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自己のクオリア
自分自身を対象にするクオリアってありますけど、 このループした単純な系が狭い意味で自己の本質でしょうか。
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No.22を承けます。 かつて 《文体》という視点ないし主題として 考えたことがあります。以下のようです。 わたしの存在は わたしがわたしであるという自同律(アイデンティティ)の展開過程である。 自己到来するわたしの自乗・三乗・・・とその連乗積をかたちづくっていく過程である。わたしが一であるなら この冪は つねに一である。 わたしとは何か。わたしと名のる存在である。ここから わたしが自己到来をつねに新たに展開していく過程は 表現行為の過程である。一般に内面における自己還帰の確認は 広く自己表現として表わされる。外化される。直接・間接あるいは顕在・潜在を含め広く ことばをとおしての表現行為として展開される。 内面における自己同一性〔たるわたし〕そのものは 必ずしも定かになるわけではないが ことばの表現をとおして・もしくはことばを介した認識をとおして 了解し合われる。表情・振る舞いといったものも 解釈され これを ことばの表現として認識し了解していく。 かくて わたしの生きる過程は 文体として展開される。これらの限りで 文体行為の過程が わたしである。(Le style, c'est l'homme meme.) 文体の原則(命題): 1. 文体は 生活である。文体にはわたしが生きていることが先行している。 2. 文体は 生きることであるなら 過程行為であり 行為過程である。 3. 生活は 自然界や社会やの世界すべてを含む。《わたしの自乗》理論は 表現過程として あたかもこの世界のすべてであろうと欲する。ただしそれは 文体行為としては 一人の人間の一主観であるにすぎないというのも然ることながら その(=世界過程の)事後的な認識であるにとどまることが ふつうである。 4. 過程行為である文体は 《わたし》相互のあいだの了解を求める過程として展開する。各自のわたしに修められた主観としての世界観は 共通の基礎を問い求め 互いの共同化に進む。主観の共同化は 経験合理性にもとづく科学行為によってその基準が用意される。 5. 科学によってもたらされた新しいいわゆる客観認識を持ったとき わたしは ふたたび自己に到来し これを自乗・三乗して生きていく。 6.文体行為そして科学行為は いづれも わたしが生きることに後行している。科学によるあらゆる客観知を得ない場合にも 文体は 自己の判断によって表現行為に出発する。文体がいわば確立しておらず 自己の判断がまだ定まっていない状態にあっても そこに生きる人間は あたかも世界の絶対的な現実である。また 絶対的な現実であるゆえ 一人ひとりのわたしに 自らの文体行為が促されるであろうし 望まれる。 7. かくして わたしは 科学を補助行為として持ちこれを利用しつつ 文体過程として生きる。 ここからわたしたちの持つ課題は a. 文体とその補助行為たる科学との関係は如何に。 b. 文体の確立を目指すとするなら 科学のほかに(=その活用以上に) どのような補助行為があると考えるべきか。もしくは 補助行為以上の事柄があるのかも知れない。 c. わたしの自己還帰がもし間違っていた場合 これをどのように質し正すか。《わたし》相互の間では・さらには広く社会一般においては これをどのように行なうか。 これら( a ・b ・c )をまとめて 信仰を基礎に持った哲学思想の展開が 望まれる。 * 生命尊重は 人間優位にならざるを得ないように思います。 * 《非線形》については 考えていませんでした。たぶん 線形の動態として捉えていたのだと思います。残念。というより 非線形をおしえてください。
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bananasandさん コメントをいただきました。これに反応します。 クオリアと聞いて 何のことかと思ったのですが――しばらく前に ここのQ&Aの場でですが―― ヰキぺディアを見ると 何のことはない 心のことかと思って あとは 勉強していません。今回も ここでのやり取りと並行して 学んでいくことにします。 ですが bananasandさんの問題にしておられるのは まさしく――古典的に言えば―― 《自由意志》のそれです。 わたしの捉え方で行けば (1) 人は 自由意志を持つ。 (2) これは 善つまり自己の存在あるいはその自由 つまりはみづからの自由意志 これにも逆らう自由を持つ。自己を抹殺しようとしたり 自由を持てあまして 従属・服従のほうをえらぼうとしたり 《自由に》 おこないます。 (3) この一人ひとりの《自由意志》の社会的に錯綜する関係構造においては あたかも悪貨が良貨を駆逐するかのように 意志の自由選択の足を引っ張りあって 《思うように》生きられません。 (4) 存在および生命が 善であるとするなら それらを維持しよく保ち向上させようとする自由意志は 善である。この前提に立つ限りで 自由意志のおもむくところは 妥当であり 有効である。 (5) 意志による有効な選択とその行為が 《思うようには》有効ではないのも 実際の現実である。 (6) 悪貨に駆逐された良貨としての自由意志は その有効性が 社会的な既成事実の力の前で 妥当であっても 無力にされている。 (7) 有効だが 無力になっている。既成事実や既得権益にもとづくそれとしての自由意志は たとえ無効であっても 有力となっている。無効な意志内容のことでも すでに生活現実となっていると その既成事実を 人は 死守しようとする。これは 容易には 変革できない。 こういう事情によって説明する理論で どうなのでしょう? 人間の本質は 《社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である》。その心は 《自由意志》にある。この意志自由は 関係性としての本質から 相互の平等・対等を みづからに宿している。 民主主義は この一人ひとりの意志による自由な選択に 基礎を置いている。ゆえに 既成事実に 妥当ではなく存在を傷つけるような無効の行為関係なる現実があっても まづは 自由意志の発現を 第一の条件としなければ 何も変革が出来ない。 人は たとえ有効な思想を抱いていても 挫折感や無力感を味わう結果を持つ。 だが 本質(つまり この言葉じたいが 存在のことである)は 独立性と関係性との同時一体にある。その保持・活用は 自由意志による。社会現実としては 無効の行為関係が 有力となりがちであって このような歴史事実の前には 有効で妥当な思想や行為も 無力になることに甘んじている。その心は 人びとにおける自由意志の自由な発現に俟っているという意味である。 (それに答えるには 三分割の原則がある。その以前には ひろく常なる井戸端会議が 提唱される。そこでは 有効な考えを実践する人が 三分の一 いて 次の三分の一が 共感し 残る三分の一が 反対しているという情況 これを実現させればよいだろうというものです)。 ★ 自己の起源 ☆ については 触れ得ませんでしたが(むつかしいでしょうね) ★ 主体ないし主体性 そしてその限界 ☆ は 自由意志とその有効性の問題であると考えます。
お礼
ご反応ありがとうございます。 >《社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である》 > 有効だが 無力になっている。 よく分かります。だからこそ非常に難しいと言っていたわけですね。 そして、この《自由意志》ですね。曖昧で、複雑で、とらえ処のない・・個人の中にある三分割を右往左往する・・自由意思。 心優しく、残酷で、戦争に魅了される平和主義者。慈善団体へ多額の寄付をする拝金主義者。心から愛する家族へのDV。自由意思。 あたかも既に多くの人格が内在しスイッチ切り替えるが如く 入れ替わる。あるいは、2重、3重にも多面化した意思。 自己と関係性、自由意思とその有効/無効・・・・・ ここの根元は解りません。言ってみれば幻想がなぜ幻想として 発生しているのかを問うているからですね。秘密はあると思います。 この質問はそこを問うています。 まぁ、そんなことはどうあれ、時空間宇宙から遊離したこの幻想を 時空間側に還元することが復活の一歩であるとは思うんですね。
★ クオリア ☆ をどう論じていいのか よくわかりませんので ★ 自己の本質 ☆ とは何か? から入って 回答を寄せます。 人間は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在であると思います。 人は 孤独です。ひとり生きます。主観が 互いに 違うと言ってもいいと思います。しかも 孤独関係として 主観を共同化し得て その共同主観(コモンセンス)とともに 社会的に生きます。 自分で これが わたしだと言える程度に 《わたしが わたしである》とき 独立存在であるでしょう。しかも このとき同時に 独立した主観であるゆえにこそ 互いに社会的に 主観を交通・交流させます。