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自己のクオリア
自分自身を対象にするクオリアってありますけど、 このループした単純な系が狭い意味で自己の本質でしょうか。
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No.22を承けます。 かつて 《文体》という視点ないし主題として 考えたことがあります。以下のようです。 わたしの存在は わたしがわたしであるという自同律(アイデンティティ)の展開過程である。 自己到来するわたしの自乗・三乗・・・とその連乗積をかたちづくっていく過程である。わたしが一であるなら この冪は つねに一である。 わたしとは何か。わたしと名のる存在である。ここから わたしが自己到来をつねに新たに展開していく過程は 表現行為の過程である。一般に内面における自己還帰の確認は 広く自己表現として表わされる。外化される。直接・間接あるいは顕在・潜在を含め広く ことばをとおしての表現行為として展開される。 内面における自己同一性〔たるわたし〕そのものは 必ずしも定かになるわけではないが ことばの表現をとおして・もしくはことばを介した認識をとおして 了解し合われる。表情・振る舞いといったものも 解釈され これを ことばの表現として認識し了解していく。 かくて わたしの生きる過程は 文体として展開される。これらの限りで 文体行為の過程が わたしである。(Le style, c'est l'homme meme.) 文体の原則(命題): 1. 文体は 生活である。文体にはわたしが生きていることが先行している。 2. 文体は 生きることであるなら 過程行為であり 行為過程である。 3. 生活は 自然界や社会やの世界すべてを含む。《わたしの自乗》理論は 表現過程として あたかもこの世界のすべてであろうと欲する。ただしそれは 文体行為としては 一人の人間の一主観であるにすぎないというのも然ることながら その(=世界過程の)事後的な認識であるにとどまることが ふつうである。 4. 過程行為である文体は 《わたし》相互のあいだの了解を求める過程として展開する。各自のわたしに修められた主観としての世界観は 共通の基礎を問い求め 互いの共同化に進む。主観の共同化は 経験合理性にもとづく科学行為によってその基準が用意される。 5. 科学によってもたらされた新しいいわゆる客観認識を持ったとき わたしは ふたたび自己に到来し これを自乗・三乗して生きていく。 6.文体行為そして科学行為は いづれも わたしが生きることに後行している。科学によるあらゆる客観知を得ない場合にも 文体は 自己の判断によって表現行為に出発する。文体がいわば確立しておらず 自己の判断がまだ定まっていない状態にあっても そこに生きる人間は あたかも世界の絶対的な現実である。また 絶対的な現実であるゆえ 一人ひとりのわたしに 自らの文体行為が促されるであろうし 望まれる。 7. かくして わたしは 科学を補助行為として持ちこれを利用しつつ 文体過程として生きる。 ここからわたしたちの持つ課題は a. 文体とその補助行為たる科学との関係は如何に。 b. 文体の確立を目指すとするなら 科学のほかに(=その活用以上に) どのような補助行為があると考えるべきか。もしくは 補助行為以上の事柄があるのかも知れない。 c. わたしの自己還帰がもし間違っていた場合 これをどのように質し正すか。《わたし》相互の間では・さらには広く社会一般においては これをどのように行なうか。 これら( a ・b ・c )をまとめて 信仰を基礎に持った哲学思想の展開が 望まれる。 * 生命尊重は 人間優位にならざるを得ないように思います。 * 《非線形》については 考えていませんでした。たぶん 線形の動態として捉えていたのだと思います。残念。というより 非線形をおしえてください。
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No.13からの続きです。このまま続けてよいとすれば つづります。 ★ 事後の説明責任・・どちらかというと行政法?の臭いがしました。 ☆ これは 《もちろん その後も 対話を重ねていくわけです》とも書いているそのとおりのことです。個人と個人との行為関係として 考えたものです。でも 法律にかかわる場合もあるでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わたしは、未だ、自己を知りません。 <本質>だけでは、愛が流れません。うまく共鳴しません。 