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翻訳された文学はどれくらいの価値を持つのですか。
こんばんは。 私は「文学」は学問としてあまり知らないが、文学というカテゴリーに入る小説などは読む、という人間です。 また私は英語に興味を持ち長い間勉強したためある程度の英語力は持っていると自負しております。 そこで、英語ができるようになると、英語だからこそ生きてくる表現や、西洋文化圏での考え方(これはヨーロッパ発祥の言語とも結びつきが強いと思います)を理解してから表現を理解しないと分かりにくいものがたくさんあると思うようになってきました。 そう考えると、翻訳されている文学作品(日本語へ、日本語から、ともに)はどれくらい価値を持ってくるのか分からないのです。 原書ではなく、翻訳された文学でも、作者の意図というのはきちんと伝わるものなのでしょうか? 翻訳というフィルターを通る事によりどういう変化が出てくるものでしょうか?ご意見をお願いします。 ここで翻訳をお仕事になさっている方等に少し気を悪くさせる可能性のある質問であることをあらかじめお断りして謝らせていただきます。 また、文学をされている方にとっては浅はかな質問にうつるかも知れませんが、大目に見てくださいますようお願いいたします。
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質問者さまはとても真面目な方のようです。そんな方にこんなお気楽な回答ではご不満かもしれませんが。 わたしもこれはたまに考えることです。やはり言語は文化風土とわかちがたいもので、まったく違う国の言葉で出来ることには限界があるでしょう。 でも価値、ですよね。価値はあるのではないでしょうか。それは「作者の意図がどれだけ正確に伝えられるか」という方向ではなく。正確さに全ての価値を求めるなら翻訳に価値はない、と言い切ってしまってもいいかもしれません。 植物と同じですね。気候風土の違いで、色が違ったり大きさが変わったりするのはよくあることでしょう。本土の花を知っている人が「こんなの○○(植物名)じゃない」ということもあるでしょう。 ただ植物には命がありますからね。最高の美ではないにしろ、命があるだけでそれはすばらしいんだ、と考えることも出来るかと思います。それが価値といえるものではないでしょうか。 (注:このたとえ話に日本固有種の保護とか植物検疫問題とか、増えて困っているセイタカアワダチソウの話とかは関連させないで下さいね(^_^;)) また、本土と違った美を持つ花が生まれることがあるかもしれません。それも一つの可能性、価値といえるものだと思います。この場合書いた本人にとって、それがいいことかそうでないかはそれぞれだと思いますが。 もっとシンプルなことをいえば、翻訳であろうとなかろうと、読んで人を動かす本なら十分価値はあったということですよね。たとえばものすごくわかりやすいところでハリーポッター。わたしはあの翻訳はどうも違和感を感じるのですが、翻訳に価値がないといって誰も試みなかったら、世界であの話を読むことが出来る人は激減していました。あの本を愛する人々にとっては、その国の言語に翻訳された数々のハリーポッターは(大げさにいえば)福音なのではないのでしょうか。どの本にも同じことがいえます。繰り返しますが、正確に伝わることだけが「文」にとっての価値なのか。ポイントはここをどうとるかだと思います。 厳密に考えれば、では母語なら作者の意図は完璧に正確に他者に伝わりますか?わたしにはそうは思えませんね。人間は自分の中にあるものでしか勝負できないものですから。たとえばわたしがこう書いている文章も、他人に100%完璧に理解されることはないでしょう。もちろん言葉足らず、要旨不明解などの理由もありますし、それに結局言語は本当に厳密な意味では誰も同じものを持っていないのです。 ということは、翻訳にしろそうでないにしろ、まさに「五十歩百歩」ではないでしょうか。 ですが、やはり別して詩(などの韻文)に関しては翻訳というのは……というのが正直なところです。しかしアキラメてはいけない。最初に戻りますが、別な美を持つ花を咲かせることもあるかもしれないのですから。 全て世の中こともなし 以上です。
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- ranx
