが。 ただ、そういう「哲学的な」問題は些末なことです。いわゆる右方移動構文がどういう場面で用いられるのか、という点を研究されたいのであれば、Hawkins はもちろん、久野すすむや高見健一などの著作を読むべきでしょう。そうではなくて、あくまで形式的にどのように派生されるかに興味がおありなら、Chomsky派の著作を読まなければなりません。 具体的に言えば、 I gave a book to Mary. I gave Mary a book. という二つの文をどのように派生するかに興味があるか、この二つの文をどう使い分けるかに興味があるか、によって、道が分かれるわけです。これはあくまで個人の趣味の問題であって、どちらのアプローチが正しいとかいう問題ではありません。
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どうもありがとうございます。 HawkinsのPerformance theory of order and constituencyで紹介された早期直接構成素の原則に少し興味をもちまして。本当は機能主義の研究より生成文法をやれればいいのですが、どうしても敷居が高くて今少し語用論の方向へと傾いてしまっています。その中で早期直接構成素の原則を見つけて、この主張は人間の統語解析の効率性について謳っているので、少し生成文法の言語能力と関連付けられるところがあればなあと思ったのです。そういう、少しでも言語の運用と能力の結びつきを修士論文の研究計画レベルで書ければ嬉しかったのでこの質問をさせてもらいました。