どのように社会をかたちづくっていくかについて 基本的なところで――つまりたとえば 自由・平等あるいは 民主主義であるとか の理念について―― 共通の見解に立つことができると考えます。 たとえ 主観を共同化し得ずとも つねに 話し合いをつづけていけばよいのであって そのとき 人は 基本的に 社会的な関係存在であると捉えられます。 ★ ループした単純な系 ☆ というのも よく分からないのですが 主観は 自分からすすんで どういうわけか・何のためにか 孤立していくことはあっても そして 基本的には 孤独でありつつ 孤独関係は つねに成り立っており 主観どうしの話し合いは これもつねに 進められていきます。らせん的に発展するループ状の系として 広く共同主観をかたちづくりつつ すすむものと考えます。これが 人間の本質であり そこに みづからのくせなどをつけ加えれば 具体的な自己の本質になると考えます。 ピントはづれかも知れませんが 投稿してみました。
お礼
brageloneさん お待ちしておりました。 >人間は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在であると思います。 そうですね。そう思います。関係が存在です。 >主観は~具体的な自己の本質になると考えます。 上段の視点から、異論はありません。まさに本質となるでしょう。 その本質は、それで間違いないのですが、 その本質を本質とする側の話ですね。禅とか瞑想などの精神性とも 一応、切り離した思考とこれに伴う感覚としての話です。 クオリアといっているのは、質感です。感覚です。肉体感覚。心。 自分というものをその孤独にしている限界内を感じているという そのものを指しています。 それを感じている主体が、その主体を感じているという 上段で言う関係性が本質なのではないかと問うています。 自分の起源ですね。 何かしらの自分の大本の主体があって、肉体、直感、記憶などとの やり取りがなくとも大本の主体は成立するのか(脳の極一部の機能だけで成立するか) そうではなくて、大本の主体などなくて、それら同士の関係こそが自分を成立させる起源であって、それを主体だと感じているということが自分の本質ではないかと思うときがあるんですね。 そうすると、自分の限界や孤独はもは意味が消失して、自分の事も知ってはいない・・・解ってもいなければ、説明もできない というような感覚ですね。 さて、このいばわループした系(関係)が自分なのか 自分という限界内のなんらかの核が自分なのか・・はたまた、他にあるのでしょうか。
- littlekiss
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こんばんは、bananasandさん。 ANo.3へ《この回答へのお礼》をいただき m( _ _ )m どうもです。 ● あ~、イメージは掴めました。 ↑ 掴めましたか?ホントに? ●大真面目ってことは、もしかして秋田さん御本人ですか。まさかね。 ↑ 帰って来るかもしんない~♪ 来る きっと 来る うん、お盆も近いことだし…手ぇーあわせとこっと (‐人‐)合掌 “みのるほど こうべを たれる いなほかな” m( _ _ )m よみびとしらず 『漫才作者秋田實 』 http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?nips_cd=9974640032 http://www007.upp.so-net.ne.jp/okeda/articles/akita.htm http://www.jst.go.jp/pr/announce/20070326/index.html 【QNo.4077221 自然法は もう人気がないのでしょうか】 ANo.44 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4077221.html 【生命科学専門部会報告書構成案】 http://www.science-for-all.jp/minutes/download/report-seimei.pdf ◎ 話し途切れるんで、一部修正かけて再度アップしておきます。 ↓ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【回答 ANo.1 】 回答日時:08/08/09 20:13 ●自分自身を対象にするクオリアってありますけど、 このループした単純な系が狭い意味で自己の本質でしょうか。 方々に散っていっても来た道を辿りかえれば一本の道へ続く あーだめだ、イメージが先に浮かんでくる うん、 ナルト ~分身の術~ 本体は一体なんだけど…ダーッと現れると、どれが本体だかわかりゃしない。 