• 締切済み

強いこととは何ですか?

はじめまして。 私はつい考えこんでしまう性格でして、この間いじめをテーマにした小説を読んだときにある疑問が浮かび、その答えをどうしても見出せません。 その小説に出てくるいじめ被害にあった子は、皆親や周りの大人に相談せず、ただひたすら一人で耐え、学校に通っていました。 そして、その子達のことを「勇者」や「兵士」といったような、正に「強いもの」としてたとえてありました。 そこでふと思ったのですが、いじめにひたすら耐えるのは本当に強いことなのでしょうか。 そうだとすれば、相談することや不登校になることは弱いことなのでしょうか。 本当に強いことって何ですか? いじめられても根性で耐えること? それとも周りに助けを求められることですか? 集団でないと何もできないので心は弱いかもしれませんが、立場だけで見るといじめる側が一番強いような気もします。 また、いじめられている子供はどうして相談しないのでしょう。 大人が頼りにならないからでしょうか。変なプライドが邪魔をしてるんでしょうか? それともそれが「本当の強さ」だから?

みんなの回答

  • pojipoji
  • ベストアンサー率32% (53/161)
回答No.19

こんにちは ある人は散歩が気持ちがいいという。最近めっきり暑くなってきたので、早朝の少し涼しいほうがよい。またある人は、海を見つめると気持ちが落ち着き、特に夏の夜、海面を棒でかき回すと夜光虫がほの暗く見られなつかしい気分がする。懐かしいといえば、新生児は母親の胎内で聞いた音を、それは大人にとってはまるで雑音だが、聞かせると泣き止んだりする。 思うに、いじめられたときの対応についても、いろいろあっていいのではないかと考える。こうでなければいけないというような規範が子どもを苦しめ、親を苦しめる。親として、自分の子どもがいじめられているのはつらいが、よその子どもを傷つけるのはもっとつらい。親は子どもが不登校なら学校へ行けるようにと願う。学校へ行けば成績が上がるようにと願う。親の期待を知っていてがんばれる子もいるが、ぽっきりと折れてしまう子もいる。自分たちに挨拶してくれるようになっただけでもうれしいこともある。心と身体ががちがちに固まって表現できなかっただけだろうと思う。氷が溶けるように、春を待つようにと願う。 だから、本当に強いとはいろいろあっても生きているということだと考える。状況は変わっていくものである。心と身体がほぐれれば世界は広くなっていくと考える。

  • yuichi7
  • ベストアンサー率18% (52/286)
回答No.18

いじめに耐え抜いた子供を強いとは思いません。 いじめに戦った、いじめっ子と毎日ケンカした、というなら「強い」という表現はあてはまります。 ひたすらイジメに耐えるには「心を殺す」必要があります。手術する時に麻酔を打つように、心を殺す事で痛みをだんだんと感じなくなつていくものですから。 それは、強いとか弱いの話ではなく、人間としてとても悲しい事です。 そもそもイジメという言葉が、今の時代には軽すぎる気もします校内虐待とか、そんな犯罪的な言葉に変えた方がいいと常々感じています。 まあ、本当に強い理想を言うと「イジメた連中を徹底的に屈服させる。その為には手段を問わない」ぐらいがちょうどいいと思います。強い事は敵が少ないという事ですからね。 相談は現実問題として難しいですね。 もう子供達も学校が信用できない事は熟知していますからね。学校に相談したところでイジメがエスカレートするだけの可能性が高いです。 実際、学校や親に相談するぐらいならインターネットで相談するというのが多いと何かのアンケートでやってました。 プライドというより「諦め」が強いんだと思います。期待しなければ失敗した時傷つかずにすみますから。いじめられている大半の子供は相談したところで事態が改善する期待は持っていない。だから心を殺していくんです。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.17

