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自己のクオリア
自分自身を対象にするクオリアってありますけど、 このループした単純な系が狭い意味で自己の本質でしょうか。
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No.22を承けます。 かつて 《文体》という視点ないし主題として 考えたことがあります。以下のようです。 わたしの存在は わたしがわたしであるという自同律(アイデンティティ)の展開過程である。 自己到来するわたしの自乗・三乗・・・とその連乗積をかたちづくっていく過程である。わたしが一であるなら この冪は つねに一である。 わたしとは何か。わたしと名のる存在である。ここから わたしが自己到来をつねに新たに展開していく過程は 表現行為の過程である。一般に内面における自己還帰の確認は 広く自己表現として表わされる。外化される。直接・間接あるいは顕在・潜在を含め広く ことばをとおしての表現行為として展開される。 内面における自己同一性〔たるわたし〕そのものは 必ずしも定かになるわけではないが ことばの表現をとおして・もしくはことばを介した認識をとおして 了解し合われる。表情・振る舞いといったものも 解釈され これを ことばの表現として認識し了解していく。 かくて わたしの生きる過程は 文体として展開される。これらの限りで 文体行為の過程が わたしである。(Le style, c'est l'homme meme.) 文体の原則(命題): 1. 文体は 生活である。文体にはわたしが生きていることが先行している。 2. 文体は 生きることであるなら 過程行為であり 行為過程である。 3. 生活は 自然界や社会やの世界すべてを含む。《わたしの自乗》理論は 表現過程として あたかもこの世界のすべてであろうと欲する。ただしそれは 文体行為としては 一人の人間の一主観であるにすぎないというのも然ることながら その(=世界過程の)事後的な認識であるにとどまることが ふつうである。 4. 過程行為である文体は 《わたし》相互のあいだの了解を求める過程として展開する。各自のわたしに修められた主観としての世界観は 共通の基礎を問い求め 互いの共同化に進む。主観の共同化は 経験合理性にもとづく科学行為によってその基準が用意される。 5. 科学によってもたらされた新しいいわゆる客観認識を持ったとき わたしは ふたたび自己に到来し これを自乗・三乗して生きていく。 6.文体行為そして科学行為は いづれも わたしが生きることに後行している。科学によるあらゆる客観知を得ない場合にも 文体は 自己の判断によって表現行為に出発する。文体がいわば確立しておらず 自己の判断がまだ定まっていない状態にあっても そこに生きる人間は あたかも世界の絶対的な現実である。また 絶対的な現実であるゆえ 一人ひとりのわたしに 自らの文体行為が促されるであろうし 望まれる。 7. かくして わたしは 科学を補助行為として持ちこれを利用しつつ 文体過程として生きる。 ここからわたしたちの持つ課題は a. 文体とその補助行為たる科学との関係は如何に。 b. 文体の確立を目指すとするなら 科学のほかに(=その活用以上に) どのような補助行為があると考えるべきか。もしくは 補助行為以上の事柄があるのかも知れない。 c. わたしの自己還帰がもし間違っていた場合 これをどのように質し正すか。《わたし》相互の間では・さらには広く社会一般においては これをどのように行なうか。 これら( a ・b ・c )をまとめて 信仰を基礎に持った哲学思想の展開が 望まれる。 * 生命尊重は 人間優位にならざるを得ないように思います。 * 《非線形》については 考えていませんでした。たぶん 線形の動態として捉えていたのだと思います。残念。というより 非線形をおしえてください。
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- littlekiss
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こんばんは、bananasandさん。 ●あれ、ちょっと、まだ臭うのかなぁ。 ↑ ( ^O^).。oO。.。oO)))))∥( ><)たいへん 勘弁してよ、何食ったの? もしかして…ニンニク? えっ、本のレシピみて作った? どんな本? “絵本” 『ニンニクの絵本』 http://www.ehonnavi.net/ehon01.asp?K=%83j%83%93%83j%83N “強烈な臭いは薬効のもと”って? ふーん、そなの?“臭い”が手がかりね? 怪盗が狙うものの定番といえば… “宝石” どこに宝石があんのよ? ―――――― ありました。 『霧の夜に』 南部修太郎著 http://www.aozora.gr.jp/cards/000048/files/508_21402.html 『氣質と文章』 南部修太郎著 http://www.aozora.gr.jp/cards/000048/files/4859_14005.html ●蝉の声は、鮎の口元で鳴くんだよね。泡があるからね。。 【漱石枕流】 http://www.ajinomoto.co.jp/recipe/calendar/fish/fish_05.html “閑かさや岩にしみいる蝉の声”“ものいえば唇さむし秋の風” http://www.senjumonogatari.com/bashoutosenju.htm ほでも解せないんだよなー、泡。 この泡は、げっぷなんじゃないかなー? げっぷ…炭酸ガスとくりゃ、ここみとこっか 【炭酸ガスとドライアイスの歴史】 http://www.showa-tansan.co.jp/html/dryice/rekisi.htm 霧ーガスー街ーニュルンベルク 【ニュルンベルク裁判】 http://www.henkyou.vis.ne.jp/nurn-saiban.html 『ニュルンベルクのマイスタージンガー』 http://www.nntt.jac.go.jp/frecord/opera/2005~2006/meistersinger/meistersinger.html まくひきですか? そうですね、寒い季節になってきましたから お水使うと手荒れちゃいます。 手のケアもこまめにしておきたいものです。 アトリックスをちょとつけて 手に薄く薄くのばしましょっと(膜で保護)。 http://www.kao.co.jp/nivea/atrix/ うんじゃ、ぼちぼち芸術の方へジャンプ! おっと、その前に お届け物ひとつふたつ 【マトリックス】 http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20080215/293894/ 【ジャンプ】 http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20060420/235829/?ST=ep_office
