• 締切済み

強いこととは何ですか?

はじめまして。 私はつい考えこんでしまう性格でして、この間いじめをテーマにした小説を読んだときにある疑問が浮かび、その答えをどうしても見出せません。 その小説に出てくるいじめ被害にあった子は、皆親や周りの大人に相談せず、ただひたすら一人で耐え、学校に通っていました。 そして、その子達のことを「勇者」や「兵士」といったような、正に「強いもの」としてたとえてありました。 そこでふと思ったのですが、いじめにひたすら耐えるのは本当に強いことなのでしょうか。 そうだとすれば、相談することや不登校になることは弱いことなのでしょうか。 本当に強いことって何ですか? いじめられても根性で耐えること? それとも周りに助けを求められることですか? 集団でないと何もできないので心は弱いかもしれませんが、立場だけで見るといじめる側が一番強いような気もします。 また、いじめられている子供はどうして相談しないのでしょう。 大人が頼りにならないからでしょうか。変なプライドが邪魔をしてるんでしょうか? それともそれが「本当の強さ」だから?

みんなの回答

noname#80116
noname#80116
回答No.9

 No.4です。  ★ 今のいじめは団結して徹底的に個人を叩きますよね。今までオトモダチだった子も一緒になって。 / その傷ははかり知れないものなのではないでしょうか   ☆ そうでしょうし――つまりたしかに わたし自身は 現場に立ち会ったことなどがなく 肌で分かっていることが少ないのですが それでも そういう新しい形になっているのなら そうでしょうし―― しかも それなら それで 子どもと言えども 年齢が低くても 大人のように考えるまでになって来るのだと考えます。ですから  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  >ともだちと連携しあうということだと思います。  以前はこれができていたからいじめられても一生ものの傷を心に負う子は少なかったのではないかと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という・かつての情況のごとく 再び同じように すぐに つねに 《一生ものの傷を心に負う》ことも回避できるように 順応し対応していけるでしょう。また そうなって欲しいと思います。  子どもたちの 自分たちによる自分たちのための自治・共同自治という制度は 実現性が薄いですか? 大人に頼っていては ろくなことがないかも知れません。

noname#87274
質問者

お礼

二度目の回答有難うございます。^^ >子どもたちの 自分たちによる自分たちのための自治・共同自治という制度 これは、私は無理だと思います。 今のいじめは、被害者の子供が大人に相談しない。 いじめは、子供にとってゲームです。ターゲットを決めて、全員でそのターゲットを痛めつけるゲーム。中止の要請を出すのは、このゲームではご法度なんです。だから誰も「やめよう」なんて言わないし、かばいません。 大人に言うのも同じくルール違反。ルールに違反した者は、次のターゲットになってしまう。 だから誰もとめないし、大人にも言わない。つまり子供たちだけの世界だということ。 その世界で、このゲームは延々続くのです。 ならば、ターゲットに選ばれてしまった子はいったいどうすればいいのでしょうか。 すみません、なんだか論点がずれてきてしまいました…。(汗

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.8

強いこととは、権力です。 強いこととは、地盤です。 強いこととは、生まれや家柄です。 強いこととは、人脈です。 強いこといは、お金です。 福井元日銀総裁を見て下さい。彼はやめませんでしたね。 天下りは増える一方ですね。 小泉、阿部、副田、麻生、鳩山兄弟、石原一家を見て下さい。皆家柄ですね。 これにかろうじて並ぶのが、民意でしょう。でも、かろうじて並んでいるので、ちょっとした隙に、民意は強さを失ってしまいそうですね。

noname#87274
質問者

お礼

なるほど、世間一般で言われている「ドロドロしたもの」が強さだ、というご意見ですね。 ありがとうございました!