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ご質問を拝見し、タルコフスキー監督の映画(タイトルは忘れました)に有った一場面を思い出しました。 ロシアの詩を翻訳で読んだというイタリア人(だったと思う)の女性に対し、ロシア人の詩人が言い放ちます。 「(詩集を)捨てろ。詩の翻訳など不可能だ。」(日本語訳-笑) 文学作品と言ってもいろいろありますが、確かに韻文の作品は言語自体に依存する部分が大きく、それだけ 翻訳に不向きだとは言えるでしょう。それに比べると、散文の作品は言語自体よりも表現される内容 (とりあえずこう呼んでおきます)が主となるので、適切な翻訳によって、他の言語で表現することも 可能であるように思われます。森鴎外の訳したアンデルセンの「即興詩人」など、原作よりも優れていると 評した人もいたほどです。 ところで、文学作品に限らず、一般的に芸術作品に客観的な価値というものは有るのでしょうか。「有る」という 考え方が一般的になることによって利益を得る人々というのは存在します。作品の作者、出版社、文学賞などの 主催者等です。「価値」が権威づけられることによって、お金を払って鑑賞しようとする人が増えるからです。 しかし、それは芸術というものの本来の有り方と言えるでしょうか。先日、「地球交響曲」で知られる映画監督の 龍村仁氏がこんなことを言っているのを耳にしました。正確な表現は忘れましたが、「映画はそれを見る人が いて、初めて映画として成り立つのだ」というようなことでした。これは他の芸術活動についても言い得ること だと思います。表現する人がいて作品が生まれる。作品を鑑賞する人がいて、共感や感動が生まれる。こうした 一連の活動が芸術であるとするならば、芸術というのはコミュニケーションの一種であると言いうると思います。 話は変わりますが、communicationという語がコンピュータの世界で使われる場合、それはほぼ100%「通信」と 訳されます。発信元にある情報が完全な形で受信側にコピーされます。コンピュータの世界でのcmmunicationと いうのはそうしたものです。それに比べると、芸術活動というコミュニケーションは、はなはだ不確かなものです。 芸術作品に触れて感動したとしても、それが作者の持っていた感動と同じである保証はどこにもありません。 むしろ、客観的に考えるならば、それらの間には、何らかの違いがあるはずだと思われます。同じ作品に触れても 違った受け取り方をする人もいるはずです。これは芸術というものの不完全さをしますものでしょうか。 そうではないと思います。むしろ、そのような「不確かな」手段でしか伝えることのできない情報(と呼んで いいのか)を持ちうるところに人間という存在の価値があるのであり、そして、そのようなものを伝えうるところに 芸術という活動の価値があると考えます。 市場経済において、価値は商品という形で具体化されます。そのような有り方に慣れきっている我々は、芸術 イコール芸術作品であると考えがちです。しかし、私は、芸術の本質は上に述べたようなコミュニケーションで あると考えます。再びコンピュータの世界の話で、「通信」によって伝えられるものは、時に「コンテンツ」と 呼ばれます。contents=内容ということですが、上のような観点から見れば、実は作品自体がメディアの一形態で あることに気がつきます。芸術という活動の環を構成する鎖の一つに過ぎないのです。 話を翻訳に戻しましょう。文学作品に表現されるものは、翻訳された作品でも表現できるものでしょうか。 「春眠不覚暁・・・」という中国語の詩を「しゅんみんあかつきをおぼえず・・・」と読んだら、我々はそこに 詩情を感じることはできないでしょうか。そんなことはないと思います。翻訳された文学作品であっても、 我々は何かを感じることができます。それが原作者の表現しようとしたものと完全に一致するものだとは 言えないでしょう。しかし、上に述べたように、それは芸術というコミュニケーションに不可避的に生ずるもの でもあります。翻訳を通して受け取ったものに満足する鑑賞者もいるでしょうし、より原作に近づきたいと 願う人もいるでしょう。後者のみが正しいということもできません。芸術という活動は、本来「正しい」とか 「間違っている」とかいった基準で評価されるべきものではないはずです。 結論としては、翻訳作品は原作と全く同質ということはできないと思います。が、それもまた文学という芸術活動の 一形態であることに間違いはないと思います。 主観的に脱線しながら書きましたので、分かりずらいようでしたら御免なさい。参考にして頂ければ幸いです。
お礼