お礼
トルエン臭に決まってんじゃん。 ほら、まだ、ウワ~ン、ワンいってんじゃんよ。 ちょっとの疲れたよね。 耳に残っているからさ、あの、鮎の塩焼き。バッタもね。 ほらぁ、ボールはパトカーの中だってよ。 たばこ、ちょうだいよ。ねぇ。
No.25です。 了解しました。 わたしも 変化(ないし相転移)について 触れ得ていなかったときにも 視野には入れていて 《わたし》の動態に含めていたと思うのですが この《わたし》の非線形なる動態について bananasandさんは 必ずしもわたしは触れておられると捉え得なかったのですが 視野におさめ 理論を得ているという情況だったのですね。 ということで 了解しました。
お礼
大変有意義なご回答(やり取りかな)が得られました。 文体については本当に目から鱗でした。感謝申し上げます。
No.24です。 幕引きの前に 互いのあいだの異・同として分かったところがありますので それをここに問うて 今後に臨みたいと思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この話のややこしさは、単に非線形の現象を客観的立場から観察しているのではなくて(氷と水)、一方の側からのみ自らの他方を観察しようとする試みになっているからです。水であるのに、自ら氷に成ることを説明しなければならないのです。あなたは、水なのに何をいっているのかと軽く突っ込まれます。 文体が時空間宇宙から遊離していることを文体で表現しなければならないのです。それは、無理なのです。パラドクスです。 この非線形方程式を、文体側からのみ解くことはできないのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 前半の例示のお話から入りますが 人間は 水にはならないという与件を出しても それは 単なる早とちりだとすれば つまり いや これは たとえだという場合には 次のように考えます。 ★ 〔人間が たとえとして言って〕水であるのに、自ら氷に成ることを説明しなければならない ☆ のではなく そうではなく 《〈水〉であるわたしが 自ら〈氷〉になるという予感を話す》のです。そういう文体行為です。科学を超えています。《予感》も クオリアだという強引な主張です。 ★ 文体が時空間宇宙から遊離していることを文体で表現しなければならないのです。それは、無理なのです。パラドクスです。 ☆ ところが 文体の主体つまりわたしは 文体行為という表現の以前に 時空間宇宙と同じ非線形なる動態です。 ★ この非線形方程式を、文体側からのみ解くことはできないのです。 ☆ そのとおりなのですが 文体行為に先行する生というものが 時空間宇宙とともに 動いてしまっているのだと考えます。 それゆえに ★ 《それを科学行為として 文章に表わし説明する場合》 これは単純に非線形現象を説明することですね。 ☆ ということで 科学行為と文体行為とを区別しようとわたしは していましたが その心は 別のところにあったと 分かりました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 自分が非線形である。クオリア所有者、文体表現者、文体受信者としての自分とANo.23 1. 文体は 生活である ところの文体は、 非線形であることが、発信地ですから大変です。 我々は、水なんだから氷のことなんて関係ないじゃん。と簡単に言われていまいます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このとき 最後の一文については 述べ得たと思います。前半の部分は これも まさに その上に述べたところと 同じことをおっしゃっているのではありませんか? ★ 自分が非線形である。 ☆ つまり 《クオリア所有者、文体表現者、文体受信者》であることにも先行する《生活者》が 非線形の動態であるということ。それとして ★★ 〔存在としての・自然本性としての〕自己の本質 ☆ は 想定し得るように思います。 そして そうであっても ★ 仮に、クオリアの直接移動が可能だとすると文体行為は不要となりませんか。 ☆ とはならないように感じています。以心伝心が起こってもかまわないのですが 基本的に 言葉を用いての 食い違いのある文体行為をとおして 人は 社会生活をいとなんで行くというように感じています。 みづからは そのクオリアにかんして 現象じたいとのあいだに 齟齬(遊離)があり クオリアを用いての表現にかんして 他者とのあいだに 差異を持ち そのように 言葉による表現において食い違いを伴ないつつも 文体行為が コミュニケーションの基軸でありつづけるように感じています。 たぶん その意思疎通のおこないにこそ 自然本性としての自由が 生きがいを見いだすのではないでしょうか。そうでなければ 神が人間社会に介入するか それとも 独裁者が出て ともかくまあるくおさまるという社会生活になるかだと考えられます。いづれでも 人は 奴隷に甘んじることになります。 はてさて 勘違い・勇み足を冒したでしょうか。
お礼