私の見解では 「強い」=現象に対して瞋・貪・無知の感情に支配されずに慈(友人に対する感情)悲(悩み苦しみがなくなるように思う感情)喜(成功を喜ぶ感情)の感情を多く保ち、捨(冷静で論理的で差別的な思考を廃した状態)をどれだけ持っているか。と言うことと感じます。 「弱い」=はその逆です。 いじめる側、差別志向の人、自己の欲に縛られている人は心の中に大きな弱さをはらんでいるでしょうね。もちろんいじめられて落ち込んで暗い感情を持つ人にもありますね。 どちらも苦しんでいるのでしょうが、いじめられているほうはちょっととばっちり感がありますね。 教育の中でこの心の問題についての考察に重要度がもたれれば、どちらも苦るしみの渦から抜け出させる方法も見つかると思いますが… なかなかやらないみたいですね。 瞋・貪・無知を煽り、慈悲喜捨の心・与え合うことより競争に勝って相手に勝っていかに搾取するかが現代に求められるものとして信じられているように思えてなりませんし… <<また、いじめられている子供はどうして相談しないのでしょう。大人が頼りにならないからでしょうか。変なプライドが邪魔をしてるんでしょうか?>> 親に対し期待にこたえねば、心配かけてはならない。と言う感情はあるかもしれません。 「親」「子」としての役割が表に出すぎて、人間同士である「友人」と言う関係性を無視して育てなかったことによる弊害はあるきがします。 踏み込みすぎ・所有欲などは人間の信頼関係に毒ですから。 親が子の奴隷(何でも思うようにさせる・特別でえらい存在と思い込ませる)のようになっているような場合も大いに問題でしょうね。 夢物語を刷り込ませ現実を見せず、自分こそ正しいえらいと言う概念を植え付け… 他人に自分の思うようにいけと暴力害意を持っていじめるようになるか、いじめられて「何で、自分は偉いのに」と外か内に強い怒りをもって今まで持っていた理想の自分との格差に落胆し、時には気力を失い、突っぱねることもしなくなったりしてしまうこともあるでしょう。 ともに本当の強さを知識レベルでも知っていてその育てる方法を周りが支援して教えてあげればともに誤智から抜け出せると思うんですがね ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

  • smgoo_001
  • ベストアンサー率12% (6/49)
回答No.16

二回目の投稿です、質問者さんは17歳でしたか、もっと年配の方と思っていましたので少し追加させていただきます。 私が思う本当に強い人は「マハトマ・ガンディー」と「マザー・テレサ」 と思います、他にも無名の人がたくさんいると思いますが私にはわかりません。 ANo.8さんの 「強いこととは、権力です。  強いこととは、地盤です。  強いこととは、生まれや家柄です。  強いこととは、人脈です。  強いこといは、お金です。」 は人間のもっとも弱い部分と私は考えています。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/マザー・テレサ,http://ja.wikipedia.org/wiki/マハトマ・ガンディー
noname#87274
質問者

お礼

ありがとうございます。 権力やお金といったものを前にすると人間は驚くほど弱くなってしまうかもしれません。 URLも参考にさせていただきます^^

  • taro1121
  • ベストアンサー率43% (178/409)
回答No.15

基本的な考え方はNo6、No10のnabayoshさんと似ています ちょっと加えさせていただくと 質問の中の「いじめ」・「本当の強さ」は分けて考えた方がわかりやすいと思います 「強い」:比較する相手(対象物)がいて、表現する言葉 その相手が個人でなく他の人という抽象的なイメージでも良いのですが その「他の人」は、やはり自分の周囲の人となる だから、「本当の強さ」は世界にただ一人の「強さ」なのでしょう。しかし。それもある一面のみ。(金メダリストや各種ランキングTOPの人) 「真実の強さ」は人が生物である限り不可能なのかもしれませんね 「いじめ」:昔は、いじめるという行為がはっきりしていて、「おい、いじめるなよ。」と声をかける人がいた。今のいじめは、昔で言えば村八分を意味している。村八分状態なので、いじめられている人は周りに相談相手はいないと心を閉ざす。 その結果、いじめがいじめられた人を鬱(うつ)に追い込んでいるように思います これは、日本独特の和の心の影の部分だと考えます 自分たちと異なる人は輪の外へ追いやる ・何かを出来ない人・いじめっこ・出来すぎる人・・・・ 多数決がすべてという教育方針(マニュアル)の中での歪(ひずみ)でもあると思う いじめられている人の相談に、世界はもっと広いと答えるようにしていますが、鬱状態で、なかなか受け入れられないようです

noname#87274
質問者

お礼

ありがとうございます。 私もそう思います。やっぱり今のいじめは昔よりたち悪いですよね。 日本は多数派が正しく、少数派は間違いとする風潮があります。 私はなぜか少数派に入ってしまうことが多くて、悩むことがたくさんあります…。