歌が歌えません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 強力な文章であり 特につけ加えることもないと思いますが 思ったことを書いてみます。 他者のことはおろか 自己ですら どういう人間であるのか 分からないということは 誰にも起きることかと思います。 わたし自身が 自己を知ったと思ったのは 単純に 《孤独》をとおしてです。話が合わない・合っていない・つまり ひとは 上辺で 話を合わせているのだと受け取らざるを得なかった体験。また このことは 友や家族ですら そうであったと分かったとき。 細かいことをも述べるなら その親友は すでに互いの間に埋められない溝があるのを 互いに知って もはやと 受け容れ合った〔という感触を持った〕そのあとも 最後まで 言葉では 友情の黄な粉をまぶしていたということ。もの分かりのよさを 顔面の笑みに浮かべていたということ。 その後 《あやまつなら わたしは ある。 / 欺かれるなら わたしは ある》と聞いて あらためて 社会的な孤独を知った。そうして わたしはわたしである。 / ゆえに わたしはわたしする と唱えた。 経済的な困難 健康の損ない 愛情の崩れなど 苦難は いろいろあると思いますが 社会的な承認の欠如も 大きな苦難だと考えます。うわべだけの人間関係をつづけることが わたしにとっての苦痛でした。 いまは 勇み足で言うとすれば 果かなく消えてゆくような人間関係を 食ってかかっています。どういうわけか 孤独に耐えていくことができています。 存在が 独立的であると同時に 関係的でもあるというように 孤独も その孤独どうしという関係性の側面をも忘れてはいけないということなのだと思います。 そうなると――ここからは やや自慢になると思いますが―― ひととの食い違いが 反発すべき攻撃すべきみ差異であるよりは 埋めるべきみぞであるという・それこそ質感としてのクオリアを感じるようになりました。 まぁ まだまだ いまでも けんか腰になりますが。ならざるを得ないという考えしか浮かばない状態に留まっているということなのか ほんとうに反発を感じさせるように反応せざるを得ない状態に 相手が 陥っているということなのか。後者は 自己弁護にしか過ぎないのか。というところだと 自分では 思っています。 今回は ここまでです。
お礼
深いところまでつづって頂き、ありがとうございます。 自分の孤独と他者の孤独、埋めるべき溝・・・・ >埋めるべきみぞであるという・それこそ質感としてのクオリアを感じるようになりました。 brageloneさんのこだわりがようやく解りました。それが質感としてあるのですね。 次のライブでその体温と鼓動をわたしが歌います。 >★ 事後の説明責任・・どちらかというと行政法?の臭いがしました。 >☆ これは 《もちろん その後も 対話を重ねていくわけです》とも書いているそのとおりのことです。個人と個人との行為関係として 考えたものです。でも 法律にかかわる場合もあるでしょうか。 アカウンタビリティからすぐ連想するのは、行政庁の不利益処分に おける理由説明の義務だったので、そう感じたのです。 長きに渡り、ありがとうございました。
No.13から続きます。 ★ その行うべき愛が、<本質>と絶対の間に脈打っています。 ☆ この《本質》は わが存在つまり自己と言えば いいのでは? 愛は おそれを知らない。愛のあるところに おそれはない。 しかも 相手に自分勝手な欲求をぶつけているだけではないだろうかという清らかな不安を感じ 相手に対する単なるおしつけの愛になってはいないだろうかという清らかなおそれを つねに 持っている。 ここまでが 人間能力としての理性のできることである。この領域を超えては みこころのままにという祈りになる。《絶対との間に脈打っている》? きよらかなおそれは あなたに 決してくじけない 弱さを与える。崇高なしなやかさを身につけさせる。 この場合のおそれは 愛のないところには無い。単におそれを知らないことは 愛がなくても起こりうる。 ★ 法律 ☆ は 苦手です。法学概論は 好みます。法の哲学というのでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 >★ その行うべき愛が、<本質>と絶対の間に脈打っています。 >☆ この《本質》は わが存在つまり自己と言えば いいのでは? わたしは、未だ、自己を知りません。 <本質>だけでは、愛が流れません。うまく共鳴しません。 歌が歌えません。 事後の説明責任・・どちらかというと行政法?の臭いがしました。
- littlekiss