わたしとしては、この質問の >自分自身を対象にするクオリアってありますけど、 >このループした単純な系が狭い意味で自己の本質でしょうか。 は、否定されましたので、brageloneさんの上記多層構造へのご批判をうけて、論点がなければ、 閉じたいと思っています。 わたしがわたしのクオリアを持っていようがいまいが 多層構造のわたしは、わたしであり、 わたしとクオリアのループは自己の本質ではありませんでした。
補足
ご回答ありがとうございます。 >★ 文体が時空間宇宙から遊離していることを文体で表現しなければならないのです。それは、無理なのです。パラドクスです。 >☆ ところが 文体の主体つまりわたしは 文体行為という表現の以前に 時空間宇宙と同じ非線形なる動態です。 その通りですね。<同じ>とは時空間宇宙と同じであって、文体とは<異なる>非線形なる動態です。 自己(人間)は、多層構造で成っていて、それぞれの層の間は非線形です。 同一の自己であるにも関わらず連続していません。 解りやすく記憶、感覚、直感系を除いて直系の自己を縦に並べると、(以下造語ですのでご注意下さい) 最下層に物理層(時空間宇宙と同期)肉体や脳の変化です。 その上に、表象層 クオリアが現れている部分です。 そして、文体層 言語する部分ですね。 そして、わたしというのは、これら層を縦に貫いているのです。 どの層も わたし ですがそれぞれは非線形です。各層は とびとび です。 物理層は、クオリアや文体の土台であるにもかかわらず、これらを許容できる幅がありません。 いわゆる過去を保持できないからです。物理層にクオリアは入れないのです。 文体層にも、クオリアが入れるだけの幅がありません。帯域が狭すぎるからです。 この非線形方程式は、言語表現側で、解くことができません = 文語表現で、否定もできません。 感覚が、時空間宇宙を観察するとき、 観察対象と同時であるところのわたし側の時空間宇宙=最下層の物理層を使っていますから、 クオリアが発生するときにはその時の観察対象はどこにもありません。 その時の観察対象は、人間の独特の世界へと消化されていることになります。 文体は、さらにその上層にあり、文体を書くにも読むにも最下層の物理層を使っていますから、 文体から物理層を理解するには二つのハードル(非線形)を超えなければならないんですね。 コミュニケーションの基軸はとりあえずおいておきます。
ANo.23からです。 いただいたコメントについて 個々の文としては 分かるのですが 全体としては――何となく伝わって来ているのですが―― よしこれだとか なあんだ こうだったのかとか 言える段階ではありません。 質問を重ねていくことで 理解が行き届き しかもそれだけではなく 新しい課題に進むことも出来るだろうとの考えのもとに お尋ねしますので おしえてください。 線形と非線形とのちがいについて 次の回答を検索で見つけました。 ◆ ある関数f(x)を考えたとき,f(ax + by) = af(x) + bf(y)が成り立てば線形,成り立たなければ非線形.(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1312294318) ☆ ヰキぺディアにもありましたが 数式がめんどうなので こちらの例解をもとにお尋ねします。 そうしますと いろんな問いが思い浮かびます。 (1) そもそも この関数が成り立たない非線形の場合は 関数に表わすことができるのですか? 言いかえると 非線形の現象については その因果関係が捉えられないということですか? (2) 捉えられなくとも 大きくは何らかの関数に収まるとしてお訊きします。そこに変数( x, y )と定数( a, b )があるというとき われわれ人間は 変数ではないと思われるのですが この点 どうなのでしょう? (3) たしかに人も大きくは可変的な存在として 一種の変数ですが その自己表現という生そのものとしては このように関数表現の中におさまるのではなく 関数表現を得て 世界を知るという主体である。この主体的な存在でありつづけて 朽ちて行くというものである。つまり 関数表現におさまるのは 人間の思考や行為のほうである。と思うのですが いかがでしょう? (4) しかも 関数表現という形態は 科学としての文体行為であって 生きるとしての文体行為は この関数表現を補助として用いて 自己表現をおこなっていく動態である。言いかえると 文体としての文体は 科学的にまちがった内容をも含むかたちで おこなわれるのが つねである。間違っていると言わないにしても 情報つまり特に因果関係の分析などにおいて なお不足しているであろうのに そのまま 発車するのが つねである。のでは? (5) つまりは 文体は 人間存在(ないし《わたし》)の全体を つねに総合して 自己表現すると言っても 生きているという現実そのことと そのまま 等しいと言えるわけではない。つけ加えるなら 科学行為は この生ないし文体行為というような全体観・総合的な動態を そもそも捉えようとはしていないのではないか? つねに 要素・要因ごとに 現象を認識するということではあるまいか? 非線形は どうなんですか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (あ) 哲学思想のその文体は、非常に狭い情報量しかありませんね。 (い) その土台は世界全体のクオリアであって、さらにそれを支えているのが時空間宇宙です。 (う) 文体、クオリア、時空間宇宙の間はたとえ同じ作業していたとしても非線形ですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (あ)は (4)と同じだと思います。 (い)は わたしの感覚では こうなります。 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 文体が そこから情報を得るというところの世界は そのまま時空間宇宙であり 特にはこの地球上の自然現象および社会現象である。 これらとの接触によって 人は クオリアを得る。 それにもとづき 抽象的思考をも加えて 知解行為を行なう。 認識作業とその総合的な知解が 科学行為である。 科学の成果を 文体は 活用する。あやまつのが つねという恰好ででも 活用をつづける。 (ちなみに 科学者は 科学行為と文体行為とを分けて生きているのではないか? あるいは むしろ 分けているのが ふつうであるべきではないか?) ○ (う)を交えて言えば 因果関係が 錯綜していて 全体がつかみ切れないとき その現象は すべて 非線形である。 あるいは 因果関係が 相を転換しつつ つまりは 非連続となりつつ しかもあたかも連続していく現象は 非線形である。そういう時空間宇宙である。 それを受けて 人はクオリアを得る。 クオリアを得る前にも 人は生きている。もしくは 生きているということは 時空間宇宙からクオリアを得つつあり 得つづけることである。 この前提条件のもとに 人は 文体行為をおこないつつ 生きる。 この文体行為のために・つまりはまたその自己表現の形式をも内容をも向上させることによって 生きるというクオリア内容を豊かにするために 人は 科学行為を行ない それを補助として用いる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 非線形の現象を捉えた内容は 《それを科学行為として 文章に表わし説明する場合》と 《これを基礎として活用しつつ 自己表現をおこなう文体行為の場合》とでは その言葉による表現に 形式的なちがいがあるか? あるように感じられるが どうなのか? 独語のようになっていますが どうぞよろしくお願いします。
お礼
一応、この質問は、おかげさまで2割は解けたと思っています。あとの8割は非常に難しいでしょうからそろそろ幕引きかと思ってますがどうでしょう。
補足
非線形も数式に成ります。しかし、非線形方程式が解けるようになっても、ここではあまり意味がありません。 関数表現も文体で、そのままが表現されます。非線形方程式は、線形方程式のように簡単には解けない方程式になります。 重要なのは、入力に対して出力が線形か非線形かです。あるいは出力結果から見て入力が線形が非線形かです。 (1)全体の因果律は守られています。相が変わっているだけです。 (2)関数表現は文体側です。同一視してよいと思います。定義によって人間の部分を抽出して関数、定数にすることは 問題ないと思います。 (3)定義次第となります。生そのものは、抽象的過ぎてとても関数表現できません。 (4)科学としては、ある限界内とか、その実験の範囲では正しいとして表現するのが常です。 常に正しいとは言えなくとも、その範囲で正しければ発車しますが、結論に達する分析が不足しているのに 発車することは間違っています。 (5)>つけ加えるなら 科学行為は この生ないし文体行為というような全体観・総合的な動態を そもそも捉えようとはしていないのではないか? つねに 要素・要因ごとに 現象を認識するということではあるまいか? 非線形は どうなんですか? 科学はその全体観・総合的な動態に焦点を当てつつあるとは思いますが、常には、捉えようとしていません。 そして、 現象を認識する ということを行う時に、 現象と認識 の間が遊離しています。 >(あ)は (4)と同じだと思います。 (あ)で言いたかったのは、(4)のことではなくて、文体はクオリアではないということです。 どう組み合わせても文字情報にすぎないと言うことです。 >文体が そこから情報を得るというところの世界は そのまま時空間宇宙であり 特にはこの地球上の自然現象および社会現象である。 これらとの接触によって 人は クオリアを得る。 文体から、クオリアそのものは得られません。 文体の表現者が、自らのクオリアを、文字表現して、受信者が、自らのクオリアをベースとして表現者のクオリアを得たように思っているにすぎません。 金属光沢をもつリンゴ と表現した場合、受信者が、一度も見たことも想像したことがなくても、金属光沢とリンゴのクオリアがあれば 組み合わせて新しいクオリアを得ることができますが、金属光沢のクオリアとリンゴのクオリアの両方がなければこれはできません。 科学者は 科学行為と文体行為とを分けて生きているのではないか? それは、作家、文芸作家にも同じことが言えますね。 科学行為と文体行為の間が乖離よりも、現象と観察の乖離の方が遙かに大きいですね。 >○ (う)を交えて言えば ~ この文体行為のために・つまりはまたその自己表現の形式をも内容をも向上させることによって 生きるというクオリア内容を豊かにするために 人は 科学行為を行ない それを補助として用いる。 仮に、クオリアの直接移動が可能だとすると文体行為は不要となりませんか。 文体によるコミュニケーションは細いパイプでやっているように思います。 >☆ 非線形の現象を捉えた内容は 《それを科学行為として 文章に表わし説明する場合》と 《これを基礎として活用しつつ 自己表現をおこなう文体行為の場合》とでは その言葉による表現に 形式的なちがいがあるか? この話のややこしさは、単に非線形の現象を客観的立場から観察しているのではなくて(氷と水)、一方の側からのみ自らの他方を観察しようとする試みになっているからです。水であるのに、自ら氷に成ることを説明しなければならないのです。あなたは、水なのに何をいっているのかと軽く突っ込まれます。 文体が時空間宇宙から遊離していることを文体で表現しなければならないのです。それは、無理なのです。パラドクスです。 この非線形方程式を、文体側からのみ解くことはできないのです。 《それを科学行為として 文章に表わし説明する場合》これは単純に非線形現象を説明することですね。 《これを基礎として活用しつつ 自己表現をおこなう文体行為の場合》は、表現する対象が違うので棘の道ですね。 自分が非線形である。クオリア所有者、文体表現者、文体受信者としての自分とANo.23 1. 文体は 生活である ところの文体は、 非線形であることが、発信地ですから大変です。 我々は、水なんだから氷のことなんて関係ないじゃん。と簡単に言われていまいます。
