唯我論を大きく類型化すると・・・
1a)認識論の観点から、基本的に「個」が、さまざまなフェーズ(局面)を通過して、究極の認識・智に到達する(到達し得ない智も存在)という立場をひとつのグループにまとめることができます。(新プラトン派・ヘーゲル・フッサール・ピアジェ等)。
1b)認識懐疑主義的独我論 ヒューム等(彼自身は、具体的に言及していないが、断片から推定すると1の仲間)
2)次に形而上学的唯我論 プラトン・デカルト・カント等
3)最後に存在論的唯我論 例えば、ショーペンハウアー
でそれぞれ、批判の対象となるべき議論・内容が違います。(批判の難易度は、3-2-1の順。)
フッサールと心理学/宗教との関係を研究するとわかりますが、
共通点は、全ての唯我論には、世界観(世のあるべき姿)が、必ず背景として存在するということでしょう。
興味深いことに彼は、H・リッケルトの後任/ハイデッガーの前任者です。
批判の論点となるのは、概して、言語の「存在」。言葉は、いったい「誰の為」にあるものなのか?意味論を視点とする「先験性(ア・プリオリ)」が、批判の焦点となります。回答は、自我を語るために「言語」という より複雑・怪奇な(「自己=唯我」の範疇に納まらない「他者」を前提とする)道具を利用しているという「事実」に還元されるでしょう。
もう一つは「世代間の自我変化」 (自己をどう捉えるかということを中心として)認識自体が変化するのは、「世界観」が、変化する為とも言えそうだからです。
ショーペンハウアーが、「結婚反対論者」であり、「読書をしているものは、直ちにそれを中止せよ。時間の無駄である」とか、「近頃の若者はナットラン。言葉もろくに使えん!」「言語は、書を綴る為の道具」と言い放っていることも、面白い事実です(哲学に起因する他者との関係性阻害・典型的モラハラ・パーソン)。
お礼
ご回答ありがとうございます。 とても詳しい回答でした