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こんばんは、bananasandさん。 さきに言っときます。「ノイズだ!」なんていわないでくださいね。 うろちょろしてたら、あっ!?これだ!ってのがちと浮かびました。 お耳障りでしょうが、まあまあそういわずにちょいとお耳を拝借。 【NHKニューズ~社会 痴ほう症 必要治療受けられず】 http://www.ryokufuu.com/backnumber/seineniryou.htm ↑ ここで投げかけられてる話は、今・現在 さらに 過去・未来に通ずる話じゃないか? “救われない痴呆高齢者が逆にたくさんでてくるという問題を内包している” 少子化に加え、一人っ子の独身未婚者(又は、その他の事情でひとり身の者)が独身未婚者(その他の事情でひとり身の者)のまま年老いていけば…将来、老人の絶対人数はいまよりも少人数になるのだろうけれど、逆に今以上に介護の人手を要することになるのだろう。ベビーブーム世代の人数は多いといえども、在宅で身内が介護にあたる家庭もまだある。みながみな施設まかせではなくとも医療現場の現状はベット不足、人手不足に悲鳴をあげている。今現在の老人全体からしても、特別養護老人ホームへ入所できているのはほんの一握りの人。この現状でいけば少子化の時代に生まれた子たちが将来独身未婚者(その他の事情でひとり身の者)のまま年老いていけば、在宅で家族(身内)が介護にあたるその家族(身内)もないとなれば介護難民あふれでるのは必死。痴呆症の話【NHKニューズ~社会 痴ほう症 必要治療受けられず】は、高齢者のみの問題ではなしにこれから育つ子どもたち自身の問題でもある。 【QNo.2797136 ほにゃらか形而左右学 影 】ANo.15 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2797136.html
お礼
ご回答ありがとうございます。 ボケヨボー ボゲボゲ~ ボケヨボー よぼよぼ ジジィ 呆け呼ぼう ボケヨボー 呆け予防 脳細胞が先か、肉体が先か・・・・・やっぱ、肉が先か。脳が先の方が楽だな。黒姉死す クロネーシス シェルショック。それがどんなものかやつらにはわかってるのか。 大の男が半狂乱で両腕を振り回し、子供みたいにわんわん泣き叫んでは近くの兵士にしがみつき、一人にしないでくれと哀願するんだぞ。 はい、軍曹殿。明日からがんばります。私にもやらせて下さい。 昨日は確か アイス 食ったよね。 洗いたてのスピッツが見る空の雲にはゴルフはできないんだよ。どうしてもだよ。 明日は、いよいよ裁判所で調停だね。 あれ、少し、背中痒いわ。
引きつづいて bragelone です。 ☆☆ 自分で 《わたしがわたしである》と言える範囲 ☆ そう思っていれば いいのだと考えます。 所有物のことまで 《わたし》だと言う人は その考えが無効だとわかるでしょう。《国家 それは わたしだ(朕は国家なり)》は 冗談でなければ 気がくるっています。つまり 無効です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 結局、今と現在を峻別したり、<想定>を不可欠とするのは、 本質、変化、愛、それぞれが浮き彫りになって、ことに愛をはっきりと認識するためなのですよ。 ・・・ 愛は、その<本質>の中に厳然と存在はしていません。 <本質>と絶対の間に脈打っているのではありませんか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《愛を 〈認識〉》しても始まりません。愛は おこなうものです。主観で いいのです。主観で これが愛だということを意志し おこなえばよいのです。認識は さまざまです。むしろ憎悪を表わしているとか それじゃ けんかだとか 大きなお世話だとか 評価は さまざまな結果をまねくでしょう。かまいません。もちろん その後も 対話を重ねていくわけです。 存在していようが いまいが どこに脈打っていようが 愛は ただ 主観の最善をつくして おこなうだけです。むろん その事後も 説明責任を持ちつづけます。 ★ 今・現在 さらに 過去・未来 ☆ これらは わたしの場合は いろんなふうに 定義すればよいという立ち場です。
お礼
ありがとうございます。 行うべき愛は、brageloneさんの言われる通り最善をつくして行うべきで、わたしもそうしています。 その通りだと思います。もろ手をあげて賛成します。 その行うべき愛が、<本質>と絶対の間に脈打っています。楽園は、すぐ近くです。わたしの中枢を刺激して止まない炎が燃えています。 この愛を歌いましょうか。それとも踊りますか。 わたしは、わたしを知らないままではありますけどね・・ >事後も 説明責任を持ちつづけます。 ところで、法学やってましたか?
