「二元論」をどこまで厳密に扱うかによって、結論は違ってくると思いますが、「個人と社会」は近代の経済活動を論じる際には、興味深い二元論の対象となり得るのではないでしょうか。
質問者の意識(意志)として、このテーマに対して「二元論」を採用した場合の論旨の明晰さ、面白さ、奇抜さ等から判断してみてはいかがでしょうか。
構成の従属関係から言えば、個人と社会は絶対的背反の関係ではないので、電気の正負や男女の性別のような意味での「二元論」を採るのは難しいと思います。(別の回答者の通りだと思います)
しかし、精神と肉体、あるいは意識と物質、のような関係と似たものとして論じるならば意味があるのではないでしょうか?(あなたが唯物論者ならば、肉体が無ければ精神も存在しえない、物質が無ければ意識も生まれてこない、というように、これらは疑似二元論である、と考えるかも知れませんが、歴史的にこのテーマは通常「二元論」として扱われてきましたので、この意味で「二元論」という言い方をすれば、それなりに本件のテーマに関して面白い分析が出来るのではないでしょうか?)
もとのテーマを二元論で考察するのは個人的には有意義だと思います。
俗っぽい視点からでも、法人(会社)と個人、国家と個人、中国(共産主義的?)国家資本主義と「自由主義的」国家資本主義と個人との関係など、「二元論」的な分析・考察から新しい見方が可能かも知れません。
お礼
経済学的見地から、さらに考えてみたいと思います。 回答有難うございます。