noname#91067
noname#91067
回答No.7

物事に悲観するのは人間にある自然がさせます。人間の想像力の賜物で あるでしょう。しかし、中にはそうであるにも関わらず意思的に楽観す る人もいます。両者の違いは「変化を待てずに自分から変わる」柔軟な 意思があるかないかだと思います。 他人を羨やんだり、理想的になろうと義務、義理の尊重に勇気は要らな い。弱さからで、外部が解ってくれるまで辛い我慢の受身をしているだ けだと思います。 それと正直、誠実になること。「欲しいものは欲しいという。要らない ものは要らないという。あげたいものはただあげる」 自分の快楽の、馴染んだ嗜好趣味に対して誰も正直であろうとし素直に なれるもの。しかし楽しいことを思い描く途中で挫折や限界を認め素直 になれる人が少ないです。そこからも尚広がって行く意思のあることが 最良な強さだと思います。 失敗を恐れない。失敗が成功し続けることより最良を知れ成長するもの となることがあるように思います。

noname#87274
質問者

お礼

つまり、自分が思い描いた「こうありたい」ということを実現する過程において諦めない強さがある人が少ない…ということでしょうか。 すみません、私頭強くないもので…。^^; どんな辛い状況でも、楽観的に考え、前に進もうと自分から努力出来ることも、また強さ…ですね。 ありがとうございました!

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.6

強さにもいろいろあります。 いじめをひたすら一人で耐えて学校に通うのは、「忍耐強さ」とか「我慢強さ」と言われる類の強さだと思います。 忍耐することを覚えれば、さらに後に起こる逆境にも耐えることができるのではないでしょうか。 「弱肉強食」といいます。弱いものが簡単に滅び、強いものが生き残るという「淘汰」という現象は、生物の世界でも人間の権力闘争の世界でも同じように見かけられます。 (例) 今の日本は飽食の時代ですが、戦前戦中生まれの人達は苦しい幼少時代を過したため、丈夫です。長生きします。一方若い人はちょっと困難があるとすぐくじけてしまう傾向があります(私も若い人の部類でしょう)。たとえば飢饉が起こったとしたら若い世代は耐えることができるでしょうか。わがまま放題できる(特に今のように便利な)環境にある人ほどいざわがままの利かない状況になったら弱いのではないでしょうか。 いじめる側の方が強くいじめられる側の方が弱い。 一見そのように思われます。立場上はそうです。 しかし実際は「いじめる側」は自分より下の相手を選んでいじめるわけですから、安泰な立場にあります。だから我慢する環境ではないのです。 一方「いじめられる側」は安泰ではありません。この不安な環境下をなんとしてでも生き延びようとする。「生き延びよう」という意志は力ですよね。これはいじめる側にはないものです。 いじめに直面して相談するとか不登校になるとかいうのは「逃げ」であるとして、その作者は美化していないのかもしれません。 しかし、場合によっては相談することも不登校になることも、相手を牽制する攻撃たりえます。方法としては考慮に入れるべきかもしれません。 なぜいじめられている子供が相談しないか。 どうでしょうかね。 誰かが自分をいじめるなら、相談相手に選んだ人が自分をいじめることだってあるかもしれない。だからあてにできない。 そういう人間不信な部分もあるんじゃないでしょうか。 それが総てとは言いません。各人それぞれに理由はあるんでしょうが。 まあ「勇者」とか「兵士」とかいうのは作者が美化しすぎでしょう。 あんまり感化されない方がいいと思います。 せいぜい「訓練兵」とか「修行僧」とかかな。 本当の強さ、というと難しい。 肉体的な頑丈さもあれば腕っ節の強さもある。しかし「本当の強さ」ということばで世間一般に言われるのはメンタルな強さなんだと思います。(しかしそれが「本当」の強さなのかどうかは保証できないものですから、あんまり「本当」を信じない方がいい) メンタルな強さの究極は、「動じない」ことです。 いじめに遭って、「イヤだなあ」と思ったらすでに動じていることになります。まだまだです。 しかし、そんな究極状態に行き着ける人なんて少ないでしょう。 だとしても、苦難をものともしない人こそ「強い」のだと思います。 いろんな人を見ていると、「よくあなたそんな苦境で生きていられるね」と言いたくなる人もいます。しかし本人にとってはそんな苦しいとは思ってない。かえってケロっとしていることも結構あります。 そういう人は困難に対して慣れてしまったんでしょうね。 鈍麻になることも、強さへの道なのかもしれません。 「慣れればなんとかなる」という楽観ですかね。 「若いときの苦労は買ってでもせよ」って本当ですよ。