No.5&6&7&8&9&10&11です。 自分で 《わたしがわたしである》と言える範囲が 《わたし》なる存在です。 記憶喪失になって ほかの人が そのことをおしえてくれることがあります。記憶が戻れば わたしです。 本質と言えば 自然本性のことを言うほうが ふさわしいかも知れません。自由意志と その自由の基本的な例として 良心・信教・表現の自由などが 自然本性の中身となります。 わたしにとってのこの自由は ほかの人の《わたし》にとっても 同じようであると想定されます。互いに自由であるということは 対等であり平等であると帰結されます。 意志による自由な選択は 存在≒自然本性≒生命をよく保持し向上させるものだと さらに想定されるなら 愛が 同じく 必然的に帰結されます。自然本性としての自由 ないし それにかかわるところの精神=身体の 持ち前の能力を 自己が よく発揮しようとするとともに 他者が よく発揮するようにと気遣うことです。存在の愛 および 存在関係の愛です。 クオリアとは 何ぞや。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうですよ。 その存在の愛に、驚愕しているのです。 結局、今と現在を峻別したり、<想定>を不可欠とするのは、 本質、変化、愛、それぞれが浮き彫りになって、ことに愛をはっきりと認識するためなのですよ。 炎とか、熱とか表現していましたが、 結局、生命現象とか、生命への愛へ収斂されます。 それ以外にはなりようもありません。 愛は、その<本質>の中に厳然と存在はしていません。 <本質>と絶対の間に脈打っているのではありませんか。 それは、さておき、この質問の本題へ戻ります。 わたしがわたしだ言える範囲 ですが 「言える」とはどういう意味なのでしょう。 わたしが確信することでしょうか。 わたしが決断することでしょうか。 わたしが支配している状態のことでしょうか。 確信していれば、その限界内に入るのでしょうか。 それとも想定しているのでしょうか。 わたしがわたしである という文章と意味しか知らず それ以外の記憶も感覚も全くない人間もわたしであり、 肉体、精神、知覚できる全ての対象までもわたしである と認識する人間もわたしである。 のでしょうか。 クオリアについては、検索すれば色々出てきますね。 クオリアとは、何かというより、 クオリアという新語をもって、感覚だとか、質感とか、言うものを 認識論、脳科学などの側面をもって、再認識したことが 重要なのでしょう。 この質問でも、わたしがわたしをわたしだと感じている感覚 で構いません。
No.5&6&7&8&9&10です。 ★ 本質( Wesen ) ☆ というのは 人間にとっては 《存在》のことです。一人ひとりが存在するので 主観を伴なうという意味で 《わたし》のことを言います。 中身として 肉です。すなわち それは 身体および精神から成ります。 精神とは 身体の動きを捉えるはたらきです。身体が 直立二足歩行を会得したところ その体の伸びに従って 精神も 伸びを示します。あたかも経験存在としての肉(=身体および精神)の限界を超えて 伸びようとします。むろん 限界を超えることは出来ませんが その限界の向こう側を わざわざ 想定しようとします。《絶対・超経験・無限・永遠・不可変性》などです。 ひとは このように 互いに肉どうしの存在であると認識します。精神は 朽ちるべき肉の世界としての有限で可変的・相対的・経験的な世界にあると 互いに 自己を位置づけつつ 同じくさらに 互いに その精神では分かるか分からないかが分からない領域を 絶対として 想定していきます。経験法則によって 雁字搦めになっているのではないと言いたいのでしょうか。ついに叶わない自由の志向性なのでしょうか。 いづれにせよ 《相対‐絶対》の全体に広がった拡大世界を 人間精神は 想定するようです。そこで この世で肉なる存在という 精神=身体の一体として生まれたという条件を超えて 心の伸びを 想定し 志向します。日本語では 精神=身体の伸びを 特に 心という言葉で 示そうとしていると採ればよいと思います。 そこで 精神(=身体)のはたらきとして ものごとを認識(知解)しこれを記憶するという二つのほかに その記憶に秩序を見ようとし これを知解して来て その内容にもとづき ものごとを欲するという意志を みづからのもとに見出します。つまり 心の伸びです。 ひとつの見方として 世界はすべて 意志の動態であり その意志どうしの関係であり 世代を超えて 意志関係としての社会的な軌跡としてある。と考えられます。ということは 世界史は 心の伸びの張り合い 伸び具合いの張り合いであるとも捉えられます。すなわち 自由・平等ないし民主主義というわけです。 クオリア これを いまの世界認識の中に どのように位置させようとしているのか まだ よく分かりません。(勉強不足です)。
お礼
brageloneさん。すばらしい文章です。感動を覚えます。さすがです。 教えて下さい。《わたし》の中身が、肉と精神である・・・ 右腕を失ったら、わたしではない。 昨日の記憶を失ったらわたしではない。 視覚、聴覚、味覚を失ってもわたしは、わたしである。 時間感覚を失ったらもはやわたしではない。 空間認識を失ってもわたしはわたしである。 主観さえあれば、わたしはわたしである。 犬もわたしを持っている。本質をもっている。 昨日のわたしは、わたしの本質ではない。 明日のわたしも、わたしの本質である。 朽ちるべき肉の朽ちる過程においてどこまでが本質ですか? テーブルの上にあるリンゴはわたしの限界内ですか限界外ですか? 自分の腕の動きは限界内ですか? 議論をふっかけているのはありません。 この<わたし>が正直、<わたし>に驚愕しているです。 その本質にですよ。