No.20からです。 表現の自由です。したがって 批判の自由です。だと思います。 生物全般にわたる生命というものについて なかなか しっくりとした説明を わたしは 得ていません。得ていても 納得行かない状態です。 蚊も蝿も 被造物は すべてよしとされているというのですが。 ただし 人間が それらを支配しなさいというのですが。 生命尊重については どこまで どのように 徹底させるか むつかしいですよね。人間としては 開き直るしかないように思えてしまって・・・。いさぎよく感謝しつつ 食べる。ここまでです。――お手あげです。 《わたし(人間)》は 何であるか? これについては わたしなりの答えを出したつもりです。人間存在の社会的な独立性と関係性 / 自然本性 / その自由などなど。 《わたし》は 誰であるか? 《自己》とは 何であるか? これについては 《わたしは / わたしが / わたしの / わたしを / ・・・》と言っている本人のことです。 つまり むしろ《わたし》というのが その本人の固有名詞だと考えます。何の何べえという一般的に言うところの固有名詞は じつは 代名詞であるという見方です。ただし 固有名詞が 誰にとっても 同一では困るので 一般には これらが互いに逆転しています。 もともとは わたしにとって固有の名は 《わたし》であり その代わりにつける呼び名が 何の何べえだという見方です。 この《わたし》が もし自己分裂するとしたら それは 時間的な過程において その前後関係での振る舞いや言動が違っていたという場合です。でも それは 以前の行動から その現在は 考えが変わったのだと言えば 通っていくようにさえなっています。《わたし》は 言語表現の上で 一貫性があるようになっています。統括者になりうるようになっています。 つまり このわたしとは何かについて その中身は よく分からないのですが 言葉による表現行為としては 簡単に 《自称する主体》であると言えるのではないでしょうか。 そう考えると なるほど ▲ 《ひとはわれを経て来たり われに到り われの中に休む》という意味である。 ☆ の《われ》について bananasandさんが わかるとおっしゃったのは わたしにも わかると 今回 思いました。枠組み ないし 骨格 ないし 場としての存在 といったふうに捉えたときです。 ただし原文では この《われ》は イエス・キリストのことを言っているというのも 実際です。つまり《道であり真理であり生命である》その《われ》のことです。みづから そう語っているという場面です。まぁ けっきょくは 絶対者であることを言っているということになるのですが。そして 論理的にはわかるわけです。 また キリスト・イエスは みづから語って言うには ○ わたしは どこから来て どこへ行くのかを 知っている。 ☆ とも言いますから その論理上の思想構造は 分かるのですが ほんとうに分かったのかと訊かれれば やはり ピンと来ていません。 日本の経済人やエンジニアらの充電期間に 思想関係でも 発展があるといいですね。 こんなんで クオリア論でありうるとすれば もう少し延ばしましょうか。
お礼
>《自称する主体》 自称する主体が、命の重さは豚も人間も同じだとすることは、 いいのですが、それを主張をしつつ豚肉を食べているその人間の意思は、 自称する主体には含まれないということでしょうか。 豚肉を食べるという選択、自由意思、は自称する主体に 含まれない。 パックに入った豚肉は豚ではないという感覚なんでしょうけど その錯誤、幻想も 自称する主体 の一部ということですかね。 居酒屋で豚キムチを食べながら、命の重さを語り合う図は 結構笑えます。 自称する主体は理解しつつも、それが幻想であることも理解するんですよね。 そして、 《ひとはわれを経て来たり われに到り われの中に休む》 ですが、 ひと が われ を経る過程で ひとはひとを失っていきます。われ が 随から染みだしてきます。まさに ひと から染みだしてきます。 われに到り には ひと はいません 休むのは、もはや ひと ではないのです。だから、休めます。 ということでした。理論なら、非線形ですね。
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こんにちは、bananasandさん。 ●あれ、バッタが飛んだ。 (○¥○)v ←“V3”ってか? ←(面つながり) “シフトチェンジ!飛べ!”~いけめんぱらだいす~ http://www.fujitv.co.jp/hanakimi/index2.html おっと、飛ぶ前に… 携帯品に護身術の本携え(熟読)、ヘイ!ロン! http://www.ruralnet.or.jp/~NCL/set/59309832.htm 【QNo.2746186 ほにゃらか形而左右学】 ANo.24 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2746186.html 【ヤンの気象万華鏡・・元気 天気 呑気】 ~浮浪雲~ http://hb8.seikyou.ne.jp/home/y-ken/ 【耳掻き】 http://www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/hana-white-powderpuff_large.html http://www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/hana-red-powderpuff_large.html 膝枕もじりてこれを『草枕』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/776_14941.html 『落語娘』 http://www.tv-tokyo.co.jp/telecine/cinema/rakugomusume/story.html おあとがよろしいようで m( _ _ )m
お礼
ご静聴ありがとうございました。 般若はすごく気に入ってます。魎呼ほどでありませんけどね。 日帰りのショートトリップだったなぁ。 蝉の声は、鮎の口元で鳴くんだよね。泡があるからね。。 今日、やっと雨が止んだね。 あれ、ちょっと、まだ臭うのかなぁ。