自己の本質といえば… 『悟空の大冒険』 ↑ これかな 髪の毛一本からたんと生まれる 【第6節 遺伝子の本体】 http://www.keirinkan.com/kori/kori_biology/kori_biology_1_kaitei/contents/bi-1/2-bu/2-3-6.htm ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【この回答へのお礼】 littlekissさん。ご回答ありがとうございます。 いや~思わず笑ってしまいました。そういえば、天地無用の魎呼も2分身でしたね。 分身の術、一卵性双生児、クローン系の話も興味は尽きませんし、 DNA分解酵素、メチル化維持酵素、真性酵素、ヒストンメチル化など DNAが全く同じ個体でも外形が異なるようになる意外性は、実に面白いですね。 >方々に散っていっても来た道を辿りかえれば一本の道へ続く 一つの個体内の自分を自分が内心でイメージする自分っていうのは、 一本の道へ続く・・何かに辿り着くのか、それとも結局、こんなようなループそのものの 構造が自分なのかが分からないんですよ。 架空の話ですが、これらアニメのように分身となった10個の自分が合体するとき 各々の個体が持っていた自分が、一つにもなれるということは、残りの9個の自分は、 どこへいってしまうんでしょう。 そう考えると、自分というのはもともとが夢幻なのでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お礼
あれ、ご回答が入っていたんですね。放置しっ放しですいませんでした。 あれは確か 山の村 だったなぁ。 風に近い蝉の声には川がながれるだよ~ぉ。 明日には雨は止むと思うけどね。 さてと、歯でも磨くかな。真剣にね。
- littlekiss
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こんにちは、bananasandさん。 ●いや~思わず笑ってしまいました。 ↑ キャッ-☆ |(><)| 笑われちゃった…(//▽//)ポーッ ヘンだ!(`へ´)笑わば、笑え! こちとら大真面目のこんこんちきなんだけどなぁー 自分でいうのもなんだけど… これでも大真面目に考えてるんだよ (*^^*)v 何を? 擬音語、オノマトペ。 《方々に散っていっても来た道を辿りかえれば一本の道へ続く》 【『若者たち』】 藤田敏雄作詞・佐藤勝作曲 http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/wakamonotachi.html 【言語学】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6 【音象徴】 http://www2.kobe-u.ac.jp/~069d703h/JCLA8-PPT.pdf 副次的であるからと、主としてみなされず捨て置かれる。 名もなき者達がいるんだよ、いたんだよ。 夢でも幻でもない、現実にいる。 副次的であったものが、いつしか副次的とはみなされず 主として機能する。機能していく中で新たな副次的なものが育つ。 代替エネルギー http://www.jst.go.jp/pr/announce/20060214/index.html ここのところの異常ともおもえる石油の高騰みてて何か思わないか? なんだこりゃっと?「石油が枯渇する」と、地球存亡の危機が叫ばれはじめたのはいつのころからだったかな?何かひとつでは石油で賄われていた需用を満たすに足る供給量までには及ばない。それからだよ、いろんなところで代替エネルギーの研究が試行錯誤で始まった。需用を満たす供給量を備えないことには、力をもたない。用をなさない。気の遠くなるような時間が流れてく。その時間ののなかで、少し、少しづつ育ってきた石油代替エネルギー。原子力,石炭,天然ガス,水力,地熱,太陽エネルギー,風力発電,水素(燃料電池),廃棄物発電,バイオマスエネルギー…etc。蛇口を開けば湯水のように石油が湧き出てくるとばかりに安堵して暮らしていた国もようようそんな暮らしがいつまでも続こう筈もないことに気づいたのか蛇口を閉ざす。閉ざせば、石油の値はあがり一時的には収入も増えたかに思われもしよう。が、数年後には育ってきた代替エネルギーが成人として世に出る。この間に入ってきた収益を他に割振り経済を成り立たす経済運営に着手しなければ石油を主な収入源としている国の収入は激減する。砂時計をひっくり返したように。 石油を持たざる国日本、ソフト面で培ってきた日本の技術が花開く。
