不完全に出来ている私たちは、つい自分を中心に考えてしまう未熟さがあります。自分を外から眺めて、贔屓目なしに客観的に判断するのは難しいようです。そんな我々が、誰かから「近代的自我」などという甘い言葉で、自分たちは我々の先人達より進歩しているのだと聞かされると、ついその気になってしまうのは、悲しいけど大いにあり得ることです。
果たして近代人の「自我」に対する認識が、例えば、信長や秀吉に代表される戦国時代の野心の強い多くの武士たちと比べて、より深いレベルに到達しているのかと言うことを、私はあまり自信を持って主張することが出来ません。
プルタークの中にあるアレキサンダー大王の逸話ですが、ある弁論家が、マケドニアの民衆の前でマケドニア人の偉大さを讃える演説をして大喝采を博し、偉大な演説家として皆から讃えられたとき「マケドニア人に向かってあなた方は偉大であるという演説をして讃えられたからと言って、彼が偉大な演説家だという判断を下すわけには行かない」と言ったそうです。そんな演説家は、1960年代に「都市の論理」という本を書いて若者に向かって、「若者達よ立て」とアジって大喝采を得た羽仁五郎のようなものです。そんなことを書けば、論理の是非に及ばず若者達に大喝采を受けるのは当たり前なことでしょう。
近代人の読者に向かって、その読者をくすぐるような「近代的自我」などと言う甘い言葉を使ったからと言って、その概念がはたして意味があるかどうかの判断を簡単に下すわけには行かないと思います。一塊の百姓のせがれの秀吉がほんの一例のように、信長スクールに全国から野心がある若者達が集まってきた事実を考えると、中世のこの若者達にも、近代人にも勝るとも劣らない「自我」が在ったとも考えられますが、如何なものでしょうか。