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超自我と自我について。
皆さんが思う超自我と自我の違いってなんですか? また、超自我が強いと不都合がありますか? (教えてgooを検索した範囲での知識からですが、私はある気がします) また、自分の生活に役立てるために上記のような事をしりたい ので、心理学を少しかじりたいなと思っているのですが よみやすいオススメの書物はありますか? 是非おしえてください
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すいませんまたまたNO2.5ですNO.5で>自我が中心軸になってしまうのでワガママや横暴ということになると思います。横暴=エス中心,ワガママ=自我中心<と書きましたが初めに『エスや』を入れてください。すみませんでした。NO.5でした。
no2ですが >自我が中心軸になってしまうのでワガママや横暴ということになると >思います。 と書きましたがとっさの思いつきと個人的希望で書いたものですので 横暴=エス中心×,ワガママ=自我中心×にしといてください。
- yoshiakips
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超自我は道徳的な心で、これが強いと、~してはいけない、~するべきだ、など自分の行動にブレーキをかけます。育ちのよい人など超自我が強い人が多いかもしれません。超自我の例で言うと、「あの人は結婚してるから不倫してはいけない」とかは超自我の機能によるものと考えられます。あと、こんな風に振舞ってはいけない、なんてのもそうかもしれません。超自我が弱い人は、単に欲求をかなえるために、自由に振舞うわけです(これは自我と欲求のみで成り立っていますね)。 自我は本能的な感情、欲求(エス)を現実世界の中で折り合いをつける役割です。例えば、「あいつのゲームを取ってやりたいが、ぶんなぐって取るのが一番早いが、でもあとあと面倒になるから、ここは丁寧にお願いしてみよう」とか、「あの人は結婚してるからこういう風に落とせばいいな」とかです。戦略を立てるなんてのも自我の機能の一つでしょう。 超自我が強すぎると、制限が多く、言いたいことも言えなかったりで、欲求不満に陥るわけです。それが自覚できれば、じゃあ「これはいけないけど、その上でどうしてけばいいか」と、自我の出番になるわけです。でも自覚できなければ、体に症状が出てきたりするらしいです。ヒステリーきゅうとか便秘とか? (体の症状が全部精神に由来するものと言っているわけではありません) http://hiraiyoko.com/article/minami16.html 図解なんたらとかは読みやすそうです。あと、放送大学なんてのもわかりやすいかもしれません。
- metalogue
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超自我をエデイプス・コンプレックスに関連付けて考えてみたい。 エデイプス・コンプレックスの場面に直面した個体にとっては、意味もわからないまま(自我が未発達なため)に、「良い子であれ」という両親の強制的要求に従わせられる。自我が未熟であれば道徳を理解するいうよりは恐怖、不安、痛みがつきまとう外傷体験となってしまう。 こうした経験が外傷として心に刻み込まれて超自我を生む。そこで超自我の持つ性質としては、道徳的な仮面を取りながらも、底にこのうえない残忍性が潜むという複雑な性質を持つこととなる。 超自我が支配的な人格となると、ホームレスが街を汚すといって暴行を加えたり、学校・会社では場の空気を読めないという理由でいじめるということになる。また超自我が支配的な社会(軍隊、専制国家)は、その構成員に対してそれぞれの個性を殺すことが集団の利益だという道徳感を生み、弱者や自由を求めるものを残虐に排除する体制となっていく。 ラカンによれば、超自我の強制的要求は道徳意識とはなんの関係もないという。 超自我の道徳風の仮面に代わる真の道徳性とは、相手の痛みのわかることから来る道徳性だろう。それには自我によるコムニュケーション能力や外交能力の発達を待つしかないということかと思う。 参考までに以下の本を参照しました。 精神分析事典(R.シェママ) 精神分析と社会学(竹内均)第1章 超自我は社会規範か ラカンはこう読め!(ジジェク)第5章 自我理想と超自我
超自我と自我はフロイトが勝手に決めたことで基本的にありません。 どちらかというと融合的もしくは連続的精神の一巻であります。(アドラーの全体論より) その中で超自我は「~しなければならない」「~した方がよい」などの絶対的な精神の意図をさすようです。ただこれがどうしてそう思うのかというのはフロイトの理論以外の心理という事になります。 この超自我というのは特に知性や理性などに代表されるもので正常に日常を送っていくのに必要不可欠な存在で、普段の生活の普通とでもいう一面を持っています。もしこれが発達していなか、方向性を間違えエスもしくは自我に常にイニシアティブギアー(主体)が入るようになってしまうと、超自我が補助役になるわけです。もしこのように超自我が補助役になってしまうとエスや自我が中心軸になってしまうのでワガママや横暴ということになると思います。横暴=エス中心,ワガママ=自我中心 というこになると思います。ただ我々も基本的にはエスや自我にイニシアティブギアーを入れたりしていますからあながちどれがよいというのは言えないと思います。もしエスにギアーが入らなければ食事を取ることも生きることもしなくなるわけですから別にエスや自我を中心に生きていくということはよいわけです。 超自我が強いと不都合がありますか?という話ですがまあこれは価値観問題であなたが不都合があると思えばあるしないと思えば無いだけの話です。あなた自身の不都合がなにかわからないので書きようがありませんがよく言われるのは超自我によって他の心理が抑圧されてしまうことだそうです。例えば悪徳宗教と超自我を融合させてしまったりなんていうのはやはりまずいのではないかと思われますし、犯罪に融合するというのもどうかと思われますが?どうでしょうか?
- hakobulu
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素人なので非常に大雑把な印象としてよりお話できないのですが、人間の精神性を ・快・不快に関与するエス(本能) ・損・特に関与する自我 ・善・悪に関与する超自我 の3層にわけて説明しようとするのは、フロイトに源流を持つ『精神分析学』の基本的なアプローチのようです。 たとえば、生まれたばかりの赤ちゃんはエスの塊ですが、1歳半ぐらいから自分とは違う他者を認識しだすことによる自我の芽生えがあり、その後、躾などによって善悪の区別を覚えていくのが超自我の発達。 自我というのはエスの欲求と、それを押さえる超自我からの要請を受け止めて検討し、実際にどのように行動するのかを決める、言ってみれば対外的(社会的)な顔のようなものと思っていいでしょう。 超自我というのは、エスを野放しにしない役割を持っているわけですね。 お金をいっぱい手にしておいしいものを食べたいとか、服を買いたいと思うのはエスですが、だからといって他人のお金を黙って持ってきてはいけないと考えるのが超自我。 超自我の未発達な人はエスの欲求のほうが強いために、自我としてもエスの言い分に押し切られてしまい、結果としてよくないことをしてしまいます。 大体は超自我がエスを押さえるために、そういうことにはなりません。 このように超自我というのはエスを押さえる力を持っているわけですが、これが大きすぎると「抑えつけすぎて」しまいます。 エスというのは悪い要求だけをしてくるわけではありません。 人を愛したり、おいしいものを食べたいと思ったりする、人間として自然な快適さを求めるのもエスの力です。 たとえば幼児期における両親の躾が厳しすぎると、どんなエスの要求も抑えつければいい、とその人の自我は勘違いしてしまいます。 その結果、エスの根源である生命力自体までもが抑えつけられすぎて疲弊してしまうことがあるようです。 詳しくはわかりませんが、「>不都合」というのはこういうことではないかと思われます。 素人なので適切な書物をお勧めする力はありませんが、「精神分析」で検索してみれば(ネットでもこのサイトでも)参考になるものが見つかるかもしれませんね。