noname#87274
質問者

お礼

>メンタルな強さの究極は、「動じない」ことです。 こうなれたら世の中のほとんどの苦難は何でもなくなりそうですよね。 でもやはり人間だから、心があるからなかなかこうはなれない。 そう簡単には強くなどなれないということですね。 ありがとうございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.5

この方面における強さというのは、たぶんですが、柔軟さを持った強さで、「強靭」といったようなイメージが理想的ではないかな、という気がします。 鉄のような強さではなく、臨機応変に最善の道を選択しようとする勇気、といったような表現もできるかもしれません。 >いじめられても根性で耐えること? >それとも周りに助けを求められることですか? :どちらとも言えるでしょう。 耐えて乗り越えることももちろん強さですが、 キャパシティを超える前に助けを求めることもまた強さだと思います。 前者はわかりやすいですが、後者は、(「相談なんかしたって無駄だ」などと)他人を信用できないでいるそれまでの自分を乗り越える強さ、あるいは、困難に直面している自分をさらけ出す強さ、とでも言えるかもしれません。 >集団でないと何もできないので心は弱いかもしれませんが、立場だけで見るといじめる側が一番強いような気もします :いじめの本質は、自分が過去に受けてきた理不尽な仕打ちを、全く関係のない他者を同じ目に合わせることで精算しようとする精神の作用です。 つまり、内部に弱さを抱えていればこそ、それを修復するために他人にも同じような弱さがあることを確認せずにはいられない。 これがいじめの基本的な構図でしょう。 いじめる側は常に弱者であることは間違いありません。 「>立場だけで見るといじめる側が一番強いような気もします。」 とおっしゃるのは全くその通りなのですが、それを言ってもおそらく根本の解決にはつながらないでしょう。 >いじめられている子供はどうして相談しないのでしょう。 大人が頼りにならないからでしょうか。 変なプライドが邪魔をしてるんでしょうか? それともそれが「本当の強さ」だから? :一番の理由は、おそらく、相談できるということを教えられてこなかった、ということでしょう。 理屈の問題ではなく、「相談できる」と確信できるのは、過去の自分が本当に困っていたときに、(主に両親が)自分のことを気にかけてくれ、一緒に心配し、解決に至る道筋をつけてくれた、という記憶が必要になるような気がします。 親が、子の学業に対しては関心を持っていても、その心の内面に関しては「たかが子供の悩み」と軽んじてきていたとすれば、子供にしてみれば、親どころかましてや他人に相談しようという気にもならないでしょう。 大人は頼りにならないという不信感でもあるし、そういった大人に相談するなどと言うことがプライドを傷つけるという認識であっても不思議ではありません。

noname#87274
質問者

お礼

>相談できるということを教えられてこなかった 子供相談室のCMや紹介は結構色々なところで見かけるような気がするのですが…。 学校でもそのようなプリントやカードをもらいました。 昔と今で子供の世界で違ってることって何なのでしょうか。 そして「強いこと」ってどうできる事なのだろう・・・ う~ん。考えれば考えるほど難しいですね^^; ありがとうございました!