お返事遅くなり申し訳ありません。 最初の「日本語訳・笑」の箇所は本当に「笑って」しまいました(^^)。 そこでも書かれているように、確かに韻文などは、表現が適切かは分かりませんが「言葉を手段としてのみで扱っていない」という点で翻訳には不向きなのかもしれません。散文は「”内容”を言葉という手段を通して表現する」という事ですね。そう考えると韻文の場合の翻訳は大げさにいうと「絵を文章にかえちゃいました」にもなりかねないのでしょうね。 この質問の動機になったことのひとつに、ある新聞の記事があります。それはロシア人一般の性格に関するものであり、そこには、「ロシア人は会話のとき会話を円滑にする為の笑い・smileがない。彼らはどちらかといえばそれを余計なもの、失礼なもの、という受け取り方をする」というようなことが書いてありました。 そこで、ロシアの作品で、例えば「そこで彼は笑った」と書いてある時の読み取り方がいままで違っていたのではないか、と思ったのです。会話を円滑にする為の笑いと勝手に理解していたのではないか。訳者もそれを知らなければ会話を円滑にする為の笑いとして辻褄が合うように他の文の訳も調整しているかも、と思ったのです。この違いが作品の理解に影響が無い場合もあるだろうし、もしかすると徹底的な違いをもたらす場合もありうるのでは、と。もっと主観的な事では、英語映画の字幕に「いやー、それは違うんでないの?」とか「このニュアンスは日本語で伝わりにくいよなあ」と思うことが多くなってきたのもあります。 ある意味で私の質問が間違っていたのかもと思いました。つまり質問は「翻訳をへてどれくらい原作品と同質のものとなりうるのか、どこまでの異質さならコミニュケーション可能なのか」ということかもしれません。 最後にもうひとつ。昔見た「大脱走」か何かの映画で(違う映画かも知れませんが)、何とか逃げ延びたアメリカ兵(かイギリス兵)にドイツ兵が検問で質問する。ドイツ語で。ドイツ語で答えて何とか誤魔化すことができた。最後にドイツ兵がひとこと"Good luck!"それに答えて"Thank you!"と言ってしまったアメリカ兵。次のシーンで機関銃の音。 ここで「よい旅を(幸運を)!」「ありがとう。」と訳したのでは、やはりそこで何が起こっているのか、何が表現されているのか、深くまで知ることができないと思うのです(もちろんこれは映画翻訳の話になりますが)。これに似たようなことがもっと大きな次元で、知らないところで起こっていたら・・・。それも気になったのです。 長々と書いてしまいました。いろいろ答えていただいたことをもっと検討し、思考の糧にさせていただきます。大変参考になりました、ありがとうございました。
- kino
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翻訳されたものに関しては、やっぱり翻訳者の思想や信条などが入ってくるのはしかたがないと思うのですが、それで価値がなくなると言えば、どうなんでしょうかね。たぶんどこに価値を求めるかにも関係してくるとは思います。 作者の意図は、やはり伝言ゲームのようになってしまうのではないでしょうか。 逆に、文学を翻訳なしで読んだとしますよね。でも、日本人ですから、いくら英語ができると言っても、日本人は日本人なんですよね。原文で読んだから価値があるとも言えないような気もしないでもないような……どっちやねんって(^^ ぼくは、レイモンド・チャンドラーっていう人の小説が好きなんですが、英語は読めないので、翻訳されたものを読んでいます。ひょっとして翻訳者のファンじゃないかと思うこともあるんですけどね(^^ ぼくも学者じゃないので、一素人の意見です。 お気を悪くされないように願います。
お礼
返事が遅くなり申し訳ありません。 確かに、この人の翻訳が好き、というのはありますよね。 この間、朝日新聞の「天声人語」でハムレットの翻訳者による違いのことが書かれてあって興味深く思いました。 ところで日本人は英語ができるといっても・・・の箇所には私は個人的には反対です(別に気を悪くしているわけではないですよ(^^))。 というのは、基本的に語学や他文化の価値というのは学習・経験によって身につける・理解できるものだと考えているからです。 最初のほうの、価値があるかないかは「どこに価値を求めるかにも関係する」とのご意見、参考になります。どうもありがとうございました。
お礼
お返事遅くなり申し訳ありません。 いえいえ、そんなに真面目ってわけでもないのですが・・・(笑)。 うーん、確かに自国語でも、同じ言葉を読んだ・聞いた場合でも同じように理解しているかは分からないという指摘、もっともですね。 そしてある文が、他の文化で別の「価値」が現れる可能性も確かにあり、それが「書いた本人にとっていいことなのか悪いことかはそれぞれ」という指摘も「なるほど」と思いました。 予備校のときの国語の担当教師が「すべての作品は世に出した時点で作者の手を離れるのだ」と言っていた事を思い出しました。なつかしい(^^)。 いろいろ考える参考になりました。ありがとうございました。