回答No.14

22koregu22さん、こんばんは。 No.11で入れた補足要求へおこたえありがとうございます。 お体の加減大丈夫ですか? ●親とは暇があれば昼も夜も会話してます。 そかそか、それはなにより。 で、たちいったことを聞くようでなんなんだけど… ●中学校の先生方も、理解して下さる方達ばかりでした。 と、あとの文にことばが綴られてあったけど、 《今病気》というその病、中学の頃も(病)煩っていたのかな? たとえば… 長く休んでいたとすると 自分(生徒)から意思表示することなくとも  先生(学校)から働きかけがある 先生(学校)は生徒に何かしら連絡を伝えないといけないし 生徒の様子を把握しておく義務があるじゃない職務上 するとこの場合、1(生徒):1(先生)の関係 先生が教室でクラス30人もしくは40人に向かって連絡事項を伝えるのって 30(生徒):1(先生)の関係 もしくは 40(生徒):1(先生)関係 人の感覚として1:1で話してる感じよりも希薄に感じてしまうものなんじゃないかな? 《中学の頃も(病)煩っていたのかな?》と聞いたのは、 もしそうであるなら、22koregu22さんの場合1:1で話す機会が はやくからあったということになる。 22koregu22さんのことばをかりるなら《恵まれた環境の子供》 しかしながら、中学生になると子どもの自主性を伸ばすところに幼稚園児や小学生以上に力点がおかれるから(自分から聞く・尋ねる・考える)これまで(幼稚園児や小学生)のように手取り足取りではなく、先生方にしても親御さんたちにしても子どもから言って来るのを待つことを求められる。中学生、高校生にあたる子どもって、子どもは子どもなんだけど、こどもでもなくおとなでもないとても不安定な時期。子どもに見られたくない、大人扱いされたいとか、子どものままでいたいとか、複雑な思いが行き交う。●《いじめられている子供はどうして相談しないのでしょう。》というところのひとつに《プライドが邪魔》ってことばを質問文であげていたよね、そういうのもあると思うよ。自分でこの難関をどうきり抜けようかと思案しているのかもしれない。しかし、どう考えてもわかんないときは、人に聞いてもいいんだよ。聞くこと、尋ねることは悪いことではない。そのときに、何処の誰に何をどう聞けばどう話せばいいのか、打ち明けるにしても上手く言葉にならないことがまた言葉を押し黙らせてしまう。それだけに時と場合によりにけりで、自主性を伸ばすというお題目にとらわれ過ぎて先生方にしても親御さんたちにしても待ち過ぎてはいけない。おかしと思ったら、さっさと介入する。見られていない、気にかけられていないとなると、いじめは増徴する。一人、一人が大切な存在なんだってお互いが認識することが大事。 強さって、自分の身の内に潜む負の感情と向き合うことじゃないかな。 大人の世界でも「死に神」という報道に過剰なまでに反応する人たちがいる。 なにゆえ、過剰に反応するのだろう? 理由はどうあれ、法という公正な裁きがあるのに 感情のおもむくまま、人が人の死を願い乞う 人が人の死を願い乞うたことは事実 過剰なまでの抗議のありようには 人が人の死を願い乞うた事実を 消し去ろうとしているのかとさえ思えてくる

noname#87274
質問者

お礼

>《今病気》というその病、中学の頃も(病)煩っていたのかな? はい。たぶんそのころからだったと思います。 でも本当に軽い鬱病なので、「元気がないな」って感じです。それが高校にあがって少しひどくなり、今は療養してます。 >人の感覚として1:1で話してる感じよりも… そうですね、それもあるかも知れません。 でもやっぱり、ちゃんと個人授業をしたりして下さったので、今思えば相当特別扱いだったと思います…^^; まだまだ甘くてわがままですが、少しずつ強くなれたらいいなぁと思っています。 ありがおつございました!