お礼
>これでも大真面目に考えてるんだよ (*^^*)v あ~、イメージは掴めました。 大真面目ってことは、もしかして秋田さん御本人ですか。まさかね。 《方々に散っていっても来た道を辿りかえれば一本の道へ続く》 そうでしたか。 副次的であったものが現実に存在する理由。 代替エネルギー技術は技術思想の創作そのものが存在する理由。 脳細胞の死はアポトーシスではなく、RNAポリメラーゼII機能障害という、副次的アノマリーであり その予定された計画性。 ところで、オノマトペの特異性というのは、人間特有と考えていいのですか 完全に音声信号としてとらえた場合、その音素分布は、成人人間の普通会話を基準に、 人間オノマトベ、哺乳類、動物、鳥、昆虫の意識レベルと何か相関性や関係性が見いだせるのでしょうか。
対象化できないものを言葉の魔力によって対象化できたと錯覚してしまうというようなことはないでしょうか。
お礼
kaitara1さん。ご回答ありがとうございます。 言葉の魔力。 そうですね。確かに、こうして、書き込みするにはイメージを直接伝えることが出来ず、どうしても言語表現しなければなりません。言葉はイメージを伝えるために手段であり仲介者だと思っていましたが、発信者と受信者のイメージの組み合わせを超えて、錯覚させるほどの魔力が言葉にはあるのでしょうか。言霊の一つでしょうか。
お礼
a. 文体とその補助行為たる科学との関係は如何に。 科学は文体側であって、時空間宇宙と人間認識との間が非線形なので、ここを掘り下げる必要がありますね。 b. 文体の確立を目指すとするなら 科学のほかに(=その活用以上に) どのような補助行為があると考えるべきか。もしくは 補助行為以上の事柄があるのかも知れない。 c. わたしの自己還帰がもし間違っていた場合 これをどのように質し正すか。《わたし》相互の間では・さらには広く社会一般においては これをどのように行なうか。 > これら( a ・b ・c )をまとめて 信仰を基礎に持った哲学思想の展開が 望まれる。 信仰には、共通したクオリアが不可欠ですね。 このクオリアの量と質の向上が、哲学思想の展開へつながるのではないでしょうか。 哲学思想のその文体は、非常に狭い情報量しかありませんね。 その土台は世界全体のクオリアであって、さらにそれを支えているのが時空間宇宙です。 文体、クオリア、時空間宇宙の間はたとえ同じ作業していたとしても非線形ですね。
補足
brageloneさん 本当にありがとうございます。 brageloneさんとのやり取りの中で、解ってきました。 文体とは、文章、いわゆる言語表現という理解でいいのですよね。 非線形とは、簡単に言うと連続していないといういことです。 一番身近な例は、相転移 個体→液体→気体でしょう。 わたしが主に扱っていたのは非線形光学材料です。 尿素なんかがそうなのですが、ある波長の光を特定の物質に当てると違う波長の光になってしまうというようなものです。 解りやすくは、赤を入れると青になると言うことです。 連続性が無いのです。現象があるポイントで、飛躍する場合のことです。特異点もそうです。 さなぎから蝶になるような感じですね。 科学論文も特許も科学思想の言語表現であって客観を表したものです。無論、時空間宇宙での実証があるから、主観を離脱します。 しかし、時空間宇宙での実際の実験観察を如何に客観性を持ってを行っても、それを行っているのが人間ですから、 認識、理解している段階で既に遊離しているのです。人間認識にとって、時空間宇宙は非線形の存在だと言うことです。 言語表現している限り、文体表現しているのがわたしということですね。それ以外には成りようもありません。 これが、わたしが言語表現を直線的とか、一次元的とか言っていたものの正体でした。 わたしが幻想であるというクオリアを幻想ではない自己を使って表現しようとしていました。 わたしは愚かにも豚キムチを食べながら命の重さを語っていたのです。 わたしが幻想なのではなくて、言語表現が不能としてもあえて、クオリアも含めて全てが幻想と言うべきだったのです。 全体が遊離しているのです。既に非線形だったのです。それに気づきませんでした。 とすると わたしの 輪郭 もその範囲内で明確になりました。 この極端に狭い帯域幅が遊離している側でのわたしの正体であるということです。わたしが一であるなら この冪は つねに一である。 そして、クオリアの帯域幅がわたしの比ではないから直接移動させることができない。 その延長で言うなら、<わたし>というクオリアは、狭い帯域幅のわたしには入ることができない ことが解りました。わたしの全体が解ったわけではありませんが・・・