No.5&6&7&8&9です。 Q: 自分自身を対象にするクオリアってありますけど、 / このループした単純な系が狭い意味で自己の本質でしょうか。 ☆ これが まだ どういう事態であるのか 分かりかねていますが いただいたコメントに応答します。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わたしはあくまでわたしです。 でも、それが幻想であることは解っているじゃありませんか。 幻想である主体が、自らが幻想であることを理解しているのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん 存在の自同律(=《わたしがわたしである》こと)について それは《幻想である》と言うのなら そういう想定だと断らなければいけないでしょうね。そうでない場合 つまり つまりそうでないと想定する場合もありますと 言っていなければいけないでしょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 同時肯定が論理になるでしょうか。 はじめから、相反する矛盾したものを同時に肯定すると言っているのです。そんなの、論理的に間違っているではありませんか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というように です。 でも そこへ 別の論理を持ち出してくるわけです。つまり ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ とはいってもですよ、無限大のエネルギーが一点に集中していたという矛盾を両方肯定しないでどう説明するというのでしょう。無限大のエネルギーという視点から観る?一点であるという視点から観る? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 推論が 弱いと考えます。 ★ 無限大のエネルギーが一点に集中していた=(a) ☆ というのは まづ そういう想定であり仮構なのですから ★ (a)という矛盾を両方肯定しないでどう説明するというのでしょう。 ☆ という議論は もう生じないと言うべきです。 ★ 無限大のエネルギーという視点から観る?一点であるという視点から観る? ☆ というように 視点を分割する必要はありません。観察者としてのわたしという一つの視点で じゅうぶんです。その一視点によって 《矛盾をふくむ事態を 仮りに想定した》だけですから。 まだどこ行きの電車なのか 分からずにいます。
お礼
おっしゃりたいことは、十分、解っています。 わたしは、わたしにとって、確実にわたしであるが、わたしは、幻想である。 わたしが幻想であることは想定であって、あくまで、わたしは確実である。 解っていますって。否定しません。そう言う立場では、ないからです。 それでも、不足してます。その想定というものを不可欠であるとしているのです。不可欠な想定とはもはや想定ではありません。 あ~。 それでもですよ。 >無限大のエネルギーが一点に集中していた これは、仮の想定ではありません。 時空間宇宙側の事実です。話は、繋がっています。 この矛盾を単に想定して、放置しているのではありません。 ニュートンの方程式がその限界内で正しいと同じように アインシュタインの方程式も正しいのです。 わたしが、わたしであると同程度に正しいのです。 それを理解しているのもわたしだろう・・・解ってます。 Q: 自分自身を対象にするクオリアってありますけど、 / このループした単純な系が狭い意味で自己の本質でしょうか。 その想定というのが不可欠だと思いますね。
bananasand さん ご説明ありがとうございます。分かったと思うところがあります。そして 全体として どこへ議論が向かっているのか それが 分からないままですが 一点についてだけ 反応します。 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (A) 現実感側 = 現在側 = 幻想側 = クオリア側 (B) 非現実感側 = 今 側 = 時空間宇宙側 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まづ 引き続き この前提にもとづきます。 次の引用は すべて 同じ一つの事柄を示す内容です。 ★ (B)の視点で同時であっても(A)の視点では同時とは言えません。 ★ (A)は、(B)を直接捉えることは絶望的なのです。(B)の上に(A)が成り立っているのです。 ★ (A)が成り立っている時には(B)は使われてしまっています。 / アプリ=(A)は OS=(B)の存在になかなか気づきません。 ☆ わたしにとって 分からず 問題になることは 次の一点です。 ○ 《視点》は 《本人》に属している。したがって (A)も(B)も この本人の視点によって 把握される事柄であっても それ自体に いづれも 視点を持つことは ない。 ☆ これです。 ★ アプリ=(A)は OS=(B)の存在になかなか気づきません。 ☆ そのような捉え方は 出て来ないのです。《存在》は 本人としての人間 あるいは 《わたし》です。このわたしが (A)も(B)も 見ているのですし 把握しているのです。 ★ (A)は、(B)を直接捉えることは絶望的なのです。 ☆ と仮りに たとえとして 成り立つとしても そのことを知っているのは 本人=人間存在=わたし です。 ですから 二重らせんは 必要ないと考えます。形状として 二重らせんであっても いいわけですから その例を採用するとしますと ★ 二重螺旋を見ている ☆ のが わたしであっても それは いいわけです。そのわたしは いわば(A)(B)両側面を 総合的に見ており もう少し色をつけて言えば 全体を統括しています。(思う通りに統括し得ているかは 別の問題としてです)。 このように《視点 あるいは 思考や行動の主体性》は わたしの場合 人間にのみあるということ その点が 違っているということ これが今回分かったと思います。 それにしても いったい どういう理論を駆使しておられるのか と思って 非常に なぞにつつまれています。
お礼
brageloneさん こんにちは はじめからそうなんです。 >人間にのみあるということ その点が 違っているということ これが今回分かったと思います。 それを否定していません。わたしはあくまでわたしです。 でも、それが幻想であることは解っているじゃありませんか。 幻想である主体が、自らが幻想であることを理解しているのです。 もともと矛盾しあっている2つの概念を両方とも肯定していると言っているじゃありませんか。 >どういう理論を駆使しておられるのか と思って 非常に なぞにつつまれています。 同時肯定が論理になるでしょうか。 はじめから、相反する矛盾したものを同時に肯定すると言っているのです。そんなの、論理的に間違っているではありませんか。 とはいってもですよ、無限大のエネルギーが一点に集中していたという矛盾を両方肯定しないでどう説明するというのでしょう。無限大のエネルギーという視点から観る?一点であるという視点から観る?