noname#80116
noname#80116
回答No.4

 思想や考えには 妥当性の是非 あるいは 有効性の有無があります。  妥当で有効な考えが 現実に行なわれるなら その状態を称して 強いと言います。  有効性を確保しているが 現実においては 既成事実としての有力の前に 無力に甘んじるという場合があります。そういう弱さがあります。有効だが無力 無力の有効というわけです。  その前に立ちはだかった現実は 有力だが 無効の事実となっている。無効の事実から発している。しかも それを――秩序の維持という名目のもとに―― 保持しようとする場合です。無効の有力というわけです。  無効の行為が 有力となって みづからの前に立ちはだかるとき 一人で解決するか 助けを求めるか それは 自分の状態や周囲の情況やによって 決めます。場合によるというわけです。  願わくは 相手のあほに対して 無効の有力というくだらぬ強さに頼らないでも生きていけるように こちらのみづからの考えの有効性を感化することです。千年かかってもです。  こちらが嘆くならば ますます嘆かわしい状態に陥り 嘆かないならば いよいよ人間ではなくなっていくという情況なのですが。悪事に対しては 子どものようであっていいのですが 考え方においては 大人にならなければなりません。  へびよりも かしこくなくては 打開していけないかも分かりませんが たぶん 公式にも非公式にも 助けあいも 必要でしょう。生徒会において 生徒たちみづからが みづからの手で 問題処理にあたるということ。ともだちと連携しあうということだと思います。

noname#87274
質問者

お礼

ありがとうございます。 >ともだちと連携しあうということだと思います。 以前はこれができていたからいじめられても一生ものの傷を心に負う子は少なかったのではないかと思います。 今のいじめは団結して徹底的に個人を叩きますよね。今までオトモダチだった子も一緒になって。 その傷ははかり知れないものなのではないでしょうか。

  • ten777
  • ベストアンサー率13% (23/167)
回答No.3

本当の強さ・・・多分、心の強さではないでしょうか?人に相談するのは弱いのではなくまだ対抗策を練っている、と考えるとまだ心は負けてませんから弱いと決めるには早いと思います。人に相談せずいじめに耐える事は強さとは違うと思います。相談していない人はきっと惨めな自分を人にさらせないからだと思いますから、強さではないと思います。(普通は相談できませんが)

noname#87274
質問者

お礼

人に弱みを見せるのってどうしても少しは抵抗があるものですよね…。 強がりもせず、素直に「助けて」と言えるのががほんとに強いってことなんでしょうか…。 >普通は相談できませんが 相談するのをためらう子が多い、ということでしょうか…。 耐えるのも相当しんどいですよね。 う~ん…難しい…。 ありがとうございました。

回答No.2

>いじめにひたすら耐えるのは本当に強いことなのでしょうか。 そんなはずないです。 それは、その小説書いた人が言いたかったことで、本当に 強いことかどうかは別ものです。それが言いたかったんで すよ、ただ。まあ、陳腐な根性ものと同じですが。 >また、いじめられている子供はどうして相談しないのでしょう。 >大人が頼りにならないからでしょうか。 そうですね。どうせ分かってはくれないとおもっているんで す。お前にも悪いところがあるだろ、反省して仲良くする んだ、暗いしか教師は言いません。学校ではいじめがあっては 都合が悪いんです。文部科学省の調査に答えなければなら ないし、教育委員会にも報告しなくちゃいけないし。 >それともそれが「本当の強さ」だから? そうは思いません。本当の男の強さは勃起です。 もっと大人になれば分かります。

noname#87274
質問者

お礼

あ、あの…すみません、書かなかった私が悪いんですが… 私は17歳女です…。あは…笑 周りを信じることは勇気がいりますよね。 信じたとしても、期待に答えてもらえるかどうかもわからない。 確かに耐えるよりも怖いかもしれません。 ありがとうございました。

回答No.1

私は「強さ」とは何かに直面したとき、そのことを乗り越える「力」だと考えます。他人や自分を幸せにする「力」もあれば、不幸にする「力」があります。どちらに「力」を使うかはその人の「価値観」によると思います。

noname#87274
質問者

お礼

ありがとうございます。 力…ですか。確かに、力のある人にしか困難は訪れないといいますものね。

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