No.18です。 ★ 《わたし》の起源 ☆ わたし( brag. )には分かりませんが つまり いまだにピンと来ていませんが 次のような一つの答えがあります。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《われは道なり 真理なり 生命なり》(ヨハネ14:6)という言葉は 《ひとはわれを経て来たり われに到り われの中に休む》という意味である。 (アウグスティヌス:キリスト教のおしえ De doctrina christiana 1・34 服部英次郎訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ むろん 伝イエスの言葉です。理解できるものでしょうか? とっくに 退散しなければならぬモードなのですが。
お礼
理解ではなく・・・そうですね・・<わたし>からは見えます・・・ われを経て来たり ・・・・ まさしくです。 休む というには、完全な場所とは言えませんが 落ち着いてはいます。平静を取り戻したと言う感じでしょうか。 われを経ないと来ない というの非常に象徴的です。 でも、でもですよ。<ひと>が解りません。 <われ>はクオリアとなっています。 <ひと>もわたしというクオリアはあります。 だから、歌うしかないでしょう。 ところで、 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4407292.html ですが、解答する気にもならないし別に批判するつもりもないのですが、 家畜の屍肉を食らいながら、命の重さを平気で語るのが 主観というやつでしょうかね。 この逆立ちしたくなるような 自己分裂 の自己っていうやつも解らないのですよ。 主観?、行動?、選択?自由意思? 退散する前に、ご意見を、拝聴いたしたく
- littlekiss
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おはようございます、bananasandさん。 (-_-;)uuu… ようそこまで ボケ かましてくれるわ.。oO いまから思えば… そういやあ、ANo.4へ《この回答へのお礼》の中に ●さてと、歯でも磨くかな。真剣にね。 ↑ ということばがおかれていた… なんでもないような言葉なのだけれども… …思い出せ ●世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。 そうだ、どれ一つ意味を持たないものはないんだ。 【QNo.3965802 輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか】 ANo.79 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3965802.html だとすると 《さてと、歯でも磨くかな。真剣にね。》 は… “ 予告状? ” “ボケることへのことわり” で、 『回答(怪盗)二十面相』 (-_-;)uuu… 何でそう思うかって? ループした単純な系が謎を解く手がかり 突っ込まれればボケる ボケれば突っ込む ←これお笑いの“基本” ☆「昨日は確か アイス 食ったよね。」 ★「あぁ、いたかったー」 ☆「ん?」「いたかった???」「アイス 食って???」 ★「あぁ、いたかったー」 ☆「いたかった アイスって どんな アイスやねん?」 ★「あぁ、いたかったー」 ☆「わかったって いたいんは。 それって 知覚過敏ちゃうの?」 ★「あぁ、いたかったー」 ☆「わかったってゆてるやん いたいんは。 いっぺん 歯医者行け!」 ★「あぁ、いたかったー」(尻を摩る) ☆「おぃおぃ どこ摩ってんねん。 いたいんは 歯やろ? そこは 尻や」 ★「はい 滑りました つきました もちを」(><)(T T)(*^^*) 【ice face】 http://jp.youtube.com/watch?v=ps6Hh0HKI_M&eurl=http://iceface.blog123.fc2.com/page-5.html 【霧の中のジョニーという吸血鬼のお話】 http://blackbell.sakura.ne.jp/xyz/2008/03/hakabakitaro09.html http://www.excite.co.jp/News/bit/00091196264334.html 【霧の発生の仕方】 http://hb8.seikyou.ne.jp/home/y-ken/mechanism/kiri/kiri.html http://blog.goo.ne.jp/kirioji1201 【平成18年版 環境白書】 http://www.env.go.jp/policy/hakusyo/h18/html/kh0601030200.html 【第1章 人口減少時代の環境】 http://www.env.go.jp/policy/hakusyo/h18/html/kh0601010100.html#1_2_1_1
お礼
>これお笑いの“基本” 頭 かっちかちやど くやしぃ です。 違うか~。 ボケ~。 こりゃ、惚れちまうだろ~ 。 そんなの関係ねー。 のか オッパッピー。 そうだろ ホワイト赤マン。 やっちまったなぁ。 >これお笑いの“基本”? ← こっちは真剣だ。 《方々に散っていっても来た道を辿りかえれば一本の道へ続く》 明日は、奇襲攻撃だ。目標地点まで、53km。無線機はおいてゆけ。 緊急事態が発生した場合は、白煙弾を使え、全区域を衛星からモニターしている。 直ちに救出へ向かう。 はい、小隊長殿。両腕は、振り回しますか。いつ、泣き叫ぶかは、自分の判断にお任せ下さい。 サードは 三村 が守るさ。 境内で色づいたヘロインは本命のアウターだね。 明日、研究室でプール開きなんだ。今頃かい。 あれ、バッタが飛んだ。
No.17からです。 《自分自身を対象にするクオリア》について 正直に 書き過ぎました。他者が思っているところが ほんとうの自己だという説があるので それに合わせようとしたのかも知れません。 歌って欲しいのは そうですね。いくらか段階を飛び越えてとしては やはり 世界の指導的役割を果たす日本人といったところです。ありますかね。 ★★ わたしは、未だ、自己を知りません。 ☆ これは これとしての《自己にかんする一つの理論》なのですか? そういうかたちで 《わたしがわたしである》と打ち出しているのでしょうか?