No.5&6&7です。 ご説明にしたがって 考えをつづってまいります。符号(A・B)をつけました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (A) 現実感側 = 現在側 = 幻想側 = クオリア側 (B) 非現実感側 = 今 側 = 時空間宇宙側 ここでの問いはその本人を問うてます。どちらにも属しているようには思っているのですが・・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (A) 差別(たとえば 就職が叶わなかった)=不自由・不平等(また その感覚としてもよい)――(B)差別は違憲行為という理念=自由・平等。むろん (A・B)ともに 《本人》に属する現実である。この例示でよいのでしょうか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (あ) そして、そうだとすると、無理矢理言えば、自由意思というのは、現実感側で肯定され、時空間宇宙側に留保され外観上否定されます。 (い) 自由意思から本人は生まれません。本人がいるから現実感側で自由意思を発揮しています。 (う) おかしな言い方ですが、この現実感と非現実感は両方とも肯定すべき現実なのですよ。 (え) お互いに補完しあっているのです。一方を否定すると両方とも否定せざるを得なくなるのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (あ) 自由意志は むろん《本人》のものです。自由意志が《存在する》という意味では (A)(B)両面で 存在するとして《肯定》されます。そのあとの認識には 違いがあります。《(B)の時空間宇宙側では 理念として 留保され 肯定されており (A)の現実感側では 無効の行為によって 踏みにじられ 否定されている》です。 後者の側では 《その考えが無効である。つまり 自由意志を否定することは 無効である。しかも 現象としては 実際に起こっている》ので ややもすると 人びとは その無効の有力なる現実を前にして ひょっとすると 差別には理由があるのではないかという幻想を持つに到るということになります。 (い) 自由意志は 人間存在につきものです。同時一体のものです。(B)において 理念として 現実であり (A)においても その現実が 実現するよう つねに 緊張しています。 (う) (A)(B)とも 実際に起きています。(A)は 揚棄すべき現象です。(B)を実現させるべきです。 (い) 《補完しあっている》のではありません。無効の考えが 有力である実際の情況に対して 人は 譲歩しているのです。(A)の差別は 理念においては すでに 否定されています。その理念どおりに 人びとを たとえば政治の力によって 行動させるのは 管理社会となってしまいます。共同自治ではなく 統制社会になります。差別をおこなっている人間が おのれの自由意志によって 差別をしない普通の対人関係を 実現するのでなければ 自由や平等の意味がないからです。その実現のときまで ひとは 譲歩しているのです。 理念においては (B)が ほんとうの現実であり それに基づき (A)は 否定されています。言いかえると (A)は (B)の否定です。したがって (A)の否定は 《否定の否定》つまり (B)の肯定です。 こうして 弁証法的な歴史過程を ひとは 展開していきます。らせん状にループした系を 行動の軌跡として 残すように 人間とその社会は すすんでいくもののようです。すなわち 民主主義という思想(=生活態度)のことです。 これでは 論理的にすぎるということなのでしょうか?
