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人生は運である
君と僕が幾憶幾兆の確立を勝ち抜いて生まれてきた事に異論はあるまい。 そうとも人生は運じゃないか。容姿やら才能みたいな先天的な事は勿論そうだし後天的なもの全てだって運さ。 僕が今君とこうして喋っているのも運の賜物。 君と僕が高校最初の日に隣同士の席になったのは運さ。 僕らが同じ高校を選んだのも運。 だって君の事は知らないけど僕があの高校を選んだのは12月の模試で僕の第一志望がC判定だったからだけどさ。 あの時がんばって勉強するか妥協するかを選んだのは確かに僕の意思だ。 だけど意思ってなんだ?意思だって結局は運じゃないのか? この世界の出来事は全部偶然で運なんだよ。 僕の中学3年の冬の意志は先天的なものと15年と3ヶ月の経験によって生まれたんだ。 その15年と3ヶ月の僕の周りの環境を決めるのは運しかいないさ。 3歳の時滑り台から落ちた事が僕の人格形成にどれほど影響しているか知らないが、そういう無数の偶然が折り重なって出来上がったのが15歳と3ヶ月の僕の意思だったんだよ。 あの時がんばろうと思っていたとしても、それをさせたのは運さ。 努力しようという意思を決めるのは今までの環境だからね。 勿論その努力が継続しなくてもそれは自分のせいであると同時に今まで生きてきた環境に問題があるんだ。 もちろんその原因を責任にするほど僕は馬鹿じゃないけどね。 僕が今、君にこうしてクドクドと人生は運だと喋っているのだって運だよ。 明日僕が重い腰を上げて面接に行こうと決意したとしてもそれは運だよ。 でもさ、そう考えると今君が有名国立大学に通っているのも結局運だよね? そりゃ勿論君は努力したさ。ただその君の努力さえも君の先天性と人生経験がそうさせた訳で、君ががんばれたのも運じゃない? 僕が私大に落ちて浪人を決めたのも運だし予備校行くの止めたのも運だよね? だから君と僕の違いは何かっていうと君は運が良かっただけだよね? だってもし君が僕として生まれてきてたら君は今僕なんだから。 ↑の文章は正しいでしょうか?間違っているでしょうか?
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- ri-zyu
- ベストアンサー率30% (184/611)
運だと思います、生まれ持った気質も含めて。 だから絶望に陥ったとしても自殺するに及ばず、成功しても驕るにおよばず。逆境の時も順境の時も淡々と生きればいいのではと思います。 幸福も不幸も用事なし、絶対他力という処でしょうか。
- lexanblue
- ベストアンサー率27% (26/94)
人生運命論というのがあるのかもしれない。 確かに生まれた時から、その人の運命は決まっているのかも知れない。日本の国に生まれたのも運。努力をしてある人生の方向をみつけたとしても、それも運。むしろそこで努力することすら運かもしれない。その努力がむくわれて希望の職業につけるのも運、いい家庭をもてるのも運かもしれない。そして戦火の中で死ぬことなく、平和な世の中で暮らせるのも運、まあそこそこの人生だったなと思って死ぬのも運かもしれない。 最初から、どうせ運なんだから何にもしなくても同じだから努力をしないのも運、その結果、やりたくない職業をいやいややるのも運、酒におぼれて、身を持ち崩すのも運、体を壊すのも運、最後は、すべてを失ってホームレスになるのも運、結局すべて運だよね。
人生が運であるというのは、ドライブは道であるというのと同じくらい間違っている。 走った道を描くのは容易だが、それは結果だからだ。 評論家が済んだ試合の解説をするように、アナリストが終わった相場の開設を するように、後講釈を垂れるならば、「人生は運」という話になる。 それじゃ聴くが、今後将来、キミは自分に与えらた運をどういう風に見極める? そうじゃない。人生は選択なのだ。自分の選択の結果描いた軌跡を運と言う名で 呼ぶだけだ。厳しい選択、困難な選択、安易な選択、逃げの選択。そういうものの 積み重ねで人生は出来ている。 どんな過去であろうと実は未来はそれに影響を受けない。 そういう重要な事実を知ることが実は人生を自由自在に生きる鍵だったりする。 運を敢ていうならば、そういう発想に至る時間の短さということだろうか。早く気が付けば運がいい。
- boke-chan
- ベストアンサー率22% (137/604)
間違っていないと思うけど・・・、 あえて言うとすれば、 自分が自分である事の、最高の運の良さを認めてない事かな。 60年後に再度、君と僕が大学卒業以降の人生を 会話したら、どんなセリフになるだろうか?
