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二元論に関して
二元論に関して “個人と社会”は近代の経済活動を論じる際に、二元論の対象となり得ますか?(哲学に疎いので易しい解説をお願いします^^;)
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質問者が選んだベストアンサー
「二元論」をどこまで厳密に扱うかによって、結論は違ってくると思いますが、「個人と社会」は近代の経済活動を論じる際には、興味深い二元論の対象となり得るのではないでしょうか。 質問者の意識(意志)として、このテーマに対して「二元論」を採用した場合の論旨の明晰さ、面白さ、奇抜さ等から判断してみてはいかがでしょうか。 構成の従属関係から言えば、個人と社会は絶対的背反の関係ではないので、電気の正負や男女の性別のような意味での「二元論」を採るのは難しいと思います。(別の回答者の通りだと思います) しかし、精神と肉体、あるいは意識と物質、のような関係と似たものとして論じるならば意味があるのではないでしょうか?(あなたが唯物論者ならば、肉体が無ければ精神も存在しえない、物質が無ければ意識も生まれてこない、というように、これらは疑似二元論である、と考えるかも知れませんが、歴史的にこのテーマは通常「二元論」として扱われてきましたので、この意味で「二元論」という言い方をすれば、それなりに本件のテーマに関して面白い分析が出来るのではないでしょうか?) もとのテーマを二元論で考察するのは個人的には有意義だと思います。 俗っぽい視点からでも、法人(会社)と個人、国家と個人、中国(共産主義的?)国家資本主義と「自由主義的」国家資本主義と個人との関係など、「二元論」的な分析・考察から新しい見方が可能かも知れません。
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- mmky
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“個人と社会”は近代の経済活動を論じる際に、二元論の対象となり得ますか? 常識的には成りえないですね。 個人の集合が社会ですから、社会経済学は個人の消費(経済)行動の統計的処理という見方が正しいと思いますね。 つまり二元論のように相反するものではなく統計的従属性のものという意味です。
お礼
なるほど。回答して頂き有難うございます。
- 来生 自然(@k_jinen)
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究極の二元論という概念ならば、ものごとの根源が二つあり、それぞれが独立していて、片方から他方は生み出し得ないという事になろうかと思います。 したがって、物質と心(意識を含む)とが二元論的に扱われる場合もあり得るわけです。 個と全体についても、よく似た状態にあるでしょう。 私が一人しかいない世界(個)に、貴方という人間がもう一人(個)加わったとき、「全体」=「個」+「個」という図式のみでは説明できない「何か」が「社会性(社会的)」という枠組みで捉えうるものになるでしょう。 そのことをもって「二元論的だ」という考え方で捉えるのもいいかもしれませんが、「個」と「全体」とは、それぞれが独立し得ない関連性で結ばれているということ。そうして、「社会的」という概念が、そういった関連性の一部として捉えられているということを考えるべきでしょう。 「全体」を構成する「個」が2人の時よりも、3人、4人・・・と増えるに従って、「社会性」という枠組みで捉えうる概念は、大きく変化していくことでしょう。 「全体」の中に、小さな「集団」が形成されているならば、「個」と「全体」との間には、大きな隔たり(ないし乖離)が容易に形成されうるでしょう。 そうすれば、ますます「二元論的」に捉えられるように思えるかも知れませんね。。。
お礼
分かり易い回答を、ありがとうございます(^ ^)
お礼
経済学的見地から、さらに考えてみたいと思います。 回答有難うございます。