お礼
brageloneさん こんばんわ >これでは 論理的にすぎるということなのでしょうか? そうではないのです。 brageloneさんの表現していることは、私は100%理解しているのです。 それを否定しているのではないのです。もともとそちら側は肯定しているのです。 不足していると言っているのです。言葉じりとか論理そのもののことではないのです。 自由意思は、その通りなのです。正しいのです。それだけではないのです。 ヘーゲルの延長線上ではなくて、非線形なのです。 <らせん状にループした系を 行動の軌跡として> いるならば、 それを補うもう一本を加えた二重螺旋を見ているのです。 行動の軌跡は(A)側のみに具体的に存在し (B)側にはないのです。それを軌跡として思い起こすためには、 (B)のその本質たる変化が使われなければならないのです。 言ってみれば多層構造化した立体を見ているのです。 言語は、本当に直線的です。 >(A)(B)ともに起きている。 それはおそらくそうでしょう。<ともに>は両方ともということで (B)の視点で同時であっても(A)の視点では同時とは言えません。 (A)側は現実側として周囲を捉えることができます。(A)側ではクオリアができあがり、 時間を作り、空間把握をしています。過去を記憶し、未来を想定できます。 でも(A)は、(B)を直接捉えることは絶望的なのです。(B)の上に(A)が成り立っているのです。 繰り返すようですが、(A)が成り立っている時には(B)は使われてしまっているのです。 (B)の本質である<変化>は、(A)において既に変質しているのです。 また、たとえ話ですが・・今度はパソコンです。またしても、あくまで、たとえ話です。 (A)を、液晶画面上にいろいろなキャラクターの動きを映し出すアプリケーションソフトそのものとします。 アプリケーションにとってはそれが全てです。その世界で完結します。 (B)は、OSに相当します。 >(A)(B)ともに起きている。 そうです。でも、(A)が成り立っている時には(B)は使われてしまっています。 アプリはOSの存在になかなか気づきません。
No.5&6です。 ご説明ありがとうございます。 ご説明いただいたのですが なにかどこか しっくり行きません。クオリアをめぐって なにか感覚的なものだとかが まだわたしには分かっていないところがあるからかも知れません。 次の一点に反応します。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 自己と関係性、自由意思とその有効/無効・・・・・ ここの根元は解りません。言ってみれば幻想がなぜ幻想として 発生しているのかを問うているからですね。秘密はあると思います。 この質問はそこを問うています。 まぁ、そんなことはどうあれ、時空間宇宙から遊離したこの幻想を 時空間側に還元することが復活の一歩であるとは思うんですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《幻想は 幻想であって 現象として起こっているけれども 現実ではない》ということを議論します。つまり 《現実に還元する》議論です。 (1) 同和問題は 幻想つまりあるいは 無効の考えによって 現実に起こっている不自由です。被差別者を差別してよいという考えは 完全に 無効ですが 幻想として抱かれ その幻想共同に従わざるを得ないと考える現象として 現実に起こっています。 (2)《憲法》にも 《14条1項:すべての国民は、政治的・経済的または人種・信条・性別・社会的身分又は門地 といった社会的関係に関らず、法の下に平等であり差別されることはない》とうたっています。これが 有効な思想です。この有効性が 現実の前に 無力とされています。無効の差別思想が 現実に有力となっています。 (3) ところが 有効だからといって ただちに 有効な考えを 人の自由意志を無視してまでに 押しつけることは出来ないというのも 有効な思想です。《良心・表現の自由》。したがって 《馬を水飲み場にまで連れていくことは出来るが 水を飲ませることは出来ない》。 (4) 結果は 悪貨が良貨を駆逐する になります。 (5) とすれば ある程度は 政策も必要なのでしょうが 基本的には かくなる上は 一人ひとりが その思想として 無効な考えを去って 有効な内容を回復するのを俟つ以外にないとなります。 (6) 目覚めた人びとが 社会の三分の一 次の三分の一が 共感し 残りは 無効の考えを抱いて反対しているといった情況を まづは 目指すべきだと考えます。 (7) しかも 焦燥感が漂って もう 待てない というときに いろんな幻想が生じます。ひとつに ほんとうに差別されるべき理由があるのではないか等々・等々 さまざまに 待てないという気持ち(クオリア?)から 無効の思想としての妖怪を生むと思われます。(幻想としてのクオリアも あるのでしょうか?) (8) 《秘密》は ただ このわれわれ人間の弱さにあると思われます。まづこの弱さを誇ることから 始めるべきでしょう。開き直りで いいのではないでしょうか。あとは 水嵩を増していくことでしょう。自由な井戸端会議をつうじて 自由な連帯です。 かくして 人間の本質は 《社会的な独立性と関係性とが 同時一体であること》であり その中核は 自由意志にあると考えます。クオリアは 一人ひとりおのおのが その社会的な感覚を楽しんでいるその楽しさにあるのではないでしょうか。解決したという終わりから始めるゆえです。 またまた ピントがずれているようですが こう反応しました。
