この質問をするには、質問者さん自身が自分で何を質問しているのか判らないと、どんな答えが出て来ても、混乱してしまうと思います。
先ず、「人が生きる」と言う言葉で、「人が生物として生きる」と言うことを聞いているのか、それとも人が他の生物とは違って、「人が人として生きる」と言うことを聞いているのかで、答え方が全く違って来るはずです。
ここでは、後者の意味で聞いているものと解釈してみます。その場合、この質問が英語でもフランス語でもなく、日本語で質問されていることが既に問題になります。何故なら、貴方の質問で言う「人」とは日本人であると解釈すべきなのか、それとも、もっと一般な、日本と言う固有の文化を離れた人間についてなのかが、問題になってきますので、それによっても答え方が違ってきてしまうからです。
いずれにしても言えることは、人は文化を持っております。どんな人間でもその文化に無関係に人が人として存在することができません。上でも述べましたが、この質問を日本語でしたと言うことで、たとえそれが「一般的な人間」に対する質問であっても、すでに日本固有の文化に影響された質問になっています。したがって、文化が違ってくれば「生きることの意義」も違って来ます。
別の言い方をすると、「生きることの意義」の違いを認識すること、従って、価値観の違いを認識し、その多様性を受け入れることが、文化の違いを認識し、その多様性を受け入れることなのです。そしてまた、自分が彼でも彼女でもなくて自分なのだと言う個性を認識し、他者の存在を受け入れることなのです。蝶や日本人には蝶や日本人固有の存在意義があり、そして、トンボやアメリカ人にはトンボやアメリカ人固有の存在意義があるのであって、蝶の存在意義はトンポの存在意義よりも優れているのいないのと分析したり、アメリカ人の文化がアフガニスタン人の文化より優れているのいないのと議論することに意味がありません。ことほど左様に、「人が人として生きる」ことについて文化の違いを超えた「客観的」なものがあると主張することは、文化の存在を認めた者にとっては自己矛盾した主張になっております。
あるいは、個性と言う自分の生き様にとって最も重要なものに関係ない、従って余り興味も無いことに関してなら、「人が人として生きる」ことに対する客観的な主張が意味をなす場合もあるかもしれません。
このように、質問さん自身が、自分で使った言葉の一言々々を分析して、自分が何を言っているかが判るようになると、質問者さん自身で、少なくともその答えのヒントを見つけることができると思います。
お礼
じっくり読まさせていただきました。 詳しい助言をありがとうございます。