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.13

#5です。 私の書き方が悪かったと思うので、ちょっとだけ追記しますね。 「相談できるということを教えられてこなかった」 というのは、そういう場所とか方法を教えてもらわなかったということではありません。 「相談すればちゃんと聞いてくれるのだ」という経験、あるいは、 「私のことを本当に心配しれくれる人が確かにいるのだ」という実感、 をしていない、ということです。 こういった経験、あるいは実感がないと、いくら相談しなさいと言っても躊躇するのが自然でしょう。 自分が困難に直面していることを知られるのは自尊心にとってつらいことですし、確実に援助が得られるという保証というか、可能性が高くなければ、さらに傷口を広げてしまう危険性もあるわけですから。 >昔と今で子供の世界で違ってることって何なのでしょうか。 :たぶん、そんなに違いはないでしょう。 昔だって陰湿ないじめはありましたし、ただ、今のように実態が公になる機会が少なかったというだけのことだと思われます。 >そして「強いこと」ってどうできる事なのだろう・・・ :自分の意志で、ベストと思う選択ができること。 ということかもしれませんね。 自分で耐えるのだって間違いなく強いことでしょうし、他者に援助を求めることだって(自分をさらけだすわけですから)勇気の要ることですから強いと言えます。 状況によりますし、一概にどちらが強いとは言えないでしょう。 ただ、どちらかの方法を選択した結果、ベストではない、と感じたときに、別の方法を試してみる勇気を持っているようだと、本当に強いということになるのかもしれません。 鉄のような頑なな強さではなく、柔らかさを含んだ「強靭さ」ということにもつながります。  

参考URL:
http://hakobulu.seesaa.net/category/3336594-1.html
noname#87274
質問者

お礼

すみません、私の理解力が足りませんでした^^; >昔だって陰湿ないじめはありましたし、ただ… いじめ自体は今も昔もあったと思いますが、やはり周りの子達の気持ち(?)が違うと思います…。 例えば、女の子が男の子にいじめられていたら女の子がみんなで助けるとか、実際にあったみたいです。 今はそんなの関係なく、集団で一人をいじめてますよね。 個人的には、いじめられる屈辱に孤独がプラスされて、余計にたちが悪くなったのではないかと思うのですが…。 URL有難うございました!とても参考になりました^^

  • smgoo_001
  • ベストアンサー率12% (6/49)
回答No.12

その小説の、いじめられている子は昔の私です。 人は皆弱いのです強い人はいません、強がっている人は沢山います、しかし自分の弱さに気がついていない弱い人なのです。 弱さ故に人を傷つけてしまう、弱さ故に自分をさらけ出すことができない、と考えます。 虐げられ、一人孤独と戦い、悪人を憎まず、善を好み成長した人はある意味強い人といえると思います。

noname#87274
質問者

お礼

弱い部分がない人間なんて存在しませんよね。 だから、少しでも、じぶんが出来る精一杯のことをして強く生きようとする人の姿はとても立派ですよね。 ありがとうございました!

回答No.11

●その小説に出てくる《いじめ被害にあった子》は、 《皆》《親や周りの大人に》《相談せず》、 ただひたすら一人で耐え、学校に通っていました。 ↑ 質問文のここの箇所を読んでて、うーん?なんだこれ? と思ったのが正直な感想。 この一文が、妙にひっかかるんだ なんだろう?と ANo.9への《この回答へのお礼》に ●今のいじめは、被害者の子供が大人に相談しない。…云々 …つまり子供たちだけの世界だということ。 ↑ と、ある。 おかしないか? 親と子の会話が全くないといっているようにもとれるんだけれども たしかに、核家族、共働き、母子・父子家庭の家庭はひところ前に比べれば おおくなり、家族の形態も一様ではなくなってはいる そうはいえども、親と子の会話が全くなされないかといえばそうでもないんじゃないか? 日常のちょっとした仕草、言葉のはしばしからこどもは何らかのサインを送ってる 見過ごしてしまえばそれまでなのだろうが、親が皆見過ごすとも限らないんじゃないかな きけば22koregu22さん、17歳とか。 22koregu22さん親御さんと会話しないの? ●大人が頼りにならないからでしょうか。 ●変なプライドが邪魔をしてるんでしょうか? ↑ この問い、22koregu22さんは身近な大人に対してどう感じているの?