お礼
★★ わたしは、未だ、自己を知りません。 ☆ これは これとしての《自己にかんする一つの理論》なのですか? そういうかたちで 《わたしがわたしである》と打ち出しているのでしょうか? この質問の趣旨の一部です。理論というより、感覚、直感です。 わたしは、わたしであるのは・・・・そうですね。 目を閉じて瞑想をしているときは、わたしはわたしである だけですね。 目を開けて、関心を腕に送れば、腕の感覚があり、目にも見え、そこで、わたしに取り込まれる。 リンゴを口にすれば、臭い、味があり、呑みこんだらわたしに取り込まれる。 空想すれば、その宇宙も、わたしに取り込まれる。 歌っているときは、わたしはいない。 入力するときにわたしがいて、出力にはわたしはいない・・・そんな感覚がありますね。 わたしは、わたしだ は 解りますけど、わたしとはなにか わかりません。
補足
日本人ですか。 毒入りインゲンの対応には、頭がどうかしているように思いますね。 首相も、厚働省も受け入れ検査態勢を強化する動きをメインにする発言をしてますね。 人間が故意に入れたものを人間が受け入れ検査する? 防げる訳がない。検査する方もテロ対策とかの大儀を作ってくれないと馬鹿馬鹿しくてやってられません。 現場を考える力がないんでしょうかね。中国製品が危ないからという検査理由は危険です。 犯人は素人かもしれませんけど早めにテロとして扱えばいいんですよ。 犯人への威嚇のためにも、日中の警察力がハッタリでいいから大々的に動く場面でしょう。 もう2度目なんです。4回目、5回目になったら、これはテロだと言い出すのでしょうけど・・ 緻密な捜査網の存在が最大の防御だとは思いませんか。 受け入れ検査がメインとは、いやはや。 しかし、経済面で、こういう局面になると日本にとってはチャンス到来。決断を間違うと奈落の底。 金融面は全くの素人なので解りませんが下手に動かないで体力の温存じゃないですかね。 日本のお客さんにお金が無くなったということですから、技術を磨く場面でしょう。 エンジニアもヒマになったでしょうから。じっと耐えて、刀を研ぎ澄ます。 2年ぐらい前から米経済の破局は警告されてましたから驚きはしませんが、日々のニュースを 見るのは、重苦しいです。 この局面をどう耐えるか、大戦前の精神性に比べて、今後かなり悪化した状況にも耐えられる精神性を 得ているかどうかが鍵なのかもしれません。 刀を研ぎきれるなら、世界へ指導的役割を果たす立場になるのではないでしょうか。
わたしが 目の位置(目線というのでしょうか)としては きわめて傲慢で ものの言い方が上からの言い方になってしまうと 自分でも 思っている要素を 白状します。 次の対話のあり方が かなりきめ細かく 《質感》をもって せまって来ているという事情です。あらかじめ言えば 弟子ペトロに代表される人間の情けなさ こちらのほうに共感を持つという事情であるに過ぎないのですが。 ▼ (ヨハネ福音21:15~17) ~~~~~~~ ・・・食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《羊を飼う》という箇所に共感を持つというのでも 必ずしも ありません。なぜなら それは むしろ 親鸞のごとくに 《みな互いに御同朋》であると わたしが 思っているからです。そうでもなく 《愛しているか?》――《愛している》というやり取りの部分についてです。 原文では 《愛する》を イエスは よく引き合いに出されるように 神の愛にかかわる《アガぺー》系の語で言っているのに対して ぺトロは 人間の愛にかかわる《フィロス》で答えているという箇所です。しかも 三度目に問うたときには イエスは ペトロに合わせて 《フィロス》の語に替えて 言っているというところです。 つくづく 情けないと思うし それは わたしのことだと思うわけですし 神の愛は 人間には・あるいはわたしには 無理だという思いのことにも到るわけですし せいぜいわたしに出来ることは 仮りに出来たとしても ペトロのように 《倣う》だけであり それであってよいと思われて来ますし いざというときには このペトロと同じように イエスを裏切ることにまで堕ちていくかも知れないと思わないでもなかったのですし・・・。 何が言いたいかと言いますと 少なくとも このように――わたしの場合 自己満足で《清らかな》であると思っているだけかも知れませんが―― おのれの《愛》の情けなさや 《愛》には むしろ あるべき《清らかなおそれ》のこと これについて 一度は思いを致し 少しは そのことを省みたという痕跡を残していて欲しい。したがって その痕跡が見られない文章で しかも 自分を押し出している文章に出会うと きわめて強い憎しみを感じて 上からの物言いになるということだと思っているのですが。 という白状です。 * 憎しみと言いましたが これは ひとに対するものではなく 文章に対してであり つまりは その中の思想内容に対してです。ということは 《相手とのあいだに 埋めるべきみぞを見出した》とき 《憎しみを感じて 上からの物言いになる》というよりは 実際には もう突き放したり 放っておいたりするという所作に出るということだと思います。