正負論でいえば正でしょう。 これは多分頭のいい人が描いたんじゃないかと思いますが違いますか? 発揮し言って哲学的に見れば正です。 多分心理学的に言うとどこかで希望を求めている無意識があって、それに対する諦めている精神状態で、なんとか言い分けで食いつないでいるという分析がでるかと思いますが、この文章に間違いは見当たらないでしょう。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
>↑の文章は正しいでしょうか?間違っているでしょうか? :と問われれば、正しいとしか言いようがない。 今の自分という存在は、自分に降りかかった過去の環境をどのように受け止め、どのように咀嚼してきたのか、というその一点にかかっている。 これを否定できる人は誰一人としていないだろう。 その環境からの刺戟が、本人のキャパシティを超えて過剰であった場合には、押しつぶされるのは理の当然ですから運が悪かったということになる。 その意味で、この文章の内容には何の誤りもない。 「この世界の出来事は全部偶然で運なんだよ。」と君は言う。 これは多少修正の必要がある。 「この世界の出来事【の始まり】は全部偶然で運なんだよ。」と。 こうすれば君の言うことはほぼ完璧に近くなるだろう。 君自身の始まりもまた運であった。 そして、その運に流されるまま君は生きてきたことになる。 それ以外の真実がどこにあるだろう。 誰もみな同じだ。 しかし、それでもなお、あえて私は言おう。 君は最も重要なことを忘れているように思われる。 「(今まで)そうであった」からといって、 「(これからも)そうである」ということにはならない。 その過去と未来の間に、ちっぽけではあるが、紛れもなく根を張る意志というものの存在。 君は鼻で笑うだろうか。 笑いたければ笑うがいい。 しかし、その時は、陽のぬくもりも、青葉の陰も、燃える陽炎も、ひたむきな雪も、すべてを笑い飛ばす覚悟が必要になるのではないか? つまみ食いのように、いいとこだけはしっかりキープしといて、手に余るものだけ邪険にするのは、赤ん坊がダダをこねるのと大差ないんじゃないかな。 みんな平等に運によってもたらされたもののはずだ。 しかし、咀嚼して吐き出されたものは、すでに君の手垢がついている。 君自身が責任を持って引き受ける以外に、だれに何を期待しようというのだろう。
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
この発言をなされた方は、 因果関係は認めているようです。それまでの原因と結果の積み重ねによって、今現在の意思決定の幅があることにも気付いているようですね。そして今の意思決定によってその後の意思決定の幅を変える原因を作れるとも取れる発言もありますね。 そしてその自己の選択できる幅において悪い方向に行くことを「運が悪い」善い方向に行くことを「運が善い」と言っていることから、現在の選択の幅によってどちらに行くことも出来るといっているようにも感じます。 その幅を決める原因と結果の蓄積があるのならばさかのぼっていけば、自己の蓄積によってこの現在が造られているといっても善いかもしれません。 つまりここで言う「運」とは現在の選択可能な意志の幅のことで、今後よい境遇になるのも悪い境遇になるのもその幅によって「精進によって」変えられるという明るい考え。ならば識者の賞賛すべきことと感じます。仏法(パーリ語の)にそぐうものと感じます。 もし意思の幅さえないと言うのであれば。もう邪見としか思えません。何者かのコントロールの元において自分の意思がないと言っているようなものですからw これは全ての結果と原因を他者の責任にする思考にしかなり得ませんね。自己の責任と言う概念が消え去り道徳は何一つ成り立たなくなります。殺しも盗みも嘘も強姦も何もかにも正当化されます。 これは恐ろしい邪見で自己も他者も多く苦しみをうむ邪見です。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
縁起って言葉を研究してください。 縁起しだいで運はコントロールできます。 脳のコントロールの話に置き換えると何を記憶してその記憶にどのような衝動(感情)を与えるかどうかです。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
↑の文章は正しいでしょうか?間違っているでしょうか? 完全なる間違いですね。 理由は、あなたの文章にあります。 「だってもし君が僕として生まれてきてたら君は今僕なんだから。」 これがありえないから完全なる間違いということですね。 君が僕として生まれることもないし僕が君になることもないからね。ロボットのプログラムじゃあるまいし、ありえないことだからね。だから偶然でも運でもないんだよな。みんな実力が違うということだけなんだよな。それを認めるしかないだろうね。努力の結果でしかないんだよね。それが今回の人生数十年の努力の結果でないことはいろんな分野において月とすっぽんほどの違いを見るにつけ理解できるよな。
- mijinco
- ベストアンサー率25% (87/346)
上の「文章」だけでは未完成なので、正しいか間違っているか判断できません。「文章」の次に 「…で、それはそうとこれからどうしよう(どう生きよう)」 とつなげ、その答えこそが、「正しいでしょうか?間違っているでしょうか?」と考えてみることだと思います。
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