noname#87274
質問者

お礼

小説の中の人物は、親と会話はするんですけど、なかなか「相談」はしないんです。 親が異変に気づいて「何かあったのか」と聞いても笑って誤魔化すだけ。 辛いのに辛いと言えない。言わない。ここの部分も、私が「強いって何だ?」と思ったところであります。 >22koregu22さん親御さんと会話しないの? >22koregu22さんは身近な大人に対してどう感じているの? 実は私、今病気をしておりまして、自宅療養中なんです。だから、親とは暇があれば昼も夜も会話してます。 幸い私の親はとても理解がある人たちで(私が言うのも変ですが)とても頼りになります。中学校の先生方も、理解して下さる方達ばかりでした。 だから、この子達はそこまで大人を信用できないのかな、と。いかにも恵まれた環境の子供の意見ですよね。 回答ありがとうございました!皆さんのご回答、凄く勉強になります。

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.10

No.6です。 >>メンタルな強さの究極は、「動じない」ことです。 >こうなれたら世の中のほとんどの苦難は何でもなくなりそうですよね。 >でもやはり人間だから、心があるからなかなかこうはなれない。 >そう簡単には強くなどなれないということですね。 そう。私も「そんな究極状態に行き着ける人なんて少ないでしょう」と言っている通りです。 これからする話は参考として聞いてください。 ある女性の方、そう、22koregu22さんより少しだけ上くらいの方で、多重人格になっている方とお話ししたことがあります。 人格交替を起こしていまして、いろんな相手と話しました。 それで、主人格でない人格から聞いた、私をはっとさせた言葉があります。 「心なんて要らないよ。それは邪魔なだけだから」 多重人格という心の病のようなものを持っていると私たちに見える人からすると、一瞬バカバカしいことかもしれません。 しかし、もしかすると、「心など持たない人」になれば強くなれるのではないか、と思ったのです。 普通、人間は当たり前にみな心を持っているのだ、と思われがちです。 しかし、それは思い込みかもしれません。 「心がある」と思い込む、それゆえいろいろな「わだかまり」が生まれてしまう。 それでかえって苦しんでしまうのではないか、と。 もしかしたら心などというものはないかもしれない。 私はその言葉を受けてこのような考えからスタートさせることになりました。 心がなければ当然何も思わないわけですから、イヤだなあとも思わない。 これは強い、強いけれどもバカだ。 何をされても動じないなんていう腑抜けや廃人のような状態が強いなんて。 とはいえ、これもひとつの解決方法かもしれないと思ったのです。 心のない人には喜びや楽しみというのはないだろうと思います。 しかし、穏やかで安らいでいることでしょう。 それはもしかすると、つらいことにぶつかって打ちひしがれる心を持つより、安楽なことかもしれません。 いじめを受けても平気でいるという道は、こんな不思議なところにも通じていくかもしれません。

noname#87274
質問者

お礼

何度も丁寧に教えてくださり本当に有難うございます。 >心がなければ当然何も思わないわけですから、イヤだなあとも思わない…これもひとつの解決方法かもしれないと思ったのです。 そう。そうなんですよね。No.6のnabayoshさんの回答を拝見して、このことを思っていました。 なんかこれって、ただの人形みたいだな…って。人形は痛みも感じないし苦しみもありません。 でもキレイなものに感動することも、悲しいことに共感することもないんですよね。 自分の心を無くしてしまわなければいけない場所なんかより、その人はその人で生きていける場所があるのではないでしょうか。

関連するQ&A