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味の種類を知ると、味覚が豊かになる?
たとえば、今日新しい味の種類を知った場合、それまでまったく気づかなかった新しい感覚を手に入れたことになりますか? 質問がちょっと変でごめんなさい。 言語学を少し絡めて教えてください。 よろしくお願いします。
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- tsuyakka
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言語学との絡めかたは分からないのですが、味覚的に新しいジャンルを手に入れるかというと、それはありません。味を知る感覚は人それぞれ感度に差があり、生まれ持ったものなので、鍛えたからといって良くはなりません。舌が肥える、味オンチなどはその差で分かれるのです。でも、いくら感度が良くても、味覚を形成する幼少期にきちんとした食事をしていなければ、狂った味覚の舌になってしまいます。(たとえば本来甘味を感じるはずの部分が辛さをかんじてしまう、塩っぱいものが甘く感じる、など)・・・味付け、風味的に知るということなら、手に入れたといっていいと思いますが・・・。
- neil_2112
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失礼ですが、質問者氏ご自身がよくわかっていないことを質問なさっているので、質問それ自体が意味のわかりにくい文になっています。言語学との関係、ということから推察すると、実質的には「言語と認識や概念をめぐる関係」についての質問だと思いますので、簡単に説明します。 質問は味覚に関するものですが、同じことですのでよく引かれる虹の例を紹介します。 日本では虹は7色から成るものと相場が決まっていますし、実際に7つの色で表現します。しかし世界的に見るとこれは案外一般的ではなく、英語圏では藍色のない6色と見るのが一般的ですし、ある言語学関連の書籍には、虹を3色とする例、さらには黄色系と青色系に大別して2色とする言語の例が示されています。 虹自体は光学的な現象ですから、地域が変わっても物理現象としての虹の実体に違いはないはずです。3色と見ようと10色に見ようと虹は虹です。同じ実体をどのように分節し概念をあてはめるか、という認識の違いがあるわけです。 この違い、つまり光のスペクトルのように本来連続したものをどこで分節して認識するか、という問題は、そのまま世界をどう認識するかという問題とつながります。こういった「認識」は、言語と密接な関係にあるとされます。 ソシュール以降の近代言語学によれば、認識とはすなわち言語そのものである、とされます。「言語に依存しない概念も事物もない」というのがそのテーゼです。あるいはメルロ=ポンティ流に言えば、「言葉は認識のあとにくるのではなく、認識それ自体である」ということです。 わかりにくいかも知れませんが、ここに“見る、感じる”といった「感覚」が「言語」と関係する、はっきり言えば言語の介在を要する必要があるのです。 裏から言えば、ものごとの概念というのはアプリオリに存在するのではなく、言葉によって分節され、その他のものと差異化されて初めて認識されるということになります。つまり、我々は現実を認識するためには、言葉を本質的に必要とするのだということになります。 ご質問に即して言うと、「新しい味覚」を得るということは、言語によって「既存の味覚群」との差異が明確化され分節化された、ということです。つまり、本来同じ虹という存在を、6色で見ていたが、従来「紫」としてグルーピングしていた色から、「藍」という言葉によって「藍」という新たな概念が分離して認識されて7色になった、という事態とほとんど同じことなのです。 ご質問の「知る」という意味が、味覚という平面が新しい言葉によってより細かく分節されるような事態であるとすれば、それは新しい認識が生まれることあたかも一枚の紙の裏表のように全く同じことであり、一般には感覚が「豊か」になったと表現できるものではないでしょうか。 虹とは逆の例になりますが、我々日本人はみぞれ、あられ、といった雪を表現する名称を少ししか持っていませんが、例えばイヌイットは数十種類の表現を持っていると言われます。それは生活上の必要性が生んだ必然とは言え、同じ雪を見た時の彼らはより豊かな世界を見ている、つまり彼らの雪の感覚が豊かである、と言えるのではないかと思います。
なると思います。 初めてなまこを食べた時、牡蠣を食べた時、ドクターペッパーを飲んだ時、 ライチを食べた時、ナタデココを食べた時・・・ 味覚も感覚ですから、新たな体験を手に入れたという意味では 当てはまるのではないでしょうか。
お礼
牡蠣おいしいですね。 今は飲みたいと思いませんが、夏はドクターペッパーのファンです。 ライチも好きです。 ナタデココ入りのゼリーを3日に一度は買います。 回答ありがとうございました。 味覚の趣向が似ていますね!
- ginga3104
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なると思います。 約30年程前にアメリカ製(だったと思う?)のラズベリー味の飴を食べた時ことが有ります。その頃、日本にはそんな味の飴は有りませんでした。「ヘンな味」と思いましたが、子供心に「アメリカ人はこんなのが好きなんだー」と思いました。 その時に嗜好は環境によって変わるのだなと、おぼろげながらに感じました。つまり、私にとって味覚とは絶対的感覚だったものが、嗜好というものが有る事を知って、そうではないかも?と、いう捉え方に変わった瞬間だったと思います。 こんな答えで、趣旨に沿ってますでしょうか?
お礼
丁寧に回答ありがとうございます。 僕の考えのあいまいなところも整理していただけました。 実はそういうことをいいたかったのです。 昔テレビのある特集で、アフリカの先住民を扱ったものがありました。そこで、数の概念の話が出たのですが、彼ら原住民は「1、2、たくさん」という数え方しか持っていなかったのです。これは、その社会を運営していく上で数の概念が余り必要とされなかったため、数に関係する言葉があまり発展しなかった結果でしょう。 1から、億以上の数を知り、その複雑な性質を知るようになった現代人は数という面で豊かになったような気がします。同じように、味についても「言葉を多く獲得すれば豊かになる」と思い、質問したのでした。 「豊かになる」というより、「そのものにより親しんでいる」と言ったほうがよいのかもしれません。 回答ありがとうございました。