お礼
わたしには、歌うべき歌は見あたりません。それは歌ではありません。 毎日、歌いたい歌があるから歌っています。 歌っているのはわたしでしょうか。 歌がわたしを歌っているのでしょうか。 歌っているときはそんなことはどうでも良いことです。 でも、歌っていないときはそれをよく考えます。 あなたは歌いたいのですか と聞かれれば もちろんです と答えるでしょう。 リクエストにもお応えします。 あなたの聴きたい歌がわたしの歌いたい歌です。 それでは、歌います。あなたの心まで届けばいいのですが・・ 聞いて下さい・・・・
お礼
a. 文体とその補助行為たる科学との関係は如何に。 科学は文体側であって、時空間宇宙と人間認識との間が非線形なので、ここを掘り下げる必要がありますね。 b. 文体の確立を目指すとするなら 科学のほかに(=その活用以上に) どのような補助行為があると考えるべきか。もしくは 補助行為以上の事柄があるのかも知れない。 c. わたしの自己還帰がもし間違っていた場合 これをどのように質し正すか。《わたし》相互の間では・さらには広く社会一般においては これをどのように行なうか。 > これら( a ・b ・c )をまとめて 信仰を基礎に持った哲学思想の展開が 望まれる。 信仰には、共通したクオリアが不可欠ですね。 このクオリアの量と質の向上が、哲学思想の展開へつながるのではないでしょうか。 哲学思想のその文体は、非常に狭い情報量しかありませんね。 その土台は世界全体のクオリアであって、さらにそれを支えているのが時空間宇宙です。 文体、クオリア、時空間宇宙の間はたとえ同じ作業していたとしても非線形ですね。
補足
brageloneさん 本当にありがとうございます。 brageloneさんとのやり取りの中で、解ってきました。 文体とは、文章、いわゆる言語表現という理解でいいのですよね。 非線形とは、簡単に言うと連続していないといういことです。 一番身近な例は、相転移 個体→液体→気体でしょう。 わたしが主に扱っていたのは非線形光学材料です。 尿素なんかがそうなのですが、ある波長の光を特定の物質に当てると違う波長の光になってしまうというようなものです。 解りやすくは、赤を入れると青になると言うことです。 連続性が無いのです。現象があるポイントで、飛躍する場合のことです。特異点もそうです。 さなぎから蝶になるような感じですね。 科学論文も特許も科学思想の言語表現であって客観を表したものです。無論、時空間宇宙での実証があるから、主観を離脱します。 しかし、時空間宇宙での実際の実験観察を如何に客観性を持ってを行っても、それを行っているのが人間ですから、 認識、理解している段階で既に遊離しているのです。人間認識にとって、時空間宇宙は非線形の存在だと言うことです。 言語表現している限り、文体表現しているのがわたしということですね。それ以外には成りようもありません。 これが、わたしが言語表現を直線的とか、一次元的とか言っていたものの正体でした。 わたしが幻想であるというクオリアを幻想ではない自己を使って表現しようとしていました。 わたしは愚かにも豚キムチを食べながら命の重さを語っていたのです。 わたしが幻想なのではなくて、言語表現が不能としてもあえて、クオリアも含めて全てが幻想と言うべきだったのです。 全体が遊離しているのです。既に非線形だったのです。それに気づきませんでした。 とすると わたしの 輪郭 もその範囲内で明確になりました。 この極端に狭い帯域幅が遊離している側でのわたしの正体であるということです。わたしが一であるなら この冪は つねに一である。 そして、クオリアの帯域幅がわたしの比ではないから直接移動させることができない。 その延長で言うなら、<わたし>というクオリアは、狭い帯域幅のわたしには入ることができない ことが解りました。わたしの全体が解ったわけではありませんが・・・