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心と身体の相互の影響を心身二元論で説明できるか?
まだ哲学について勉強し始めたばかりなので上手く説明はできませんが、わたしはできないと思います。 二元論について考えれば考えるほど、自分でもよく分からなくなってくるのですが・・・。 みなさんはどう思いますか? 理由も書いていただけると嬉しいです。
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- aidlii
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理科系ですので、コメントするのもどうかと思いますが、もしも読んだことがなければ、アンリ・ベルクソン「物質と記憶」を読まれたらいかがでしょうか。今なら、何種類か、入手しやすい訳があるようです。こういう本は、どうせすぐに品切れでしょうから、すぐに読まないまでも、買っておくといいかも知れません。 すでに読んでいたら、無用なコメント、ゴメンナサイ。
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
通常は『心』とは「自我意識」の事を指して言っています。自分で考えて、自分で身体を使っていると思っています。人間の意識は『一つ』しか認識できていません。 処が『人間が本当に自我意識(自分の心)或は自分の意思』で物事に取り組んでいる姿があります。その姿とは『精神疾患』の事です。 例えば「神経症」というものが有ります。これは「自我意識」だけで世の中を渡ってゆこうとしている事です。一例を挙げるなら『書徑』というものが有ります。これは一度人前で字を書こうとして『手が震えて書けないことがあって、今度は自分一人になったときに、もう一度書こうとした時に書けなくなってしまうことです。 吃音というものがあります、是もどもらないで話そうとして、話せなくなってしまうことです。他にも沢山有ります。上がり症、不安神経症、パニック障害、他にも沢山の症状が有ります。 ですがこれ等のものに共通している事が有ります。それは『自我意識だけで、身体を使おうとしたり、世の中を見たり、自分の心を制御』しようとすることです。 もっと他の言い方をするならば、『意識のし過ぎの状態で生きている事。とも言えます。又他の言い方をするなら、四六時中意識し続けている事』と云っても良い状態です。 この事から導き出される事が有ります。「人間の苦しみは、心が固定され続けている状態」「意識が或るものに固定される事」とも言えます。 『精神疾患』というものは「心が流れなくなった」状態とも言えます。この事を、心と身体の相互の影響を心身二元論で説明できるか? という事で説明してみます。 精神疾患の原因は、心の対立と矛盾の事です。これは心が偏った所に定着している事です。心の対立と矛盾とは、自我意識と「無意識の意識」の対立と矛盾のことです。 精神疾患の元は自我意識がそれだけで、単独に生きてゆこうとしている事です。その事で、『無視された無意識の中の意識』が抗議をしている状態と言えます。或は『アピール』をしている状態とも言えます。そのアピールを自我意識は『罪悪感、違和感、生き難い想い』として受け取ります。 自然な心とは「平常心」の事です。これは歩いている時にも判ります。健常者の歩きは、手が足がどこに有るかとかは「意識していません」水泳などを憶えるときの事を考えてください、憶えるまでは手の位置、足の位置など、考えて憶えてゆきます。憶えてしまえば手も足も「意識」していません。是は『無為識の意識』に任せているからです。 それに引き換え『精神疾患』の人の毎日は「100メートルも上空に畳をひいてその上を歩いているようなものです。」だから同じ事をしていても疲れてしまいます。 中国の諺に『ムカデが意思して歩いたら足がこんがらがって、歩けなくなった」と言うのが有ります。その事が『意識して』書く、話す、暮らしてゆく。という事に成ります。それが『心の』一面です。心と身体がばらばらになっている状態です。 それは,とりもなおさず心の二元論と全く同じと言えます。身体にも心が有ります。それは人間を働かせているものと云っても良いかと思います。その人間を働かせているものの『意思』と『自我意識』との認識の違いを『人間は精神疾患の症状として、或は人間苦』として受け取っています。その事を解消させるものが『悟り』です。 お釈迦様の言った『悟り』とは、精神疾患も、人間苦も全て解放させるものです。不自由なストレスだらけの『人生』を自由に生き生きと、心安らかに、安楽に生きてゆくための『精神療法』とも言えます。 二元論から『苦しみが』始ります。良いものと、悪いものを二つにして見ていたものを、一つのものとして捉える事。それが『救い』とも言います。身体を、心を、自分を働かせているものを、直に捉える事。その働きそのものが『仏性』つかみにくいと言えます。
心と体を区別して考えるのは幼児的妄想です。 3~4歳で克服します。 したがって哲学的回答があるかどうか怪しいです。