お礼
こんばんわ。brageloneさん。 言語というのはつくづく一次元的ですね。イメージする世界に比べて帯域が狭すぎです。 >《幻想は 幻想であって 現象として起こっているけれども 現実ではない》 この幻想は、あくまで自分からみて、非常に鮮明な現実で、明らかに現実です。それ以外の現実感はありません。 しかし、それが幻想であることを自分は理解しています。 映画を観ているのと類似した感覚です。その幻想の必要性も豊かさもストーリーも理解してます。クオリアもこの幻想にあります。 同和問題も憲法解釈もよく分かります。(6)~(8)も開き直り以外は解っています。 映画を観ている、幻想を観てる、そして、それを現実としている本人は、 この現実感(クオリア リンゴがあるという感覚)と非現実感(論理思考としての理解 1+1=2ということ)に打ち震えているのですよ。 現実感側 = 現在側 = 幻想側 = クオリア側 非現実感側 = 今 側 = 時空間宇宙側 ここでの問いはその本人を問うてます。どちらにも属しているようには思っているのですが・・・・ そして、そうだとすると、無理矢理言えば、自由意思というのは、現実感側で肯定され、時空間宇宙側に留保され外観上否定されます。 自由意思から本人は生まれません。本人がいるから現実感側で自由意思を発揮しています。 おかしな言い方ですが、この現実感と非現実感は両方とも肯定すべき現実なのですよ。 お互いに補完しあっているのです。一方を否定すると両方とも否定せざるを得なくなるのです。 そうすると、また、2重の定義の話になります。 今と現在の違い、幻想(浮き草)と現実(時空間宇宙)を分けないと話が進まなくなります。 私は、両方を肯定しているのです。(←これが開き直りかもしれませんが) 同和問題も、憲法も解るのです。異議ありません。でも、それでは説明がつかないのです。 飛ばしてしまいますが、《現実に還元する》のは、クオリア側を非現実感へ反応させることです。 ここから先は、言語を超えます。 そうすると、非現実感側=時空間宇宙側にただ驚愕するばかりなのです。 見えているのです。本人以外はね。それも幻想? そこですよ。肝は。
お礼
a. 文体とその補助行為たる科学との関係は如何に。 科学は文体側であって、時空間宇宙と人間認識との間が非線形なので、ここを掘り下げる必要がありますね。 b. 文体の確立を目指すとするなら 科学のほかに(=その活用以上に) どのような補助行為があると考えるべきか。もしくは 補助行為以上の事柄があるのかも知れない。 c. わたしの自己還帰がもし間違っていた場合 これをどのように質し正すか。《わたし》相互の間では・さらには広く社会一般においては これをどのように行なうか。 > これら( a ・b ・c )をまとめて 信仰を基礎に持った哲学思想の展開が 望まれる。 信仰には、共通したクオリアが不可欠ですね。 このクオリアの量と質の向上が、哲学思想の展開へつながるのではないでしょうか。 哲学思想のその文体は、非常に狭い情報量しかありませんね。 その土台は世界全体のクオリアであって、さらにそれを支えているのが時空間宇宙です。 文体、クオリア、時空間宇宙の間はたとえ同じ作業していたとしても非線形ですね。
補足
brageloneさん 本当にありがとうございます。 brageloneさんとのやり取りの中で、解ってきました。 文体とは、文章、いわゆる言語表現という理解でいいのですよね。 非線形とは、簡単に言うと連続していないといういことです。 一番身近な例は、相転移 個体→液体→気体でしょう。 わたしが主に扱っていたのは非線形光学材料です。 尿素なんかがそうなのですが、ある波長の光を特定の物質に当てると違う波長の光になってしまうというようなものです。 解りやすくは、赤を入れると青になると言うことです。 連続性が無いのです。現象があるポイントで、飛躍する場合のことです。特異点もそうです。 さなぎから蝶になるような感じですね。 科学論文も特許も科学思想の言語表現であって客観を表したものです。無論、時空間宇宙での実証があるから、主観を離脱します。 しかし、時空間宇宙での実際の実験観察を如何に客観性を持ってを行っても、それを行っているのが人間ですから、 認識、理解している段階で既に遊離しているのです。人間認識にとって、時空間宇宙は非線形の存在だと言うことです。 言語表現している限り、文体表現しているのがわたしということですね。それ以外には成りようもありません。 これが、わたしが言語表現を直線的とか、一次元的とか言っていたものの正体でした。 わたしが幻想であるというクオリアを幻想ではない自己を使って表現しようとしていました。 わたしは愚かにも豚キムチを食べながら命の重さを語っていたのです。 わたしが幻想なのではなくて、言語表現が不能としてもあえて、クオリアも含めて全てが幻想と言うべきだったのです。 全体が遊離しているのです。既に非線形だったのです。それに気づきませんでした。 とすると わたしの 輪郭 もその範囲内で明確になりました。 この極端に狭い帯域幅が遊離している側でのわたしの正体であるということです。わたしが一であるなら この冪は つねに一である。 そして、クオリアの帯域幅がわたしの比ではないから直接移動させることができない。 その延長で言うなら、<わたし>というクオリアは、狭い帯域幅のわたしには入ることができない ことが解りました。わたしの全体が解ったわけではありませんが・・・